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第3話「嫌なことは、お湯に流しちゃいましょ!」
「では、香坂くんには三原課長の代わりが見つかるまで、課長代理ということで! よろしく頼むよ!」
部長から告げられた突然の言葉に、私は思わず心からの「は?」を漏らしてしまった。
「課長代理!? つまり、こーさかさん、昇進ってこと? すごいね!」
「そうだったらよかったんだけどね……いや、よくはないんだけど……」
温かい湯が身体に溜まった疲れを溶かしていく。うっとりと眼を細め、ピンク色の湯を手で掬うと勢いよく顔を洗った。
今日のお湯はローズの香りだ。渚くんがいうには職場の同僚が旅行先で買ってきてくれたものらしい。他のメンバーのお土産は紅茶なのにもかかわらず自分だけは入浴剤だったそうで、それを心底喜んでいる渚くんを見て私は思わず顔をほころばせてしまった。彼は職場で、自分に理解のある人たちに囲まれているようで安心した。
それに比べて私の職場は――また溜息が出てしまった。
「こーさかさん、偉くなったんじゃないん?」
「違うんだ、これが……」
思い出すだけで辟易する部長から下された「課長代理」への任命。名前だけ聞けば役職に思えるがその実は「次の課長が決まるまで前任者が担っていた仕事をやってもらう」という意味での「課長代理」であり、役職でも昇格でも何でもない。つまり、給料は変わらず、仕事だけ増えた状態だ。
「それってめっちゃ大変じゃん! え、なんで? 前の課長さんどうしたの?」
「春の健康診断で異常が見つかってね。精密検査をしたら悪性腫瘍で……歳も歳だしもう退職して治療に専念するって事になったんだ。それが急も急だったから、次の課長を誰にするかっていうのがすぐに決まらないみたいでね……」
その穴埋めを誰かしなければ、となったときに部長が閃いたのが最近我が社ではやりの「若手が輝く」の実践だった。管理職を長年勤める中年層だけではなく、若手にも担って貰うことで、実力のある若手を育てることが目的らしいこのスローガン。その標的にされたのが、人事部で二番目に若い私だった。
「流石に入社二年目の子にこの役を回すのは酷だということでね」
「でも……役職じゃないんでしょう? なんか、やってることがずれてる気がするんだけど」
「今の渚くんの言葉を我が上司に聞かせてやりたいよ……」
しかしそれは叶わず、恐らく叶ったところであの部長様は自分が正しいと言い張るだろう。それはこの際諦めるより他はない。
ただ、このことで懸念することが一つ。
「仕事が増える関係で、しばらくの間は残業時間がさらに伸びると思う……そうなると、」
口にすると本当に「そう」なってしまうような気がして、一瞬声を出すのを躊躇う。悲しげな子犬のようにしょんぼりとする渚くんを見るとさらに言い出しにくいが、私は意を決して口を開いた。
「そうなると、渚くんと一緒にお風呂に入ることができない日も、増えてくると思う」
一言一言、区切りながら、奥歯を噛みしめながら彼に告げると渚くんの絶望の声が浴室に響き渡った。風呂場だから声がよく響く。彼の悲しみに染まった声が鼓膜をゆらす度に目頭が熱くなった。
春から始まった彼と共にする入浴。それはもう私の中では生活の一部で、ストレス発散の術で、何より渚くんと過ごす大切な時間の一つになっていた。そんな大切な時間がなくなるかも知れない。由々しき事態である。
嬉しいことに渚くんにとってもこのことは一大事であるらしい。眉をハの字にした彼は波紋を立てながら私の方ににじり寄ってきた。
「オレ、入る時間ずらすよ?」
