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第2話「冷めないうちに入ろうか」
オレの名前は青野渚。「「なりたい」を纏う」をコンセプトにしたジェンダーレスファッションブランドのショップで働くアパレル店員だ。
このショップにはオレが学生の頃からアルバイトでお世話になっていて、その流れで有り難いことにこの春から「正社員」として採用してもらえた。新入社員として働き始めて一ヶ月と少しになるがやっぱり、バイトの頃に比べたらやることも責任も増えたなぁって感じる。
毎日、やってくるお客さんのコーディネートのお悩みを訊いて商品を紹介したり、新作を紹介したり、商品のディスプレイ考えたり、ごく稀に冷やかしされたり、時々オーナーやバイトちゃん達のお悩みを訊いたり。大変だけど楽しい日々を過ごしている。まあ楽しいと言いつつやっぱり疲れるんだけど。
ヘトヘトに疲れて家に帰っても、その後家事を頑張れるのはこの春から一緒に住み始めた恋人の存在が大きいと思う。だって、頭の中にその人のことを思い浮かべるだけでなんだか力が湧いてくるんだもん。愛の力って凄いなって思う。
オレはそんなラブパワーを実感しながら、洗濯物を取り込んで――畳むのは恋人さんがやってくれる――お風呂を洗ってお湯を沸かす。同時進行で今日の晩ご飯のメニューを考えていると、スマートフォンが鳴った。
浴槽に落とさないように気をつけながらスマートフォンを取り出すと、「今から帰る」とメッセージが送られてきている。相変わらず短いメッセージだなぁ。なんてことを考え、オレは「了解」と親指を立てているクマちゃんのスタンプを送る。そして、なんだか胸の辺りがふわふわしてスマートフォンにキスをする。してから恥ずかしくなってオレは変な声を上げて顔を覆った。
こんな所を見られちゃったらきっと引かれちゃうだろうな。
まだ、オレ達キスもしたことないし。
浴槽にお湯が溜まっていくのを眺める。ゆらゆら揺れるお湯を見ているとなんだか頭の中に色々溢れてきた。
オレの恋人さん――香坂昭彦さんは十歳も年上の男の人だ。見た目も性格も――青色に髪の毛を染めてチャラチャラした性格のオレとは真逆で、クール、スタイリッシュ、ザ・真面目って感じの人。本当に、付き合えたのが不思議なくらい、オレ達は逆さまだ。
でも、びっくりすることにオレの告白に香坂さんはOKしてくれた。あるカミングアウトと共に。
香坂さんは過去の性行為でトラウマがあるそうだ。そのせいで、行為をしようとすると萎縮してしまう。恐怖さえもあるという。だから、オレと付き合っても「そういったことはできない」と香坂さんはオレに打ち明けた。
もしかしたら、こんなことを言われたらショックを受ける人もいるかもしれない。でも、オレは違った。むしろ、「あ、香坂さんがオレにとっての運命の人なんだ」って思った。
オレも、そういうことには嫌な思い出があったから。
中学生の頃から香坂さんと出会うまで、何人か女性とお付き合いしたことがあった。オレは、その子と居るだけで楽しくて。手を繋ぐだけで、ハグしてキスするだけで幸せだった。
でも何故か、付き合っていた子は全員、それ以上を求めてきた。
こちらとしてもそれは気分が悪いものではなかった。だけれど、なんだか触れあっている最中はオレの中身というか心ではなくて、外側の身体だけが求めているようなそんな気がして、なんだか胸の中が空っぽになるような、そんな感覚になってしまうのだ。
