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第6話
「男じゃねーかよッ!」
これがマイルズ・ラウスが有磨に向けて放った第一声であり、有磨が彼を無神経ゴリラと呼ぼうと心に誓った瞬間だった。
どう見てもヒップホップ系かレゲエ系にしか見えない強面の男は、割合小奇麗でおしゃれなシャツを着こなしていたが、そんなことは人格への加点にはならない。
マイルズの隣のミッチは空を見上げて額に手を当て、珍しくあまり上品ではない言葉を呟いていた。Holy shit、と聞こえたのは気のせいという事にしておく。
「マイルズ、さすがに、アルマに、失礼」
「あぁ? あー、いや、でもよー……」
「いい? これ大事な事なんだけど、相手がどんな容姿であれ人種であれ性別であれ、彼の事を好きだと公言しているのは僕の方なんだから、彼の属性の話なんて、そんなものアルマに言っても仕方ない事だ。はい、アルマに謝って」
「だって、おまえ、アルマっつったら女の名前だろうがよ。しかもビーチでアイスキャンディを売ってるなんてな、水着の美女を想像するだろ!? なぁそう思わないかアル――」
「謝って、マイルズ」
「……すまん、口が滑った。俺はこう、駄目なんだ、口が悪いしすぐ馬鹿な事をほいほい言うし、どう考えても無神経なんだが、せめて嫌いにはならないでやってくれ。初めましてだなミッチの運命の男。俺はミッチの相棒の男、マイルズ・ラウスだ」
「…………どうも。この無神経ゴリラがって思ったけど自覚があるなら何よりだって思った俺もわりと性格悪いから、まあ相殺って事にして。河津有磨だけど発音すんの面倒だろうからアルマでいいよ。似合わないあだ名で覚えやすいだろ?」
正直イラっとしすぎて皮肉を三倍くらい増しにして返してしまったが、反省する心の余裕がなかった。
日に日に気温は上がり暑くなる一方だし、ミッチのお陰で多少上向きだった売り上げはじわじわ下がり始めているし、数日に一度姉から愚痴の電話がかかってくるし、その上不眠症気味だ。心の余裕などないも等しい。
こんな時に喧嘩を売るような挨拶をする方が悪い。有磨はそう言い訳をして、マイルズとしたくもない握手を交わした。
ミッチェル・ウォーカーが相棒のマイルズを伴い、フロッグマンアイスの屋台に赴いたのは七月も半ばを過ぎた日の事だ。
いつものビーチ、いつもの屋台でいつものフロッグアイスを売る有磨が、一週間ぶりに現れたミッチを見つけた時、同行者のマイルズが居なければ危うく笑顔で迎えてしまうところだった。
エマのダイナーでのささやかな音楽会の後、何故か急に顔を出さなくなったミッチの事を、有磨は忘れていたわけではない。
むしろ日に日に彼を思う時間が多くなり、昨日などはついにミッチと朗らかに昼食をとる夢まで見てしまった。夜中に彼の事と自分の人生について考えるせいで、うまく寝付くことができない。
有磨は相変わらず携帯電話もパソコンも所有していない生活だ。
ミッチと気軽に連絡を取るツールは無い。何より彼はほとんど毎日呼びもしないのに屋台に顔を出していたので、わざわざ連絡を取る必要もなかった。
毎日顔を出されても面倒だしうざいと思うのに、いざ顔を見ないと妙に物足りない。
情が移っただけだと自分に言い聞かせるのは、徐々に真面目で優しい男に感情が傾き始めている事を認めたくないからだ。
恋をしている場合ではない。
期間限定の恋に熱を上げるような若者でもないし、遠距離恋愛など自分には出来ないと知っている。
実際アメリカに来た際に、日本の友人や知人との縁はほとんど切れてしまった。ずぼらで面倒くさがりな有磨は、年賀状程度のやり取りも放置しがちだ。時折思いだしたように連絡してくれる数人との交友がまだ残っているのは、確実に有磨ではなく相手のマメさのお陰だ。
有磨が日本に帰ってしまえば、アメリカ西海岸の男との関係などどう続けていいのか、さっぱりわからない。
どう考えてもミッチに心を傾けるべきではない。
それはわかり切っているというのに、一週間ぶりに顔を見せた背の高い男はどうしてかやけに魅力的に見えてさらに有磨を苛立たせた。
軽いどころか煩い自己紹介を済ませたマイルズの後に、ミッチは無駄話もせずに本題に入る。
有磨の機嫌があまりよくない事を早くも見抜いたようだ。
「実はね、アルバイトのお誘いに来たんだ」
「バイト? あんたたちが、俺に?」
唐突な提案に、機嫌の良しあしなど関係なく有磨の眉が寄る。