「渚くんは立ち仕事だし汗もかく。早く汗を流して疲れを取りたいだろうから、私に合わせる必要はないよ」
「でも、オレ……」
渚くんはグッと言葉を飲み込む。次に来る言葉が容易に想像出来て、原から悲しみが込み上げてくる心地がした。
「わがまま言ってられないよね。わかった。遅くなる日は先にお風呂入って、ご飯作って待ってるから」
想像通りの言葉。渚くんに我慢はさせまいと強く思っていたのに。今更、部長の言葉にNOを返すことが出来なかった自分を叱りつけたくなった。
「早く仕事を終わらせて、一日でも渚くんと別々にお風呂に入らなければならない比を減らせられるように頑張るよ」
「うん! 無理せず、頑張ってね」
悲しげに、それなのに明るく笑ってくれる彼に私は一分でも一秒でも早く家に帰ってくることを心に誓ったのだ。
誓った、はずなのだけれど――。
「それじゃあ、香坂さん。お先に失礼します」
「はい。お疲れ様です……」
申し訳なさそうにオフィスを後にする同僚を見送る。溜息を吐いて当たりを見渡せば誰も座っていないオフィスと自分の机の上に詰まれた書類が目に入った。
全く。残業時間を減らそう等と宣っているのにもかかわらず、人事部の人間が残業をしているとはどういうことだ。心の中で文句を言って苦笑したところで仕事は減らない。
もう一度溜息を吐いてから、私はパソコンへ向かい来週行われる新卒向けの合同説明会の資料の見直しと修正の作業へと戻った。過去の説明会で就活生から出た疑問を補うよう追加説明を入れたり、逆に不要だと思った部分を削除したりする。さすがに私一人だと視点が偏るため、ある程度弄ったら別の社員に意見を煽がねばならない――のだが、今日はもう私以外は全員帰ってしまったから、確認は明日して貰おう。
これが終わったら、今度あるあれのお知らせを作って、その前にさっき来たメールに返信をしないと。明日の新入社員との面談で話す内容もある程度決めておかなければならないし。定時間際に部長から頼まれた「明日までにやっておいて」の仕事を終わらせて、後それから――。
果たして今日はいつになったら帰ることができるのだろうか。そもそも今は何時だ。ぐらつく頭を抑え、パソコンに表示された時間を見てみると現時点で二十時を回っている。
ちなみにこの会社の終業時刻が十八時。残った仕事を終わらせるのに最低でもあと三十分程度はかかるとして――もうこんな状態が数日続いている事も考えると、今月の残業代が少しばかり楽しみにさえなってしまい、私は薄暗い事務所の中で一人小さな笑い声を上げた。
日中の業務では絶対にしない行動にさらに笑いが込み上げて来る。私はか細い笑い声を上げながら説明会の資料データを保存しメールソフトを開いた。きっと、「人事部のオフィスから不気味な笑い声が聞こえる」という噂が流れるのも時間の問題だろう。
ぼんやりと考えていた頭に雨音が響く。タイピングをしていた指を止め、席を立つ。窓の方へ寄れば、夜の街を照らす光に反射する雨粒が見えた。
この辺りは最近例年より数日ほど早く梅雨入りしたらしく、ここ一週間の間ずっとどんよりとした天気が続いていた。灰色で泣きべそをかき続ける空は、まるで私の心を投影しているようであった。
梅雨は嫌いだ。
ちょうど、母が亡くなったのも梅雨の時期だったからだろう。毎年この時期になると何か嫌なことが起きるのではないかと、特に何も起きなくても身構えてしまう。まあ、今年は私の不安が的中してしまったわけなのだが。
ぼんやりと雨を眺めているとポケットの中が振動する。中にあるのはスマートフォン。取り出してみると、メッセージアプリの通知が来ていた。
送り主は――渚くんだ。