そうやって付き合って、別れてを繰り返すうちに、デートしているときの方が、一緒に美味しいもの食べて、買い物して、面白い映画見て、写真撮って思い出を残して、それを二人で見ているときの方が、セックスをしているときより遥かに心が満たされているのだと気が付いた。言葉で愛を交わし合って、目と目を合わせて手を握り合うだけで、オレは十分気持ちいいのだ。
でも、デートの後に必ずみんな口々に言うのだ。「今日家に誰も居なくて」「終電なくなっちゃった」「ちょっとそこで休憩していこう」「ちょっと酔っちゃったかも」――その他諸々エトセトラ。
疲れてしまった。そう言うと、それは可笑しいと友人に散々言われた。本来はお前がリードするべきなのに彼女にそんなことを言わせるなんて。性欲がない男などいるはずがない。プラトニックラブは幻想だと。散々言われてきた。
一緒に居たいから。それだけの理由でお付き合いをするのは可笑しいことなのだろうか。そう思う自分は可笑しいのだろうか。そうもやもやしていたときに出会ったのが、香坂さんだった。
店の近くで不良に囲まれてたじたじしていた香坂さんを助けて、後日「お礼をさせて欲しい」と香坂さんが、オレがバイトをしている店にやってきたその日から、香坂さんとはご飯を食べに行ったり、休日一緒に買い物に行ったりした。そのうちにどんどん香坂さんに惹かれていって――気が付けば好きになっていた。
気持ちが抑えられなくなる反面、頭を占める大きな不安。香坂さんも、今まで付き合った子みたいにことある毎に身体を求めてきたらどうしよう。でも、オレは香坂さんのことが好き。大好き。だから、求められたら応えるしかない。
そんなことを思っているオレに香坂さんは心底申し訳なさそうに自信のトラウマを打ち明けてくれたのだ。だからオレは全力で香坂さんに伝えた。オレは香坂さんと――昭彦さんと一緒に居られればそれで幸せだって。そう伝えて、自分の過去のことも、思っていたことも伝えた。すると彼は安心したようにくしゃっと笑ってくれた。それが今でも忘れられない。
そんなオレ達だから、付き合ってから一度もセックスはしていない。全くもって不満はないし、なんなら一緒に暮らし始めてからは同じベッドで寝ているからそれだけでオレは大満足だ。香坂さんはハグや手を繋ぐことには抵抗がないみたいだから、時々抱きしめさせて貰うと心がポカポカした状態で眠りにつける。
しかも、最近はなんと一緒にお風呂に入るようになった。これは、オレのお風呂好きだということがばれてしまってから日課になっている。ちなみにオレのお風呂好きはバスボムやバスソルトを集め、気分によって毎日違うボディソープを使い、何も言われなければ小一時間は余裕で湯に浸かり続けるレベルだ。
なんだか恥ずかしくて同棲してからそれを隠していたのだが、ある日泡風呂入浴中に香坂さんが浴室に入ってきてばれてしまった。その時に半分冗談のつもりで一緒にお風呂に入ることを提案したら、香坂さんが提案に乗ってくれたのだ。で、ばれた日から夕食前、香坂さんが家に帰ってくると一緒にお風呂に入るようになったのだ。
これが自分でも驚くくらい幸せな時間で毎日の楽しみになっている。自分の好きなことを好きな人と共有できる時間はオレにとって至福の時間だし、何より香坂さんとゆっくり話ながら浸かるお風呂は気持ちが良い。
もう、文句のいいようがないくらい満たされた毎日を送っている。そのはずだ。そのはずなのに――不安になる。
さっきのスマフォにキスしちゃったみたいに、衝動的にキスとかして香坂さんに引かれちゃったらどうしよう!
