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殿紫苑と朽ち果てろ春
遊郭モノ
* * *
甘たるい匂い。煌びやかな衣。うぐいす張りの床を足袋が行き交い麗かな音が鳴る。艶めいた中に用はなかった。何度か通い詰めて、目的を果たせるのはおよそ半分。今日は。
竹箒の音が止まる。居た。会えた。早く指名しなければ、早く指名しなければ追い出されてしまう。しかしすぐには決められなかった。妓郎の名前がひとつも出てこない。
あの子は俺を見て会釈をする。あの子から口を利くことは許されない。俺はただ戸惑って、会釈するあの子に応えられなかった。俺はこの瞬間に下男を無視する腐った客になる。
「お……はよう」
朝昼晩、時間に問わずこの世界ではこの挨拶のはずだった。変ではないはずだ。
「おはようゴザイマス」
16歳と聞いた。同い年だが2つは下に見える。竹箒を抱き締めるような仕草に俺は息の詰まる思いがした。早く指名をしろと守衛がやって来ているような気がする。
「今日の出入りはどうだ」
大玉の醤油飴みたいな目が俺を見上げた。透き通っている。
「ごめんなさいデス。そういうことは、よく分からなくて」
それはそうだ、店のことを知りたいなら楼主や若衆に訊けばいい。わざわざ下男に訊くことではなかった。
「い、いい天気だな」
「……はい」
絶対にいい天気ではなかった。寒い。室内にいる俺は温かいが、外仕事の彼の鼻は赤く、指先も妙な薄紅色を帯びている。俺がここから離れなければ彼は客を相手にしている手前仕事をこなせず叱られるのだろう。しかしせっかく会えた。まだ何か話したい。口下手なりに、沢山、人と話しておけばよかった。
「名前、教えてくれ」
もう少しだけだ。守衛がもうそこまで来ている気がしてならない。早く指名をとれ、冷やかしなら帰れと。出入り禁止なってしまったらもう会えない。
「片喰 と申しマス……?」
彼は自分の名前を言うのに首を傾げてしまった。
「ありがとう」
やっと今日名前を知れた。片喰さん。片喰さん。片喰さん。早く、誰でもいい、妓郎を指名して、無害な客にならなければ。俺はうぐいすの鳴く床で踵を回す。早く、妓郎を……選ばなくては。俺は冷やかしに来たのではなく、俺は遊びに来た、金払いのいい、無害な客だ。毎日通い詰める、無害で存在感のないしがない客だ。
「またお越しクダサイマセ、春紫苑サマ……」
俺は都合の良い幻聴を聞いているのかと思った。顔が赤くなる。
* * *
領主の超絶美青年スパダリ陰キャ一途ドラ息子×奉公人わんわん系を想定。
床夫(造語)妓郎(造語)逢魁(造語)が出てこない。
2021.1.3
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