有磨はこの国で自分にできる仕事があまりないことを知っている。
英語はそれなりに話せるが、読み書きは苦手で書類や本も完璧に理解できない。体力はそれなりにある、と言っても、アメリカの若者とは体格の差がある。三十歳も間近となれば、若いとも言い難い。どうしても、身長の低い有磨は底力で劣るし、持久力もあまりない。
例えば承った仕事は最大限努力しこなすことはできても、他のアメリカ人に振った方が明らかにうまく、そしてはやく事は進むだろう。
有磨が優位にたてることと言えば、日本人の通訳が若干できることくらいのものだ。
訝しみつつ、自分はあまり役に立つ人材ではないことをアピールした有磨だったが、対するミッチは笑顔を崩す事はない。
「大丈夫、大丈夫。英文を読んだりはしないし、体力は……あー、多少使うかもしれないけど、アルマの趣味って自然公園のトレッキングでしょ?」
「まぁ。チラッと見て帰るだけなら写真でいいし、現地に行ったら一応自分で歩くけど」
「なら平気だと思うよ。というわけで僕たちと一緒にグランドキャニオン行かない?」
「……は?」
あまりに唐突な言葉で、うまく理解ができない。
有磨は久しぶりに剣呑な顔を晒し、マイルズは一歩引き、ミッチはそんな二人の態度などまったく気にせずに説明を始めた。
「マイルズがね、映画を……って言っても、配給会社がからんでいるようなやつじゃなくて、なんていうかこう、趣味の映画っていうか……」
「自主製作映画、みたいな?」
「あ、そうそう。そういうやつをね、今作ってるんだけどさ。その一環でちょっと遠出してロケする予定なんだ。一週間くらいの日程で結構色々回るんだけど、その初日がサウスリムのコテージで一泊、二日目からはノースリム」
「……うっそ。予約取れたの?」
「春前くらいから計画してたからね。でもね、スタッフ予定だった子が一人、都合悪くなっちゃってさ。アルマさえよければ、グランドキャニオンの観光ついでに、ちょっとだけ僕たちの雑用とかこなしてくれたりしないかなぁ、と思って」
つまりは欠員スタッフの補充要員らしい。
詳しい話を聞く限り、確かに激しく体力を使うことも、なにか特別な能力が必要だということもなさそうだ。
スタッフの補充要員というよりも、せっかく予約した宿が勿体無いというような感覚なのかもしれない。
ミッチとマイルズのロケ予定は一週間。俳優達は各々必要な場面で現地入りし、有磨は好きなタイミングで帰ってもいいという。
有磨としてはおいしい話だ。
実はまだ、グランドキャニオン周辺には足を伸ばした事がない。険しい渓谷や先住民族の森が主体のグランドサークルは広大で、公共機関が乏しい。場所によってはヘリコプターでツアーが組まれている場合もある。
バスや電車もほとんど通っていないグランドサークル主要スポットを効率よくめぐるには、ツアーに参加するか、自家用車を手配するしかない。サウスリムはともかく、ノースリムともなれば車が無ければどこにも行けない。
免許がなく、その上無駄な金はなるべく使いたくない有磨にとって、グランドサークルは比較的近場にありながらも中々訪れにくい場所だった。
交通手段も宿もあるというのなら、こんなにありがたい事は無い。
今年の夏は手近にレイク・タホにでも行こうかと考えていただけに、降って湧いた憧れの地への旅行話は、有磨の苛立ちや不機嫌やマイルズに対する些か八つ当たり気味な不快感までも吹き飛ばした。
返事をしない内から、もうわくわくしている。
元より定休日すらあやふやな露天商だ。長期休暇を取ったところで、収入が減る程度の不都合しかない。先月無駄に良かった売り上げのお陰で、貯金とは言わずとも少々懐も温かい。
どうせ、あと半年で日本に帰る身だ。
最後に、大自然を満喫しても良いのではないか。
最後の思い出だと思うと少し心に引っかかるような重さを感じてしまうが、それでもやはりこの提案は魅力的すぎた。
「どうかな。僕は、アルマが一緒に来てくれるとすごく嬉しいんだけど」
「行く」
「……あれ。珍しく即答したね。え、いいの? 僕たぶん、道中結構積極的にキミの事口説くけど」
「勝手に口説いてろよ、俺は勝手に自然を満喫してっから」
「うわぁ、自然に負けた気分……でもいいや……じゃあ、アルマ参加で決定ね。あと一人くらいは押し込めなくはないけど、ケイティは車ダメなんだっけね」