曇っていた頭の中が一気に晴れる。私は素早くアプリを起動すると渚くんのメッセージに飛びついた。
『お仕事お疲れ様! 今日はいつ帰れそう? 今日の晩ご飯はカレー! お風呂は帰ってからのお楽しみです! 先にお風呂入ってご飯食べて良い子に待ってるから早く帰ってきてね』
読むだけで心が温まるメッセージと共に送られてきた、拳を突上げている柴犬のスタンプ。思わず先程とは違う笑い声が溢れ、私はグッと背伸びをした。
「早く、帰らないとな」
渚くんが家で待っている。一緒にお風呂に入れなくても、一緒に過ごし、一緒に寝ることが出来る。それだけでもやる気が湧いた。
だが、やっぱり――
「一緒にお風呂、入りたいなぁ」
その呟きは打ち込まず、私は渚くんに返信をすると仕事に戻った。
「こーさかさん、おかえりなさい!」
玄関を開けると同時にラベンダーのような良い匂いと心地よいぬくもりが私の体を包み込む。雨で冷え込んだ夜の街。その中を歩き冷え切った身体を渚くんが包み込んでいるという今この状況がまさに幸福で、私はゆっくり目を閉じる。
「わっ! ダメだよ、寝たら! ほら、濡れたスーツ干したげるから脱いで、脱いで。お風呂温め直したからそのままお風呂入っちゃっていいよ」
「今日のお風呂は……」
「ラベンダーの入浴剤にオレンジのソープです! 疲れてるだろうからリラックス仕様にしてみたよ」
「いつもありがとう……」
「俺はこーさかさん専属のお風呂ソムリエだからね!」
元気いっぱいの、太陽のような笑顔と共に渚くんは私の体から濡れたジャケットを剥ぎ取る。私は濡れた犬のように身体を震わせてから、のそのそと脱衣所へ向かった。すると、脱衣所に広がるラベンダーとオレンジの清々しい匂い。私はそれを胸いっぱい吸い込んで、今日も私のためにお風呂を用意してくれた渚くんに感謝した。
渚くんと一緒にお風呂に入らない日が続くようになってから気が付いたのだが、入浴という行為は酷く面倒くさい。
まず大前提として服を脱がねばならない。これがそもそも面倒くさい。髪を洗う行為も、身体を洗うのも、やり始めれば身体が清められる快感が勝るがやるまでは倦怠感の方が勝っている。
疲れているせいだろうか。最近は入浴が面倒だと思うことが多くなり、そんな思いが強くなっていってしまっているのだ。
もし、渚くんと一緒に住んでおらず、彼が毎日甲斐甲斐しく入浴剤とボディソープをセレクトしてくれない環境で今のような多忙に追われてしまっていたら。きっとお風呂に入らない日が二、三日程度は平気で続いてしまっていただろう。
私が不潔極まりない姿で出勤するような醜態を犯さないで済んでいるのは渚くんのおかげだ。それをやっと晴れてきた頭の中で強く実感する。お風呂から上がったら、彼にこの感謝をちゃんと口で伝えなければ。
私は強く決意して服を脱ぎ、眼鏡を取ると浴室に入った。
爽やかで優しいハーブの匂いが鼻を抜けていく。それだけでまた瞼が重くなってきてしまった。
「……今日は湯に浸かるのは止めておこう」
もしも、湯船で寝てしまったら渚くんに心配をかけてしまうし、最悪の場合も考えられる。以前、入浴中に寝てしまいそのまま亡くなった社員の葬儀に参列したことを思い出し、私は溜息を吐いた。
せっかく、渚くんが入浴剤を選んでくれたのだからゆっくり湯船に浸かりたかった。
最近本当に色んな事がままならない。
苛立ち異常に悲しみの方が大きくて、私は勢いよく湯を被った。全身がラベンダーの匂いに包まれる。それでもまだ鼻の奥が痛んでしまって、結局大して今日の渚くんセレクトを楽しめないまま、私は浴室を後にした。
「こーさかさん、最近疲れてるね」