オレにとって、キスはコミュニケーションだ。小さい頃からとーちゃんにもかーちゃんにもねーちゃんにも挨拶代わりにキスをされて育ってきた。そのせいか、オレもキス魔なところがあるみたいで、じーちゃんちで飼ってたペロ坊にも――白の雑種犬だ――昔の彼女の家にあったぬいぐるみにも、可愛い物には割と見境無しにキスしてしまう癖がある。
これは、香坂さんにはまだばれていない癖なのだが――お風呂好きと違ってこれは香坂さんのトラウマスイッチを踏んでしまう癖なのではないかと思ってばれないか今かなり不安なのだ。
香坂さんがハグまでは大丈夫なのは知っている。だけど、キスはしたことがない。だから、香坂さんにとってキスが「OK」なのか「NG」なのかわからないし……なにより、香坂さんは可愛いのだ。
今までも年上の恋人はいたが、香坂さんみたいに可愛い人は初めてだ。普段はかっこよくて大人な男性なのに、疲れている状態でお酒が入ると年下、というかちっちゃい子みたいになる。駄々はこねるし、甘えん坊になるし、泣くし、よく笑う。それがなんというか……母性本能みたいなのをくすぐられて、大声で叫んで抱きしめまくってキスしまくりたくなる可愛さなのだ。
しかも、一緒に暮らしてわかったのだが、香坂さんは酔っているとき以外も時々滅茶苦茶可愛くなるのだ。あぁ見えて結構ドジっ子だし、本人は気付いてないみたいだけどかなり天然だし。本当に「可愛い」と海に向かって叫びたくなるレベルで突如オレの可愛いポイントを突いてくる時がある。
これは危うい。愛おしいがあまりにキスして結果引かれて「サヨウナラ」まで行ってしまったら元も子もない。それに、香坂さんを傷つけるようなことだけは、絶対にしたくない。
十分に、たっぷりとお湯が張られたのを確認してハンドルを回す。蛇口から溢れ出た一滴がお湯に落ちて波紋を作っていくのを見ながらオレは溜息を吐いた。
「ちゃんと話した方が良いのかな」
前に、スマフォで「プラトニックラブ」について調べたことがある。身体でのコミュニケーションや繋がりがない分、言葉でコミュニケーションを取らなければならない。そうオレが見た記事には書いてあった。
だから隠し事は無しで、香坂さんには全部話さないといけないのだと思う。でも、それを話すことで香坂さんがオレに対して申し訳なさを抱いてしまったら?
この前、お風呂好きがばれたときだって、最初、香坂さんはオレが香坂さんに隠れてお風呂で自慰をしているのではないかと勘違いをしていたみたいで、それについて凄く悩んでいたみたいだ。
きっと、自分のことを責めたに違いない。「自分のせいで、渚くんに気を遣わせている」なんて、考えたに違いない。香坂さんは真面目で、責任感が強くて、とても優しい人だから。
香坂さんを悩ませて、苦しませてしまうかもしれないから話すのはダメ。話さずやらかしてしまっても勿論ダメ。身動きが取れない。これが、板挟みってやつか。違うかもしれないけど。わからない。
本当に、毎日幸せでいっぱいだけど不安やわからないことでもいっぱいなのだ。こんなに真面目に恋をしたのは、初めてだから経験なんて物も全く役に立っちゃくれない。
「あー! どうしたら良いんだろう!」
「何か、悩み事かい?」
「ひょあ!?」
背後から聞こえた声に飛び上がる。慌てて振り向くと、そこには目を見開いた香坂さんが立っていた。
「しまった! お出迎え! おかえりなさい!」
「ただいま……どうかしたのかい。なんだか、頭を抱えて悩んでいたみたいだけれど」
「えっと……それは……」
「仕事の悩みだったら、私は職種が違うから力になれるかはわからないが……」
「大丈夫! だいじょーぶだから、お風呂入る準備しましょ! ここに長居したらスーツも湿っちゃうし!」
オレは無理矢理香坂さんを浴室から連れ出した。けれど、これはオレにも解る。完全に香坂さんに疑われている。疑うというか、心配されてしまっている。
これこそまさにコミュニケーション不足だ。これが関係性のもつれに繋がり、破局の道へ、と読んだ記事にも書いてあった。
