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第3話

やぁ、と手を上げれば今日も心底うんざりとした顔に迎えられる。 「暇人……」 呟くような小言にも、最早めげる事は無い。 剣呑な表情に一歩引いたのは最初の五分だけで、以降今日まで三日間、ミッチは毎日楽しくビーチ・シティのアイスキャンディの屋台に通っていた。 「暇人って言ったらまあ、そうなんだけど、一応休業中で療養中なんだってば」 「部屋でネットサーフィンでもしてろよ病み上がり」 「ドクターにはちゃんと『できるだけ楽しい事をするように心がけてなるべく誰かと話していろ』って言われてるんだよ。つまり僕がアルマのところに通うのは僕の療養の為」 「営業妨害」 「でも、僕が居るとちょっと売上上がるってケイティが言ってたよ?」 「情報漏洩……アンタ、俺のダチを金で買収するのやめてくれる?」 「人聞き悪いなぁ。ケイティにCD貸しただけなのに」 確かに、下心が全くなかったとは言えない。 好きな人の情報を得るにはまずは会話からだとミッチは思うがしかし、当のアルマは露骨にミッチを煙たがり随時追い払おうとする。パソコンどころかインターネットに接続できる携帯端末すら持っていないという彼は、勿論SNSなどやっていない。 ミッチとアルマは、偶然出会った赤の他人だ。共通の友人などいる筈もない。 そうなると情報源として頼れる者は、自ずと絞られてしまうわけだ。 ケイティは気難しそうな見た目の少女だったが、口を開けばだらだらと会話が続く頭のいい子供だった。 まだ成人はしていないというが、相当学力は高いようで学校も飛び級で出ているらしい。今は一日のほとんどを自室で過ごしている彼女には、きっと何か事情があるだろうことは予想できる。 アルマと同じ家に住む少女に、ついつい貢物をしてしまうのは仕方ない。 基本的にはアルマの味方を自称しているケイティだったが、ミッチがあれこれと手土産をちらつかせると露骨に口が軽くなるところが中々可愛い。 音楽や写真集やケーキと引き換えに、アルマが四年前からこのビーチ・シティでアイスキャンディを売っている事や、日本の実家では酒を造っている事や、定番のポップミュージックが苦手な事、さらには甘いものが好きで玉ねぎが嫌いな事を知った。 最初は名前すら教えてもらえず、ケイティと同じようにアルマと呼んでいたが、それが愛称であり本名ではない事も知った。 彼はどうやら、カワズユウマというらしい。 日本の名前は漢字で、その文字には特殊な読み方が何通りかあるということは知っている。アルマという愛称も、本名を別の読み方にしているのかもしれない。 こうして勝手に情報を得ている事をアルマ自身があまり快く思っていない事は知っている。しかし本人にまとわりついていても肝心な事はあまり話してくれないので、今日もミッチはドーナツ屋の紙袋を片手にアルマの友人の口が滑る事を期待していた。 二週間前までは、人気のドーナツ屋に並ぼうなどと思いもしなかった事だ。 ミッチが突発性難聴を発祥し病院に駆け込んだのは一か月前の事だった。 その頃のミッチは、年末に公開したミュージカル映画のパッケージ化作業をしていた。メインの曲のほとんどをミッチが作曲し、相棒のマイルズが詩を付けた。 ミッチとマイルズは五年前にオフブロードウェイの舞台で出会い、それ以来作詞作曲で組む事が多い。正式なグループではないにしろ、自他ともに認めるパートナーだ。 舞台の仕事はやりがいはある一方、爆発的なヒットはそう望めるものではない。全米、果ては世界まで拡大が見込める映画の仕事は、新鮮な困難と高揚と、そして思いもよらない名声をミッチとマイルズにもたらした。 