大きめの野菜がたっぷりと入ったカレーをよそいながら、渚くんは眉を顰めた。疲れていることは確かだが、疲労など今に始まったことではない。だが指摘されてしまうと言うことは、渚くんが声をかけざるを得ないほどに顔に疲れが出てしまっているのだろう。
みっともない。恥ずかしくて思わず俯いてしまった。
「心配しなくても大丈夫だよ。今週ある新卒の子達の面談さえ終わってしまえば、少しは楽になる予定なんだ。来週には、新しい課長も配属されるみたいだし」
だが、話しを聞くに別の部署から人を引き抜くらしい。人事未経験者なのであれば、結局の所私がその人に今引き受けている仕事の引継をせねばならないため、楽になれるかどうかは怪しいのだが。それでも仕事量は以前の量に戻る、予定だ。
仕事が少しでも減れば元の生活に戻れる。もうあと一踏ん張り。今週を乗り切るまでは、我慢せねばならない。
「心配だなぁ」
「大丈夫だって」
「こーさかさん、いつでもそうやって大丈夫って言う。オレも人の事言えないけどさ」
「本当に、今週を乗り切るまでの辛抱なんだ。今週末からはまたいつもみたいに一緒にお風呂に入れるよ」
私の言葉に渚くんはどんどん頬を赤くし溶けるような笑みを浮かべた。
「ほんと?」
「本当だよ」
「それは……楽しみだけど、無理はしないでね。こーさかさん、ここ数日本当に目に見えて疲れてるから」
眉を下げた渚くんに小さく笑い返し、私は口いっぱいにじゃがいもを頬張った。いつも以上に辛さが下に染みてやはり自分は疲れているのだと再確認しながら、それでも明日も仕事であるという至極当然のことを考える。
私が一口一口カレーを食べる様を愛おしげに見つめる渚くんに、ぽろっと「疲れた」等と溢しかけたが、カレーと一緒に言葉を飲み込む。
私は渚くんより年上で大人だ。新卒で日々頑張っている渚くんもつかれているはずだ。それなのに笑顔で夕食を作って私の帰りを待ってくれている。そんな彼に「疲れた」だなんて言葉、漏らせない。申し訳ないし、何よりそんなのみっともないではないか。
「疲れた」ではなく、今日何度目かわからない「大丈夫」を渚くんに告げカレーを腹へと流し込んだ。
雨の湿った臭いと、汗の臭いが混ざったエレベーターから出た私は大きく溜息を吐く。「じゃあ、お疲れ」と会社の前で別れた部長の顔を思い出し、曇天の空に反して私の心は晴れ晴れとしていた。
やっと、今週の仕事の山場であった今年度の新卒対象の面談が終了したのだ。今は少し離れた場所にある営業所に配属されている社員との面談を終え、本社に戻ってきたところである。
時刻はちょうど定時。部長はもう帰宅するらしく本社の前で別れたのだが、私は今日の面談を通して気が付いた点をまとめる作業と、少しばかり残った仕事を片付けねばならない。まだ長時間との残業とはおさらばできそうにないが、それでも大きな仕事が終わって心底安心したらしく、私の足取りは自分でもわかるほどに軽かった。
さあ、今日も早く仕事を終わらせて渚くんの待つ家へ帰ろう。
そう思っていた私は、廊下の角を曲がる前に反射的に足を止めた。
壁の向こう。そこに立っていたのは早瀬とつい先日面談をしたばかりの新卒の女性社員だった。
二人がただ談笑をしているだけなら私は二人の横を通って挨拶をした後に、オフィスに戻っていただろう。だが、二人の周りに漂っているのは暗鬱というにふさわしい、黒々とした空気だった。
今ここで二人の前に出るのはどうも憚られる。一度階段で下りて迂回してからオフィスへ戻ろうか。そんなことを考え階段の方へ向かおうとしたとき、早瀬の声が私の耳まで届いた。
「本当に辞めようと思ってるの?」