「こ、こーさかさん!」
オレはスーツを脱いでハンガーラックに掛けている香坂さんに話しかける。香坂さんは自分の寝間着とオレの寝間着腕に抱いて首をかしげた。お風呂に入る準備万全だ。
香坂さんもオレと一緒に入るお風呂が好きみたいで、いつもお風呂の前には楽しそうにしている。この前なんて、気分やその日の疲れ具合、肌のお悩みによって入れる入浴剤や使うボディソープの種類を変えるオレに「お風呂ソムリエだね」「渚くんの話しを聞いていると知識が深まって楽しいよ」なんて言葉を掛けてくれた。オレも楽しくなってついつい色々話してしまう――いや、今話すべきはお風呂のことではない。
オレは香坂さんの眼を見つめてゆっくり口を開いた。
「あ、あの……こーさかさんの言うとおり、悩み事が、あるんだけど」
「うん」
「お、お風呂の、中で話す……」
「わかった。お湯が冷めないうちに入ろうか」
香坂さんに促され、オレ達は再び洗面所の方へ戻る。お風呂に入る前だというのにオレの頭の中はもう煮立ってしまっていて、今更悩み事をお風呂で話すと香坂さんに誓ったことを後悔した。
洗面所に着くとオレはいつもの棚を開ける。その名も「お風呂コーナー」。オレこだわりのボディソープにシャワージェル、それと入浴剤とバスソルト、スクラブなんかが入った棚だ。この中からその日ごとに違う種類のバスグッズを選び使っている。
毎日帰る必要はあるのかと思われるかもしれない。ただ、複数ソープや入浴剤を買ってわかったのだが気分によって嗅ぎたい香りは違うしその日の肌の調子によって使いたい物が変わるのだ。ショップの人によると石けんとジェルでは保湿力とかが違うらしいし――なんか、男の人は皮脂が出やすいらしくって保湿力より洗浄力! らしいけれど――入浴剤もシュワシュワ溶ける奴とミルクタイプの物、バスソルトでは効果が違うみたいだ。オレはその辺気にせずほぼ香り重視で決めてしまっているけれど。
ちなみにシャンプーとリンスに関してはオレと香坂さんでは互いに毛質が違うし、オレに関してはカラーもブリーチもしているためそれぞれにあった物を使っている。
本当は香坂さんの髪からもオレが使ったシャンプーと同じ匂いがしたら、なんか幸せだなぁと感じるけれど、そこは我慢だ。というか、同じソープと同じ入浴剤を使ったらそれだけでおんなじ匂いがするから満足である。
まあ、今はそんなことも考えられないレベルでパニック状態なのだけれど。
「今日は頭の中をスッキリさせたいからミントの香りの石けんです!」
「そんなに悩んでいるのか渚くん……!」
「入浴剤はレモン! スッキリしたいので!」
「いや、悩んでいるかどうかは別としてスッキリしたいだけか……?」
服も下着も脱いだオレは爽やかなミントの香りがする水色のジェルが入ったボトルと、レモンがパッケージに描かれた入浴剤を手に持ち浴室へ向かう。直ぐに風呂釜の蓋を開けると入浴剤の封を切り、黄色い楕円型を湯気が立ち上るお湯の中に静かに沈めた。
シュワシュワという音と共に塊が溶けていく。この音と溶けた入浴剤がお湯に溶けて色々な色に染まっていくのを見るのが好きだ。
オレの実家は海の近くにある。本当に歩いてちょっと行けば海があるようなそんな家。そこで毎日、跳ねるような波の音と時間によって色々な色に染まっていく海を見て育った。それを思い出すのだろうか。なんてセンチメンタルなことをこの時間には思ったりするのだ。
少し落着いてきた。オレに気を遣ってか全裸で棒立ちしている香坂さんの方を見て「ささっと身体洗っちゃいましょうか」と声をかける。すると香坂さんは何処かぎこちなく笑ってお風呂の椅子に座った。
多分滅茶苦茶シリアスなことで悩んでると思われてるんだろうなぁ。キスしたいというか、キスはOKラインかっていうのを訊きたいだけなんだけど。話したら違う意味で引かれる気もしてきた。