舞台界隈では多少は名は売れていたものの、親族が派手でスキャンダラスな女優だった事もあり、あまり実力で評価されていたとは思っていない。 どうしても派手なものには目が留まる。あのヴァネッサ・ウォーカーとイヴ・サランデルの身内、という好奇の目は、それだけでミッチの存在を他より浮きだたせてしまう。 映画の仕事が全て実力だとは思ってはいないがしかし、母や妹の事を知らない他国の人たちにも評価されたことはミッチの自信になり、そして恐ろしい程のプレッシャーとなった。 次は何を作るのか。 次はどんな傑作を出してくるのか。 ミッチェル・ウォーカーとマイルズ・ラウスの作品にかかる期待は、二人の想像以上であり、簡単にキャパシティを超えた。 結果マイルズは歌詞以外の活動をやってみたいと宣言し自主映画の撮影の為、暫く休業することになり、細々と舞台用の音楽を作る予定だったミッチはストレスにより突発性難聴を発症、暫く休暇を取ることとなってしまった。 突発性難聴は発症から二日以内に治療を始めなければ、そのまま聴力に異常を残す可能性がある。 しかし逆に言えば二日以内に治療を始めれば、かなりの確率で完治する病だった。 不自然な耳鳴りと音の籠りに気が付いたのは目を覚ました直後で、ミッチはすぐさま病院に駆け込んだ。 診断を聞いて暫くはひどく落ち込んだ。けれど病を知り、完治に関しては問題ないと知り、聴力に関しての不安はほとんどなくなった。 問題だったのは心身的なストレスの方だ。 いまが稼ぎ時で、名前を売り出すタイミングだ、ということは承知している。この先も音楽で食べていくつもりなら、この好機を逃してはいけない。 それを承知していても、身体と心はミッチの決意を受け入れてはくれない。頑張ろう、どうにかしよう、と思う度に不安に襲われそのうちに眠れなくなり、常に動機がするような状態になった。 これはまずいと心療内科にかかったものの、薬との相性が悪く、投薬なしでゆっくりと療養しカウンセリングを続けるしかないという結論に至り、結局は自宅療養するしかないと言われてしまった。 何か音楽以外の趣味を持ったらどうか、と言われた事も覚えている。 スポーツ全般が苦手で部屋の中で映画と音楽にまみれて生きていたミッチにとって、今の仕事以外の趣味などほとんどない。 仕方なくふらりと市内を散歩し、時折バスや電車に揺られて遠出し、自然の美しさを眺めてぼうっとする生活を繰り返していた。 サンタ・カタリナ島に出かけた日も特別どこかに行こうと気負って出かけたわけではない。なんとなくバスに乗った。なんとなくフェリーに乗った。ぼんやりと海を見て青いなぁなどとどうでもいいような感想を繰り返し唱えていたら、ミッチは運命のアイスキャンディ売りに出会ったのだ。 この日からミッチの新しい趣味は、運命の人の元に通いつめ彼を口説く事になった。 その運命の人は、日本人で、同い年で、ミッチよりも二十五センチ低く、再会してミッチが自己紹介してから三日たっても警戒心を解かない猫のように睨みつけてくるけれど。 彼の警戒に関して、ミッチはあまり気にしていない。 見ず知らずの同性にいきなり恋愛感情を押し付けられれば、大概の人間は一歩どころか散歩は後ろに引くだろう。 正直なところ殴られなくて良かったなぁと思っている。 凝り性でインドアで、ハマると他の事に目が行かない。 何時間でも同じ姿勢で作業できるし、ゲームも読書も映画鑑賞も寝る間もなく継続してこなせる。要するにミッチはオタクで、一度夢中になってしまうともう引き返せない性格だった。 今日も懲りることなく自宅であるパサデナからバスに揺られてビーチ・シティに赴いた。 フロッグアイスを売る想い人は、初夏の日差しに目を細めた上でミッチを認めると眉を寄せる。剣呑な顔が精悍で格好良い。黒いティーシャツがシンプルでよく似合うし、細いカチューシャで前髪をかきあげて留めているせいで今日は表情がよく見えた。 