私は足を止めると、その場に立ち尽くす。早瀬に「はい」と返した彼女の声を聴いた瞬間、数日前の面談を思い出した。笑顔で受け答えをしていた彼女。何処かに影があっただろうかとぐるぐると頭の中を探し回るが彼女が抱えていた悩みが見当たらない。
「人事の人には相談した? 確か、この前人事部長と香坂さんと面談したはずだけど」
「人事部長にいきなり、あんなこというのは怖いし……それに私、」
そもそも、彼女が浮かべていた笑顔そのものが作り物だったのではないだろうか。結論づけると同時に、耳へと鋭い言葉が刺さった。
「香坂さんのこと、苦手なんですよね」
聞き慣れた言葉だった。特に人事に配属されてからは幾度となく聞いた言葉だった。この後に続いた「怖い」も「とてもじゃないけど相談できる相手じゃない」も何回も聞いた言葉だった。そのはずなのだが。
――やはり、私は疲れていたようだ。いつもはなんともない言葉が、彼女の何の気なしに放った言葉が酷く胸を抉ってしまう。
彼女から私への評価を全て聞き終わる前に私はその場を離れた。その後のことは良く覚えていないが、いつの間にか仕事は終わっていて、いつもより早く残業を切り上げた私は、雷鳴轟く雨の中。傘も差さずに家へ帰った。
身体が重いのはスーツが濡れているからだろう。頭にそう言い聞かせ、私は重たい家の扉を開けた。
玄関に入ると同時に何かにぶつかる。フラついた私の体を咄嗟に温かい腕が抱き留めた。
「こーさかさん、どうしたの? そんなにびしょびしょになって……」
「渚くん……」
彼は今からお風呂に入るところなのだろうか。そういえば今日はお休みだと言っていたな。あれ、私は帰る前に渚くんにちゃんと今から帰る旨を連絡しただろうか。それより今は早く放して貰わないと渚くんの服が汚れてしまう。
頭の中で色々思考したが溢れたのはあまりにも情けない声だった。
「仕事……」
「お仕事がどうかしたん?」
「仕事行きたくない……」
自分でも何でこんなことを口にしたのかわからない。目の前でくるくると瞳を丸くした渚くんに「何でも無い」と告げようとした瞬間、腕をグッと引っ張られた。勢いよく立ち上がった身体は渚くんの胸の中へと吸い込まれる。まるで、夜寝付けない子どもをあやすように渚くんは私の背中を優しく叩き始めた。
「そっかぁ。お仕事で嫌なことがあったんだね」
鼻の奥に痛みを感じたときにはもう遅く、視界が霞み、雨とは違う熱い雫が頬を伝った。早く止めなければ。頭で思っても決壊した涙腺からは止めどなく涙が溢れ続けた。
「雨だけじゃなくて涙でもびしょびしょになっちゃったね」
「……言わないでくれ」
「ごめん、ごめん」
いたずらっぽく笑った渚くんはやっと私の身体を放すと「よし!」と手を打って真っ白な歯を見せた。
「嫌なことは、お湯に流しちゃいましょ!」
誘い文句を言うと同時に渚くんは問答無用で私の服を剥ぎ取り始めた。相手が渚くんでなければ身構えていたかも知れないが、渚くんならば安心だろうと脳が判断したらしく、私は渚くんにされるがままに全裸にされ、眼鏡を外され浴室へと連れ込まれた。
甘い匂いと共に眼前に広がるのは湯船の中に張られた真っ白な湯だった。今日はなんの入浴剤を入れたのだろう。
「今日はなんと、牛乳風呂です!」
「牛乳……?」
最早オウム返ししか出来ない私を困ったように見つめながら、渚くんは淡い茶色のソープを手にして浴室へとやってきた。あのソープは何度か見たことがある。確か蜂蜜の香りがするソープだ。
牛乳に蜂蜜。ふと懐かしい記憶が頭に過ぎった。
「今日はホットミルクをイメージしたお風呂にしてみました! いつかしてみたかったんだけど、牛乳も安くはないからね。今日は牛乳が賞味期限ギリギリなのにほぼ一パック残ってたから……料理に使っても良かったんだけど、牛乳風呂としてリッチに半分使ってみたよ!」
