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第7話

ふっと、吐いた息が、白く凍りそうなほど肌寒い夜だった。 「アルマ、思ってたより、体力あるよね……」 上着を羽織ってきて良かったと思いながら、ミッチは冷たい夜の空気の中でも熱を持った足を摩った。 一日の大半を運転に費やし、その後はひたすら山登りとハイキングだった。普段ほとんど外出しないミッチにしてみれば、急にサッカーやフットボールの試合に放り込まれたような運動量だ。 宿泊施設についた頃にははしゃぐ余裕などない程疲れ果て、宛がわれたアルマと二人きりの部屋に入るなり仮眠をとった程だ。 まだ他のスタッフはほとんど合流していないし、やっている事と言えば素材のような風景画の撮影ばかりだが、それでも機材や荷物を持って移動するのは骨が折れる作業だった。 大規模な撮影でもなければ、人手を大量に募集したわけでもない。 小人数は移動も宿泊も楽とはいえ、その分一人の仕事量が増える。 インドアではあるが非力ではない、と思っていたミッチとマイルズは結局初日から体力と年齢の限界を思い知ることとなり、インドアな主催者のフォローはアルマがこなした。 今日の功労者はいつも通りのラフな格好で、いつもよりは少し気安く苦笑を零す。 コテージの外は暗く、都会がいかに明るいかを実感する。 「いやだって、アンタ最初から最後までずっと一人で運転してたじゃん。そら疲れるでしょ。なんでコイン勝負制度なんだよ運転手。普通に交代にしろよ」 「マイルズがねぇ、ああいう勝負事好きなんだよねー……別に僕は、運転嫌いじゃないし、午前中は元気だったんだよ。僕が運転の時はアルマを助手席に乗っけていいっていう条件だったからね。なんならずっと運転手でもいい。問題は荷物抱えたトレッキングだよ……寝てる間に何度か足つった気がする……」 「それ疲労じゃなくて栄養不足じゃない? 俺、結構運動不足だと思ってたけどさ、アンタに比べたらマシなのかもな」 ふは、と笑い声が夜の闇に小さく響いた。 ミッチが仮眠から目覚めた時、すでに日は落ち、メンバーはみな夕食を終えていた。軽いサンドイッチならあるけど、と気を利かせてくれたアルマに今はまだお腹すいてないからいいよと断り、コテージの外へと誘った。 夜のサウスリムは、驚くほどに暗く、時折コヨーテの鳴き声も聞こえてくる。夜中の散歩は推奨されていないが、部屋の入口から星空を見上げるくらいは許されるだろう。 扉のすぐ前に腰を下ろしたミッチは、木の手すりに身を凭れさせるアルマを見上げる。 室内から掴んできたカメラを覗くアルマは、やっぱり暗くて見えないなと呟いた。そのカメラの中には、出発前にケイティが何度も何度も念押しするように頼んだ、この旅の道中の写真が収められている筈だ。 小さいのに、格好良い。何もできないよと言うくせに、どうしてか大概の事を軽々とこなしてしまう。 本当に音楽以外の才能がほとんど枯渇しているミッチとしては、きちんと一人で家事をこなし仕事をして生きているミッチの方こそスーパーマンに見えた。 今日のアルマは、朝から非情に陽気だった。 そのせいかマイルズともすぐに打ち解け、夕方にはミッチよりも仲が良いのではと疑うほどで、自分の心の狭さを意外にも痛感する事となった。 あまり恋愛に積極的ではなく、恋人が出来たとしてもデートはやはりインドアだった。映画だったり美術館だったり、そういうところは他人との接触があまりない。恋人を友人に紹介する事もほとんどなく、その上他人の生活に口を出さないミッチは彼女達がどういう人間関係を構築しているのか耳にする事がなかったので、結果嫉妬などとは無縁だった。 ケイティは平気なのに、なぜかマイルズだと気が気ではない。 マイルズはもう数年付き合っている女性が居たし、彼が彼女を裏切るわけがない事は知っているのに、アルマがマイルズと笑い合う度にどうにもちくちくと胃の奥にいやなものが溜まっていった。 すう、と冷たい空気を吸い込んだミッチは、出来るだけゆっくりと息を吐く。 昼間の醜い気持ちを一緒に吐くつもりで、凝り固まった背中を伸ばすように腕を伸ばしまた息を吸った。 「……っはー………明日はノースリムまで行かなきゃなんだよねぇ……うーん遠い……アメリカってほんと、広いねぇ」 「運転マイルズに代わってもらえば?」 「えー。うーん……それでもいいけど、でも僕、アルマと話しながら運転するのは本当に楽しいよ。これから全部旅行は僕が運転手になる! って宣言してもいいくらいなんだけど……この旅が、アルマの最後の旅行なんだっけ」 「あー……うん……まぁ、そのつもりではいるけど」 「けど?」 「……いまはあんま深く考えてない、かな。最後の思い出とか思うと憂鬱になんじゃん。別に俺が死ぬわけじゃないし、アメリカ大陸が滅びるわけじゃないし、十四時間だっけ? そのくらい飛行機に乗ればまあ来れるわけだし。昨日まではちょっと鬱々としてたんだけどさ、馬鹿は馬鹿らしく何も考えないで出発しちまえ、って思った」 「ああ。だからキミ、いつもよりテンション高いのかぁ」 納得して頬杖をつくミッチに対し、暗闇の中でアルマは目を見開いたようだ。 