「ほんと、毎日懲りねーなアンタ……」 クーラーボックスに肘を付き、うんざりした様子でアルマは目を細めた。 最初は声が好きだと思った。耳から離れない、少し掠れた声。ぶっきらぼうな響きなのに、単語をきっちりと羅列する几帳面なイントネーションが不思議で耳から離れない。 実際に彼に会って話していると、声だけではなく存在すべてが魅力的に思えるから本当に不思議だ。 「もっとこう……こうさぁ、ビーチがすぐそこにあんだからさ。俺じゃなくて、ビキニの可愛い恋人とっ捕まえたらいーじゃんよ」 「ビキニかぁ。僕、アルマはビキニタイプよりボクサータイプのパンツが似合うと思いたたたたた痛いアルマ痛い耳が、取れ、痛い! しょうばいどうぐ! 僕の、しょうばい、どうぐ!」 「俺、じゃ、な、く、て、っつってんだろ人の話を聞けこのちゃっかりぼんやりメン。ビキニ型の下着も水着ももってねーよアジア人の羞恥心なめんな」 「あー。ビキニタイプって、結構攻めてる感じあるよねーだよねー。わりと知人がそういうの穿くからうっかりこう、ポピュラーなものかと思っちゃうんだけど。アルマはやっぱりボクサーかトランクス……」 「夏のビーチで男のパンツのはなしやめろマジで」 どうも派手でジェンダーの観念がゆるい業界にいるせいで、自分が同性相手に恋をしたことにあまり抵抗がない。 現にアルマの下着姿を想像しても、背徳的な気持ちにはなるが嫌な気分にはならない。そうか僕は同性の恋愛対象になりうる人間だったのか、と軽く自分の立ち位置を修正した程度で、同性愛に関する葛藤のようなものは微塵もなかった。 故にミッチは正直毎日非常に楽しい。 今のところアルマは『俺じゃなくて他人に付きまとえ』とは言うものの、ミッチの事が嫌いだとか気持ち悪いだとか自分は男と恋愛はできないだとか、そういう否定的な言葉は口にしていない。 たった数日の付き合いでも、彼がとても真面目な人間であることはわかっている。嘘でも思っていない事は口から出せないのだろうと想像すると、嫌な顔をしながらも誹謗中傷になりそうな言葉は絶対に口にしないアルマの株がまた上がった。 「何ー? パンツ? パンツの話?」 割と容赦なく引っ張られた左耳を押さえつつ、勝手にアルマの株を上げているミッチの後ろから唐突にぬっと現れたのは引きこもりの少女だった。 「えー混ぜろー。ケイティちゃんも混ぜろーちなみにケイティちゃんは今日ちょっと大人な赤のレース付きだー」 青白い不健康そうな細い腕が引っ張っているのはマウンテンバイクだ。どうやらここまで自転車に乗って来たらしい。 組み合わせ的にはとても健康的なはずなのに、どうしてか不安になるほど太陽と自転車が似合わない。 鍔を後ろに向けてかぶったキャップは似合っているのに、太陽光が差すと途端に不釣り合いに見えた。 不健康そうな少女のあまり健全ではない言葉に対し、うんざりと口を開くのはやはりアルマだ。 「ケイティのパンツの話も聞いてねーよやめろよほんとなんなんだよお前らどんだけパンツ好きなんだよ……」 「いや別にパンツが好きなわけじゃなくて僕が好きなのはアルマのパンなんでもないなんでもないから耳は止めて商売道具」 「ひゅー。ミッチ攻めてるー。いつの間にか仲良しじゃん。もしかしてケイティちゃんってばキューピット? 二人の間を取り持っちゃった愛の天使?」 「んなわけねーだろ裏切者の情報屋め……お前がコイツに簡単に買収されやがるから、俺のプライバシーなんてあってないようなもんだよこんちくしょう」 「だってミッチおいしいものと素敵なものいっぱいもってんだもんー。あ、それクリスピー・クリームの袋だ。今日の賄賂はドーナツだイエーイ! 何、何買ってきたの? ケイティちゃんの今日のおやつ何?」 