レモンの爽やかな香りが浴室中に漂う。なんだか頭がシャキッとしてきた気分を味わいながら、頭を洗い、洗顔をし、ジェルの入ったボトルを手に取った。泡立てネットにトロトロとジェルを落としていく。ネットに垂れた思い切り泡立てると水色の液体は白い泡へとかわり、辺りには清涼感の溢れる薄荷の香りが広がった。
香坂さんにもボトルを手渡すと彼は自分の掌にジェルを落とす。一緒にお風呂に入り始めて知ったのだが、固形石けんじゃないとき、香坂さんは自分の手でソープを泡立てて手で身体を洗うタイプみたいだ。香坂さんは掌に乗せたジェルの匂いを嗅ぐと両手を重ね丁寧に泡を立て始めた。
「本当にスッキリする香りだね」
「でしょ! オレこれ、朝シャンで使うのも好きなんだぁ」
「朝に風呂へ入ることがないからあまりわからないけれど、朝風呂も良いものなのかい?」
「きもちーよ! 熱い日とかは特におすすめ! でもでも、オレはゆっくりできるし夜のお風呂のが好きかな」
足の裏までしっかり洗って顔をあげるとこちらを見る香坂さんと目が合った。ハッと息を呑むと香坂さんはすっと眼を細めた。
香坂さんは普段はメガネを掛けている。だから、メガネを外したら周りがぼやけて見えるはずだ。今のオレの表情は、香坂さんには見えていたのだろうか。なんだか恥ずかしくなって、オレは俯きながら桶でお風呂のお湯を掬うと勢いよくそれをかぶった。
そのまま香坂さんより先に湯船に浸かる。お湯に浸かると温かなお湯に身体を包まれた。爽やかな匂いだが、清涼タイプの入浴剤ではないからお湯は温かいし身体も温まる。いつもはリラックスするはずなのに、さっきの香坂さんの表情を思い出すと変に身体と頭が熱くなってのぼせそうな気さえしてきた。
「大丈夫かい、渚くん」
遠慮がちに湯船に入ってくる香坂さんのために浴槽のスペースを空ける。そのスペースに滑り込むように入ってきた香坂さんは心配そうにそう訊いてきた。正直大丈夫かといわれれば微妙だ。色々爆発してしまうかもしれない。
でも、言葉不足のせいで香坂さんと険悪になったり、香坂さんを傷つけたりする方が遥かに嫌だ。
「だいじょーぶ!」
オレの言葉に香坂さんは静かに「そうか」と呟き、水面を見つめた。オレをあまり緊張させないように目を合わせないで居てくれているのかな。そう思うと、頭の中に色々溢れてきた。
レモンとミントの匂いが混ざる。実家の喫茶店で、夏になるといつもレモネードを出していたのを思い出した。お客さんが少ない時間になると、かーちゃんがオレに「特別よ」といってお店で出しているものと同じレモネードを作って飲ませてくれた。黄色くて甘酸っぱいレモネードの上には鮮やかな緑色をしたミントが乗っていて、それが、大好きで――
「大好きなんだ、昭彦さんのこと」
溢すようにそう言うと、香坂さんは「ありがとう」と呟き僅かに身体を動かす。お湯がちゃぽん、と静かに音を立てた。
一度溢すともう栓が外れてしまったみたいで、オレは顔を上げじっと香坂さんのを見つめながら言葉を溢し続ける。それに併せて、香坂さんも顔を上げるとしっかりとオレの眼を見つめた。
「オレ、本当に、昭彦さんのこと好きで、」
「うん」
「好きだから、傷つけたくなくて……でも、好きな気持ちが溢れてきて、どうしようもなくて、オレ……」
大きく深呼吸をする。そして、オレは声を張り上げた。
「オレ、昭彦さんとキスしたい! です!」
浴室中にオレの声が反響する。恥ずかしくて顔を覆うと香坂さんは何やら口ごもり始めた。「あれ」や「ん?」等の声が聞こえる。やはり、キスはNGだったか。そう思って肩を落としていると香坂さんは目元を覆うような――そこにはないメガネをあげるような仕草をしてから改めてオレの眼を見つめた。その眼は困惑を訴えている。
「や、やっぱりダメだよね! ごめん、変なこと言って」
「いや、そうじゃなくて……あぁ、わかった」
何がわかったのだろう。
「渚くんは覚えていないんだね……あの時酷く酔っていたから……」
覚えていない? 酔ってた? 一体何のことだろう。オレが混乱していると、香坂さんは口元に手を当てて笑い始めた。クスクスと、楽しそうに。