先日、牛乳がまだ一パックあるのに間違えて買い足してしまったことがあった。今、牛乳風呂にリメイクされた牛乳は恐らくその時のものだろう。一リットル二百五十数円の牛乳を半分と考えると確かにリッチな使用方法だ。でも、それで渚くんの夢が叶えられたのなら安いものである。
「今日は牛乳風呂でゆったりしよ、こーさかさん」
風呂桶を差出され、私は勢いよく湯を掬って身体にかけた。いつもよりは少しばかり温いお湯が全身を包んでいく。乳白色の湯が排水溝へと吸い込まれていくと、僅かに肩の重みが落ちていくような気がした。
頭を洗って、身体を洗って――泡を全て流し去れば、この頭の中を渦巻く言語化できない感情も全て洗い流せるのではないだろうか。ぼんやりとした期待を抱くが現実はそんなに甘くない。蜂蜜の甘い香りと一緒に、拭いきれない傷の痛みも残ってしまった。
どうしてここまで傷ついているのだろうか。私はこんなにも弱かったのか。
「ささ、こーさかさんお先に牛乳風呂堪能して! 美肌に良いみたいだよ、牛乳風呂! お肌つるつるになるらしいよ!」
渚くんに促されるままに久しぶりに湯へ浸かる。たっぷり牛乳を入れているはずなのに牛乳特有の臭みが全く感じられない湯船はまさにホットミルクのようだ。
綿菓子の上で寝たいとか、生クリームの海に溺れたいとか、人は良く食べ物や飲み物に身体ごと浸かりたい衝動に駆られる生き物であるが、実際にそれを体験するとなんとも言えない満足感というか多幸感に包まれる。頭も身体も疲れ切っているからだろうか、それとも「ホットミルク」に対する思い出のせいだろうか。肩まで湯に浸かりながら、私は重くなった瞼を閉じた。
「昭彦、眠れないの?」
懐かしい声が頭に響く。人は誰かを忘れるときに、まず声から忘れると言うがきっと私は、一生この声を忘れない。
強く刻み込まれた記憶に飲み込まれそうになっていると、どこからか広がった波紋が私の肌を撫でた。
「こーさかさん、眠たいの?」
こちらを見つめる澄んだ瞳を見たときに、私は彼と出会ったときのことを思い出した。
目が、亡くなった母によく似ている。
今となっては決して言えないし、言ったら彼に対して失礼なのではないかと思ってしまうような第一印象を、彼のまっすぐな瞳に射貫かれて思い出した。
「渚くん……」
渚くんは私の小さな呼びかけに返事をする。それさえも何だか嬉しくて情けなくて頭がぐちゃぐちゃになってしまって私は迷子になった子どものように泣きじゃくりながら何度も渚くんの名前を呼んだ。
「うん、うん。渚だよ。オレはここにいるよ」
「渚くん……ごめん、こんな、みっともない……」
「なんで? 辛いことがあって泣きたくなるのは可笑しなことじゃないよ」
「でも、弱い僕なんて……幻滅するだろう……君は、大人な格好良い僕が好きなんだから」
「オレ、今みたいな子どもっぽい昭彦さんも好きだよ。いつも見せてくれない顔見せてもらえると、頼られてるというか、オレ特別なんだなって思えて嬉しいし」
だから、みっともなくなんてないよ。微笑を浮かべる渚くんに、もう壊れることは無いと思っていた私の涙腺はさらに決壊してしまうこととなった。
「あはは、昭彦さん今日は涙腺ゆるゆるだね」
「うぅ……」
「いっぱい泣くのはストレス発散にもなるから、思う存分泣いて良いよ。あ、お水持ってこようか?」
「ここにいて欲しい」
「おっけぇ」
渚くんに見守られながら、どのくらい泣いただろうか。とにかくひとしきり泣き続けた私は、やっと話せるだけの落ち着きを取り戻した。とはいっても、思考はぼやけたままでとてもではないが平静ではない。以前子どものような状態で私は渚くんと向き合った。
