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第5話 一歩ずつ
冷蔵庫を覗いてもさっきの光景が浮かんできてしまう。
完全に付き合ってるよね……あんなに気軽に得意先の店に入れるはずがない。あの女性店員も工藤さんのこと「潤」って呼び捨てにしてた……。
やってらんないなぁ……見せつけられてさ。こっちが出向いたんだから仕方ないけど、あんなタイミングで遭遇することまで計算してなかった。文鎮のこと調べる隙もなかった。
文鎮以前の問題……また諦めるか……はぁ、もう何回目……ノンケを好きになっちゃいけないって頭ではちゃんと理解しているし学習もしているのに……。
豚肉のパックと野菜を取り出して、無造作に冷蔵庫を閉めた。
明日からは上司と部下、うん、それ以上でも以下でもない。今ならまだ大丈夫。ほんのかすり傷で済みそう。気持ちの奥で憧れるのはいいとしよう。でも絶対に表には出さないこと。それが自分への約束。
だけどあのハンカチどこで落としたんだろう……。
細切りにしたピーマンとオクラを豚肉で巻きながら、自分の今日一日の行動を思い返した。あのときもあったし、あのときもちゃんと手を拭いたし。
ハンカチを使用している場面を思い返すたびに巻く肉が増え、あっという間に冷凍用にと思っていたもうひとパックも使ってしまった。
フライパンでこんがり焼き色をつかせた肉巻きから湯気が昇っている。一日の疲れと空腹、そして外の寒さを考えると今から来た道を辿る気なんて全くしない。
明日でいいや、もう腹ペコだし。でもあのハンカチ、数百円のものだけど、駅で工藤さんに拾ってもらったやつなんだよな。だから特別扱いしてたのに。
だけど、そんなこといちいち覚えてて思い続けてるなんて、絶対変だよね。もう三十路を迎えようとしている人間が、バカみたいだ……。
そうだ、きっとこれは絶ち切れって教えられてるんだ。叶わない思いを消せって。分かってるよ、分かってるけど、今までずっとそんな気持ちの繰り返しで……。
一度くらい僕にだって本当の恋が巡ってきて欲しいよ。ああ、誰か迎えに来てくんないかな……世間の常識なんか破り捨ててギュって抱きしめてくれないかな。
そのとき、ドアの前で軽い咳払いが聞こえた。隣の人かなと思いながら皿に盛りつけていると、ドアベルが鳴らされた。
「はい、少々お待ちください」
回覧板かと思い、さっと玄関ドアを開ける。すると隣の住人ではないシルエットとネクタイが目に入り、ぐっと見上げると、工藤潤が強張った顔で立っていた。
「え……工藤、課長……」
「すみません、急に、先ほどはどうも」
「い、いえ、こちらこそ……あの、どうかされました、か?」
「これ」
潤が差し出したのは、春が落としたタオルハンカチだった。
「あ……っ、これ、ありがとうございます、っていうことは」
「うん、あの店の床に落ちてました」
「すみませんっ、わざわざ」
「いやいや、同じとこに住んでるんだし、ぜんぜん」
「工藤課長にお手数をおかけしてしまって」
「俺はぜんぜん」
「アジール・フジさんの方にもご迷惑でしたね、また謝罪させていただきますので」
「ああ、俺がまた言っとくからわざわざはいいよ」
「いやでも工藤課長に申し訳ないです。僕の失態ですし、その」
「あ、あのさ、その課長って言うの、やめてもらえませんか?」
「ぇ…………っ」
「あ、いや、会社では仕方ないとしても、今はプライベートな時間だし、なんか俺そういう呼ばれ方あんま好きじゃないっていうか」
「……分かりました、ごめんなさい」
「謝らなくていいよ、ああ俺も急にため口で、なんか馴れ馴れしいよね」
「僕はぜんぜんいいです、部下ですし、年下ですし」
「今は部下じゃないじゃん、寂しい言い方しないでよ」
「……ぇ……、ぁ、はぃ……」
「……ぃ、や、そ、そういう、なんていうか、そういう意味じゃなくてっ」
頭を掻く潤の姿を見ていると、春の胸の中に何かがつっかえた。
……そういう意味じゃなくてって、どう解釈したらいいんだろう……。
でも、もしかすると変な方向に勘違いして欲しくなくて言ったことかもしれない。男にはそういう興味はないってバリアを張っているのかもしれない。
またいつもの僕の独りよがりだ、きっと。
「わかってます。大丈夫です。今日は本当にありがとうございました」
春は、ドアノブに手をかけた。勝手な思い込みで迷惑をかけることなんてできないし、惨めな思いを積み重ねたくなかった。
潤の体が動かないことに違和感を感じ、見上げると、潤は一点を見つめていた。
「あ、の……工藤、さん」
「ぁぃや、な、なんか、いい匂いするね」
「え、ああ、肉巻き作ったので」
「えらいねえ自炊か、料理できる人尊敬する」
「いえ、あ、良かったら少し持って帰られますか? けっこうたくさん作ったので」
「え、い、いいの、催促したみたいで申し訳ない」
「ハンカチのお礼も兼ねてです。ちょっと待って下さいね」
春がキッチンに戻ろうとすると、後ろから声が飛んできた。
「あ、あのさ、こういうとき、普通、一緒に食べましょうとか、じゃなくて?」
「…………」
春は聞こえた言葉の意味をちゃんと知りたくてゆっくりと振り向いた。
「ごめん、厚かましいよね、ひとんちで晩飯食っていきたいなんて、パワハラだよね」
「……ぅふ、いいですよ、今は上司と部下じゃないんですからパワハラじゃないですよ」
春の言葉を聞いた潤はニコッと笑い、玄関にそろっと入って来た。
「じゃお言葉に甘えて」
狭い玄関で大柄な潤が近づいて来ると、春は胸がぐっと狭くなり咄嗟に避けた。
潤が玄関に置かれた空の段ボールに足を取られて少しだけ前屈みの姿勢になってしまった。その途端に二人の顔が近づいてしまった。
「…………っ」
春は自分の顔が熱いことを感じた。潤の頬もなんとなく赤いように見えた。
「ご、ごめん……」
「あ、いえ……」
少し屈んだ潤の背中越しに誰かが立っている姿が見えた。
「何してんすか?」
廊下には菊谷悟志が立っていた。
「菊谷君っ」
春の声に反応して潤が廊下の方に振り返る。
「菊谷、お前、どうしたんだよっ」
悟志はきょとんとした顔をしている。
「いやいやいや、工藤さんがここにいるってどういう風が吹いてるんすか? ご近所付き合いにしちゃなんか変な感じっすね」
「お、お、俺は、落とし物を届けに来たんだよ、お前こそ何だよ」
「何だよって、水井さんに用事があって来たんす、水井さんちでしょここ」
「そうだけど、よ、用事って何だよ」
「何でもいいじゃないすか、ね、水井さん」
潤が春の方にまた振り返って心配そうな顔を浮かべた。
「僕も菊谷君が来るなんて知らなかったんだけど」
「実は……飯食いに来ましたぁ、なんちゃってぇ」
「菊谷お前な!」
「なんで先輩が怒るんすか? 意味分かんないっす、保護者かって勢いっすね。水井さんとなんかあったんすか?」
「そ、そ、それは、その」
春は、ひどく動揺している潤に代わって口を開いた。
「僕ね、就職した会社が工藤さんの会社で、工藤さんが直属の上司だったんだ」
「ぇえ、えええっ!」
悟志は目と口を大きく開けてのけ反った。
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