「落ち着けよケイティ、つかお前がこんな真昼間から外出してんだから、なんか用事あんだろ? 急にサイクリングが趣味になったわけじゃねーだろなんだよはよ用件言ってはよドーナツもって帰れ。根暗がいきなり太陽の下に出ると頭茹って倒れんぞ」 早く帰れと手を振るものの、アルマの言葉には棘はない。 対するケイティも彼のぶっきらぼうな言葉には慣れている様子で、特に気にする様子もなく自転車のハンドルを持ち直した。 「んー。ウチのマンマから伝言でわざわざ来てやったのよケイティ便が。やっぱアルマ携帯持ちなって。ケイティちゃんが真夏の日差しに倒れちゃったらアルマ自責の念で一生後悔しつつケイティちゃんの奴隷に――あ、ミッチの番号教えてもらえばいーんじゃんね? そしたら大体アルマに繋が――」 「いーから。早く用件。本気で熱中症になんぞ」 「日本人心配性ネー。あのねーマンマがお得意さんにローストチキンの大量注文お願いできない? って言われちゃったんだけどわりと遠くて、アルマもし元気かつ暇かつ体力が有り余っているならちょっと配達頼めない? って。もし無理なら店閉めて自分で行くけどって言ってるんだけどさ」 「……どこに? いつ?」 「明日。サンディエゴ」 「おま……何キロあるとおもってんだよこっから。グレイハウンドバスで三時間くらいかからねーか? 鶏肉かかえて三時間?」 「なんならケイティちゃんが行ってもいい」 「できない事を言うんじゃねーの。お前バスのれねーだろが」 「んー……でもマンマ、運転どへたくそだしなー。アルマが免許あればなー」 「まあ、しかたねーよな。鶏肉かかえて三時間かー……」 仕事の話だからと一歩下がって聞いていたミッチだが、ふとケイティと目が合った。 うん? という仕草で首を傾げてから、彼女が何を言おうとしているのか察し、ミッチは苦笑いで先に答えた。 「車は持ってないけど、免許はあるよ、僕」 「わーいやったーかっこいいー! ミッチかっこいー! さすが! さすがアルマの彼氏!」 「いや待て何の話だ全体的に待て、ケイティ、いいかまずコイツは俺のストーカーであって彼氏じゃねーしつきあわねーし休業中の音楽家であって俺たちの同業者じゃねーしバイトでも従業員でもねーの、な?」 「でも暇なんでしょストーカー」 「まあ、暇だけどねストーカー」 「ほらストーカー暇だってさアルマ。ねー暇なんだから、大好きなアルマとケイティちゃんの為にサンディエゴまでブーンとドライブしてくれるよねー? 今なら助手席にアルマ付き」 「行きます」 思わず即答したミッチの袖を、思いもよらない力でアルマが引っ張る。 「待て! なんだそれ! いや待てほんと俺は仕事……」 「マンマ困ってんの。どうせ三時間バスに揺られていく気だったでしょアルマ。ローストチキンわりと重いよ? いいじゃん、ちゃんとバイト代出せばミッチの善意を踏みにじった事にはなんないよー。三時間生贄してきてよー」 「片道三時間だろ頭いいのに馬鹿みたいなハッタリかますのやめろ……いや、エマの頼みなら、そりゃ行くし、……それでいいなら、行くけどさ」 最後の呟きはミッチに向けての物らしい。 ミッチが良ければ、という事だと理解して、勿論良いよと頷くと、飛び上がって喜んだケイティは自転車ごと倒れそうになって慌ててミッチとアルマに支えられた。 耳の調子は問題ないし、運転は嫌いではない。 急に降って湧いたアルマとのドライブの予定に、ミッチはその後延々と顔のにやつきが抑えられず、何度か本気でアルマに引かれてしまうほどだった。 六月が終わり、西海岸のオンシーズンである夏が本格的に始まる。 真夏前の浮かれた初夏の日、ミッチは大きなチャンスを手に入れた。

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