「あのね、渚くん。実はもう私は渚くんに、その……キスされたことがあるんだよ。そのときに、君がキス魔ってことも聞いているから……私もキスだけなら大丈夫だから、我慢する必要はないよ。さすがに、四六時中したいと言われれば考えるけど」
「え……えぇ!?」
去年の秋、香坂さんがオレの下宿先へ来て一緒にお酒を飲んだことがあった。
実はそのとき、最初から今働いているショップ――当時のオレのアルバイト先に就職する予定ではなかったオレは、三月から就活をはじめ、連敗し続け――この企業に内定をもらえなかったらオーナーに頭を下げて今のバイト先で働かせてもらうか、実家に帰って喫茶店を継ぐかと考えていた企業から、見事、「お祈りメール」を貰った直後だった。
今思い返せば「オレ向きではない」感じの企業ばかり狙っていたし、結果としては今の仕事が自分に合っていると思うのだが、当時のオレは滅茶苦茶へこんでいた。そんなはずないのに、めっちゃ真面目に「自分は社会に必要とされてないのかな」なんてネガティブになるくらいに。ぐちゃぐちゃメンタルになっていたオレは結果が出た後、すぐに香坂さんにメッセージを送って家のベッドで泣いていた。
自分の憧れでイメージカラーである青色に染めていた髪を真っ黒にして、堅苦しいスーツ着て、ピアス穴を隠すようにしながらニコニコ笑って。いったいオレは、何をしていたんだろう。そんなことを思いながらずぶずぶ闇に沈んでって、ご飯を食べる気はおろか、お風呂に入る気すら起きなくて。ずっと泣き続けていたオレの耳に飛び込んできたのは、部屋のチャイムを鳴らす音だった。
時刻は午後八時半。インターフォンを除く。するとそこにはスーパーの袋を握りしめ、肩で息をする香坂さんが立っていた。
「渚くん、遅くなって済まない! 今日中に片付けないといけない仕事があって……」
部屋に入った香坂さんは荒い息を吐きながらそういうと、今まで見たことがない必死な顔をしてスーパーの袋をオレに突き出した。
「飲むぞ、渚くん!」
缶ビールや缶チューハイ。それにお惣菜とつまみが大量に入ったスーパーの袋。それを見たオレはなんだか無性に嬉しくて、首が取れるくらい頷くと香坂さんと一緒に暴飲暴食をしまくった。
オレもそのことは覚えている。だが、何本目かのチューハイを飲んだあたりから本当に記憶がない。朝起きたらベッドの上に転がっていて、机の上には香坂さんからオレの長所やオレに対する日々のお礼、励ましの言葉なんかがA4のルーズリーフ二枚にわたって綴られたお手紙が置いてあった。それしか覚えていない。
だが、香坂さんが言うには、そのとき急に、酔ったオレが香坂さんに対して、オレがいかに香坂さんを好きか、特にどこが好きかをプレゼンし始めたらしい。恥かしい。多分、就活での面接やグループワークなんかを引きずっていたのだと思う。しばらく香坂さんについて語った後、オレは急に香坂さんのおでこにキスをし始めたそうだ。何度も「かわいいねぇ」といつもより高い声で言いながら。
「そこで渚くんは「自分はキスが挨拶代わりの家庭で育ったせいか可愛いと思ったものや人にキスをする癖がある」と……「実は香坂さんにも衝動的にキスしたくなるときがある」「急にキスしても自分を嫌わないで欲しい」という話しを……聞かせてくれてだね。そこで私も、君には我慢して欲しくないし、キスならそこまで抵抗がないからという話をしたんだ。昔、実家で猫を飼っていたから、可愛らしいものに口付けしたいという渚くんの気持ちはわからなくはないからね」
「話してた! 今日話そうとしてたこと全部話してた!」
しかも、もうすでにやらかしていた。
オレは安心したような逆に絶望したような変な気持ちになってお湯の中へ沈んでいく。あまりお行儀は良くないがお湯の中で唇を震わせて泡を立てていると香坂さんは笑顔のままオレの方へ手を伸ばしてきた。その手はそのままオレの濡れた頭の上に着地する。