「お仕事で何があったの? 虐められた?」
「虐められたわけではないけれど……僕はきっと、人事に向いてないんだ。新卒の子には「苦手」とか「怖い」っていわれるし、「相談できるような相手じゃない」って思われてるみたいだし」
「新卒って事は入って三ヶ月程度でしょ? 多分、まだ昭彦さんのことよくわかってないんだって。会ったばっかりで、よく知らない人の事は何となく「苦手」「怖い」って思っちゃうの、何となくわかるなぁ。二人ともお互いをよく知らないだけで、昭彦さんが悪いわけじゃないよ。
それに、オレは昭彦さんは今のお仕事向いてると思うよ。相談したら親身になってくれるし、いつも周りのためを考えてるし、それでいてちゃんとダメなことはダメって言ってくれるし。もちろん、それだけで出来るお仕事では無いっていうのはわかるけど、でも全くもって向いてないって事はないんじゃ無いかな。人事に向いてない! って人に、代理だとしても課長を任せるなんてこと、部長さんもしないだろうし」
「……君は、天使のように良い子だな……」
「もぉ! オレは天使じゃなくって人間だよ」
渚くんが笑うのに合わせて真っ白な水面が揺れる。同時に香った心落着かせる甘い匂いに私は思わず微笑んだ。思わず漏れた笑い声が何処か掠れているのが面白くて、さらに笑い声が漏れ、渚くんもあわせて笑ってくれた。
今まで泣声が反響していた浴室に今度は笑い声が木霊する。いつの間にか――完全にではないし、まだかさぶたが張った程度ではあるが――私の心についていた傷は塞がってしまっていた。
「いつもはこんなことで沈んだりなんかしないんだ。疲れていたせいか、色々爆発してしまって……」
「あるある。今日もお疲れ様」
「ありがとう……そもそも、私の性格を抜きにしても人事は人の反感を買いやすい部署ではあるんだ」
「そなの?」
「就活で不採用通知を出されたら、その会社の人事を恨むって人はたくさんいるし、配属先の異動や転勤を言い渡せばそれを決めた人事に不満を言いに来るし、社内評価が悪ければ直談判しに来る人もいるからね。人は自分が不当な評価を受けたと感じたり、プライドを傷つけられたり、自分の思い通りに行かない指示を受けたりしたら、それを下した人間を恨むものだから……」
「あー……採用に関しては、マジでちょっと経験がある……」
「でも、評価を下す人間に嫌われたくないのもまた人だから、敬遠されるのは仕方が無いんだ。私以外の人事部員や部長も、他の部署の社員からは若干距離を置かれているし。この気軽に話が出来ない人事をどうにかしたいんだけどね。パワハラやセクハラを受けている社員をいち早く救いたいし、他部署の問題は如何しても見えづらいから悩みや改善して欲しいところは言って欲しいし、保険や労働基準法に関わることも、気軽に相談して欲しい……どうすれば、今のイメージを払拭できるだろうか……」
唸り声を上げ、ぼやけた天井を見る。湯気で曇った空間を凝視していると、淡い溜息が煙をゆらした。
「やっぱりさ、昭彦さんは今の仕事、向いてると思うな」
渚くんの言葉に、私はまた目頭が熱くなるのを感じた。
「やっぱ、オレ達の関係もそうですが! 話すのって大事! だと思うから、気になる人がいるなら、こっちから話しかけてみた方が良いんじゃないかな? 相手も、案外きっかけを探してるかも知れないし」
お風呂を出た後、事前にとっておいたキンキンに冷えた牛乳を飲みながら渚くんに受けたアドバイス通り、私は次の日例の新卒社員に話しかけてみた。
すると、最初はぎこちない笑顔――よく見れば面談の時に浮かべていた者と同じ笑顔であった――を浮かべていた彼女は次第に胸の内を明かし始めた。