「だめ。車も飛行機も船も電車も全部、動く乗り物全部だめだよアイツ。唯一チャリくらいは平気だって話だけど、チャリでついて来いよってわけにもいかないだろ。ケイティには俺が写真撮って土産にするのがお決まりのルールだから、気ぃ使わなくていーよ」
恐らくひどくぐずるだろうし僻むだろうが、ほんの数メートルでも乗り物に乗ると吐いてしまう少女と出かけるわけにはいかない。
土産はたくさん買ってくるという確約を残して旅立つことになるだろう。
有磨の返事を聞いたマイルズは、若干納得いかないような顔をしつつもミッチに『良かったな相棒』と声をかけていた。どうやらまだ、有磨が男であったことをかみ砕けていないらしい。
マイルズは撮影スタッフの調整があるからという理由で、ミッチを置いて先にビーチを後にした。無神経だし、自分はあまり歓迎されていないようだが、本当に悪い人間ではないらしい。恐らく相棒であるミッチの事を大切にしすぎるあまり、有磨に対しての不信感が募っているのだろう。
確かに、ケイティが年上の怪しい男に惚れた、などと言われれば、自分もまずはガンを付けてしまうと思う。マイルズの反応は真っ当だ。
真っ当ではないのはミッチで、そして最近は有磨も真っ当とは言い難い気持ちを持て余している。
残されたミッチは、少しだけ苦笑して息を吐いた。
「……なんかこう、気恥ずかしいよねぇ。友達に、好きな人を紹介するのって」
そんなぽやぽやとして少女のような事を言う男は、本当にいつも通りだ。いつも通り過ぎて腹が立ちはじめ、有磨は一旦上がったテンションなどなかったかのように不機嫌に視線を逸らした。
「好きだって割には、一週間も俺の事忘れてたじゃん?」
口から出してから、これでは会いに来てほしくて拗ねているようだと思う。しかし実際どう考えてもその通りだったので、余計に腹立たしくなり顔が上げられなくなる。
暫く無言だったミッチは、有磨の方をじっと見ていたようだ。その後にヒュッと息を吸いこんだ音がする。
「……っくりした、え、ちょっと、なにそれかわいい……ええーうそ、かわいい。録音しておけばよかった拗ねてるアルマすっごくかわいいね、うわ、どうしよう、え? うそ、ほんとかわいい」
「落ち着けよなんだよ語彙力五歳くらいになってんぞ……」
「だってかわいいから。ええと、ごめんね会いたかったんだけど、あれとこれとそれと、って一気に方々に声掛けして作業してたらいつの間にか一週間経ってたんだよね。キミの歌を聴いたら、音楽が好きだって事を急に思い出したんだ、僕」
「へー」
「……なんかアルマ冷たくない……?」
「別に。こんなもんだろ俺なんていつも。ちょっと最近体調が不調で、睡眠不足でイラついてるだけだよ」
「えーそうかなー。……アルマが疲れてるなら、僕もさっさと帰ろうかな。マイルズが急に押しかけて来たから一緒に来たけど、そういえば作業中断して来――」
「アイス一本分くらいなら雑談に付き合ってやらんでもない」
「……キミのそういうかわいいところ、本当に好きだなぁ」
痒い言葉が耳に届いても、有磨は視線を上げられなかった。
暑い。ビーチは今日も浮かれた観光客であふれている。フロッグアイスはあまり売れない。あと半年分の生活費が稼げればそれでいいので、特に売り上げに固執することもない。その事実がまた、頭と胃を重くする。
ミッチの声は今日も甘くて軽い。
ラジオから時折流れてくる彼の作ったミュージカルソングのように、どうでもいい話をしている時でさえ、有磨を甘やかすような独特の明るさがあった。
もっと喋っていればいいのに、という代わりに、有磨はまっすぐ前を見つめながら口を開く。
「――いつ、すんのかなぁと思って、勝手にそわそわしてた」
「へ? え、何……」
「だってアンタ来ないからさ。そしたら仕事も頼めないし、バイト代は発生しないし。俺が寝れないのも毎日背の高い男が近づいてくるたびにちょっと目を凝らしちゃうのもさ、アンタのせいなんじゃないのと思うんだよ」
「……待って、待ってアルマ、えーと、何をするって? 僕、何かキミに約束したっけ」
「言っただろーが。次は軽くないキスするって」
いつ、キスをするのだろう。
そんなことを考えてそわそわとしていた、という告白はミッチを道路に沈ませるには十分で、そして有磨は『恋はしない』と、いつも通りの言葉をどうにか胸で繰り返していた。
恋はしない。
そう思っても、頭に浮かぶのは背の高い甘い声の男の笑顔ばかりだった。
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