「覚えていなかったようだから、素面の時にまた話せて良かったよ……それに、私のことを気遣って……話すか話さないかもかなり悩んだんだろう? 嬉しいよ。私のことを、そこまで考えて、思ってくれていたなんて。話してくれてありがとう。渚くん」
そう言って香坂さんはそのままオレの頭を優しく撫でる。お風呂に入って血行が良くなっているからだろうか。手が温かくて気持ちが良くて、そして何より香坂さんの優しい眼を見つめているせいで――
「の、のぼせそう……」
「だ、大丈夫かい!?」
「こーさかさんがかっこよすぎて、のぼせちゃうって!」
オレは叫ぶと勢いよく湯船から出て香坂さんを置き去りにしたまま浴室から出た。濡れた身体は冷たい空気に一瞬で包まれた。そのはずなのに身体はまだ熱いままだ。
なんだか身体中がムズムズしてふかふかのバスタオルで思い切り身体を洗う。すると、樹脂パネルの扉を挟んだ向こう側。浴室の方からオレの名前を呼ぶ声が聞こえた。
「明日、渚くんも休みだろう? 今日は久しぶりに一緒に飲まないか」
「……酔ってキスしちゃうかもよ」
「いいよ」
「……頑張ってご飯作るから、ゆっくりお風呂入っててください」
「私も手伝う、」
「今、恥ずかしくてこーさかさんの顔見られないから!」
大声で言ってオレは急いで身体を拭いて服を着る。
「……可愛いなぁ、渚くん」
背後から水音と共にそう聞こえてオレはまた声を張り上げた。
「こーさかさんだって可愛いし!」
浴室の方から慌てながら暴れるような水音が聞こえて、オレは笑いながら洗面所を後にした。
「話すのって大事だな。やっぱり」
夕食のカレーを食べた後、オレは香坂さんと肩を並べバラエティ番組を見ていた。机の上にはキッチンの引き出しから出てきたジャーキーと、買いだめしていたビールの缶が二本。お互いマイペースにそれを飲み食いしている中で、オレはぽつりとそんなことを口にした。
「そうだね。やはり互いに言葉でコミュニケーションをたくさん取ることが重要だと、前回と今回のことがあってより実感したよ」
「それなー。あと、やっぱりオレ気付いたんよ。お話しするのにお風呂って最適なんじゃない?」
「それは、どうしてそう思うんだい?」
「裸じゃん。お風呂入ってたら。何にも隠せないからさ、心の中の秘密ややましいこともやっぱり隠せなくなっちゃうんじゃないかって思うのよ、オレは。実際、オレの秘密暴露も二回ともお風呂だし。あと、お風呂に入るとリラックスするからいつもより話しやすいんじゃないかって」
実際、香坂さんもお風呂だと普段言わないような、言ってくれないようなことを話してくれる。会社の愚痴とか、悩み事とか。お酒なんか無くても本音が言い合える。そう考えるとお風呂って凄いのではないか?
「お風呂で取るコミュニケーション……湯浴みケーション的な!」
「よくそんな語感と語呂の良い適格な言葉が作れるね」
「思った。オレ天才なのかも」
そう香坂さんに笑いかけると、また香坂さんに頭を撫でられた。もしかして、と思って一瞬出すことを躊躇った言葉を俺は口にした。
「もしかして、こーさかさんってオレのキス癖と同じ感じで撫で癖がある?」
「……かもしれないな。すまない、渚くんが可愛くてつい。その、子ども扱いしているわけではないのだが……」
「だいじょーぶ。こーさかさんに甘やかして貰うのオレ好きだからもっと撫でて!」
両手を広げると香坂さんは眼を細めて目一杯俺の事を撫でてくれた。飼い猫のこともこんな感じで撫でていたのだろうか。やけに子どもっぽい笑顔でオレを撫でる香坂さんが愛おしくて、オレは首をかしげた。
「キスしたい」
香坂さんの手が止る。何かの覚悟を決めたように目を瞑って硬直する香坂さんに顔を近づける。
香坂さんの身体から懐かしいレモネードの匂いがしてオレは胸の中がいっぱいになる。幸せだな。それを噛みしめるように、オレは香坂さんの皺が寄った眉間に、朱色に染まる頬に軽く、何度もキスを落とすのだった。
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