どうやら配属先の先輩社員と上手くいっていないらしい。私も何度か面談をしたことがある社員だが、確かに尖った言い方をする社員であったと記憶している。
その社員は皆に怒鳴り散らすこともあるらしく部署内の雰囲気も悪いという。しかも、怒鳴るのは上司がいないときのみで、部長等がいるときには大人しくしているそうだ。
彼女はその社員が原因で、仕事を辞めることを考えていたという。仕事自体は楽しいし、やりがいがある。だが、その社員がいるだけで辟易とする。仕事をしたいのにたった一人の人間が原因で気持ちよく仕事が出来ないのは、酷く辛いことだろう。けれど、彼女が仕事を辞める必要はどこにも無い。どうして被害を被っている人間が会社を辞めて迷惑をかけている人間が傍若無人のままで居続けることが許されるのだろうか。
「以前いた部署でも問題を起こして異動になったけれど、今の部署でもそんな調子なのか……」
「私だけじゃなくて、他の先輩方も完全に萎縮しちゃって。でも、上司はそれに気づいてないですし……」
「わかった。直ぐに人事部長と君の部署の部長に連絡をして今日中に面談を組むよ。確認するために、今のこと、メモして置いても良いかな? 面談では、絶対に君の名前を出さないように約束するから」
後は、彼女の発言を疑うわけではないが一応他の社員にも話しを聞いてみる必要がある。前回の異動の際にした面談がだいぶ往生したから、万が一も考えなければならないな。頭の中で思考しながらメモをしていたら彼女が小さく「あの、」と声をかけてきた。
「ありがとうございます。早瀬さんの言ったとおり、香坂さんに話してみて良かったです」
「早瀬?」
「はい。早瀬さんが香坂さんは「あぁ見えて親身に相談に乗ってくれるいい人」だからって」
「「あぁ見えて」……早瀬らしいな。でも、早瀬のような同性の社員の方が相談しやすかったんじゃないのかい? 私で良かったのかな」
「あ……人事の栗山さんに、入社時に渡された提出書類を出すの遅れて怒られたことがあって……」
「あぁ……それは、気の毒に……栗山さん、締め切りにだけはうるさいから……」
彼女も悪い人ではないんだ。私は早瀬もきっと昨日同じようなことを言ったのだろうなと思いながら、彼女へのお礼の品を考えた。
新入社員時代から私達は、「借りた恩は返す」を基本としている。いつもはコーヒーを一本奢っているのだが……確か、近くのコンビニで彼女が推しているというバンドのコラボ商品が売っていたはずだ。「私の推しメンのマキマキはメンバーカラーネイビーだから覚えといてよ!」と何度も熱弁された。青色のコラボ商品を何かしら買って送らせて貰おう。
私は新卒社員に「速めに対処するから、何かあれば連絡を」と別れを告げて、オフィスへと戻る。途中で立ち寄った休憩スペースにある自動販売機が目に入る。ペットボトルや缶の自販機だけではなく、カップや紙パックの飲み物まで揃えた無駄にバラエティーに富んだ自動販売機達。
仕事のお供に飲み物を買おうか。いつも通りコーヒーを買おうとした私はふといつもは利用しないパックの自販機の方へ足を向けた。
眠れない夜。ホットミルクを作ってくれた母の顔をいつも思いだしていたはずの飲み物を見た瞬間。脳裏に昨日渚くんと一緒に入った牛乳風呂の記憶が蘇った。
こうしてあの人の、色褪せつつある思い出に、渚くんが新しい記憶を重ねてくれるのだ。寂しくもあり、嬉しくもある感情を抱えたまま、私は自販機にお金を入れパック牛乳の購入ボタンを押した。
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