「え。高い? そんな違う?」 「違うよー。だっていつもそんな風に僕に向かって微笑まないじゃないの」 「……寄るな触るなストーカーって邪険にしてたらマイルズとか他のスタッフが気使うだろ。つかこの前も言ったけど、別に嫌いじゃねーしさ、アンタ普通に気が利く男だし優しいし結構面白いし才能あるし、男前だし運転してるとこなんか結構絵になる――」 「待って。待ってアルマ待って、嬉しいから録音したい」 「なんでもかんでも録音すんのは止めろよストーカー」 「えーだって……アルマがそんなに僕の事褒めてくれる事ってたぶんビーチサイドじゃありえない事だと思うし……ありえないついでにそろそろ僕の名前呼んでくれたら嬉しいんだけどなぁ」 アルマが、ミッチの名前をほとんど呼ばない事に、勿論ミッチは気が付いていた。 他人の名を呼びながら会話をするかどうかなど、それこそ他人の勝手なのであまり気にはしていなかった。しかし今日、アルマはマイルズの名を気安く何度も呼んだ。 要するにミッチは非常に拗ねていた。 「いつもキミが僕の名前を指す時は『you』ばっかりじゃない。僕の名前本当は忘れちゃった?」 「……ミッチェル・ウォーカーだろ。ウィキのある有名人の名前忘れるもんかよ」 「そのウィキに実は僕の愛称も書いてあるんだ。知ってた?」 「何、そんなに名前呼んでほしいの」 「ほしい。マイルズばっかりずるい。僕がコイン弱いのが悪いから自業自得なんだけど、それでも運転頑張ったとは思うんだ。ご褒美貰っても良いと思う」 「そんな事言ったら俺だって割と荷物運び活躍したんじゃねーの、ミッチ」 「…………ずるい……いまから呼ぶからって言ってよ録音しそこねた……」 「変態っていうより偏執的だよなぁほんと。ほら、次は俺にごほーび」 「え。うん?」 にやにやとした気配と共に、気が付けばアルマはミッチの隣に座っている。思いもよらず近い位置にいる想い人に動揺し、身体を退こうとするものの、何故かアルマの細いわりに力強い腕に引き寄せられた。 首のまわりに彼の腕がかかる。アルマの顔がすぐそこにあることはわかるものの、近すぎて焦点が合わないし、唐突な事で理解も間に合わない。 ミッチに出来ることは、心臓の音が聞こえないようにと祈りつつ息をする事くらいのものだった。 「…………あ、の、アルマ……僕、キミに上げられるようなものは何もない、ような気がするんだけど……ほら、僕って、体力もないし才能も、多分音楽は若干あるけどその他は、ほんと料理一つだって怪しいし……」 「なんかさー、その、見た目も性格も割合完璧なのにイマイチ残念なとこが、正直悪くないんだよなぁ。バイト代の払い方、知ってんだろ、ミッチ」 「…………いまキスしたらフレンチなキスどころかなんかこう、もうちょっと破廉恥なスキンシップまでしちゃいそうだから、えーと」 「やっぱ男じゃ興奮しない?」 「しないわけないでしょ僕がどれだけ動揺してるか暗すぎてわからない?」 「……わかるよ。真っ赤なのかっわいーの」 ふふ、と潜めた笑い声が聞こえた。 テレビもない、ラジオもない、電気が通っているだけのコテージは静かだ。自ずと声は小さくなる。 密やかな声は息が混じり、掠れたように甘い。 先に近づいたのはアルマだったと思う。けれど唇が触れ、舌が触れた途端にどちらが仕掛けたかなどどうでもよくなった。 冷たい夜の空気とは正反対に、濡れた舌は熱かった。木の葉のざわめきすら聞こえない静かな闇の中、ゆっくりと絡み合う唾液の音が耳に響く。 アルマとミッチの初めての深いキスは、決して性急ではなかった。 お互いがそこに居る事を確認するような、緩やかで、それでいて官能的な場所を探すようなキスだった。 「…………っ、……ふ………」 鼻にかかる息が漏れる。どちらの声かもよくわからない程近い。口と舌から混ざり合って溶けるようなキスの終わりに何度か唇を啄み、名残惜しく離れて暫くはただお互いの鼓動を意識した。 「…………俺がゲイだって、やっぱ気が付いてた?」 最初に掠れた声で囁いたのはアルマだ。その今さらな問いかけに、ミッチは真摯に、そして正直に答える。 「うん。友達に、何人かいるし……そうかなぁって、思ってた」 「あー……芸術系とか、芸能系ってやっぱ多いんだよなぁ……脳みその構造のせいかアバンギャルドな業界構造のせいかどっちなのかわっかんねーけどな……でもアンタは――ミッチは、ストレートだろ?」 「うん、たぶん。同性に対して興奮したのはアルマが初めて」 「興奮とか言うなときめくだろ」 「あ、え、ときめいてくれるの? えー……嬉しい。もっとときめいてほしいなぁ。その為には僕は、何をしたらいい?」 「……まずは、あー……もっかいキスして。さっきのより長くてエロくて腰が砕けそうなやつ」 このリクエストに応えられたかはわからないが、ともかくミッチは彼の腰を抱き寄せ、先ほどより念入りに口づけた。 「…………それで、次は?」 「――なぁ、後悔しない? 俺、男で日本人だけど、ほんとに後悔しない?」 「しないってば。僕は体力なくて才能なくて生きていくのがやっとのダメな男だけど、それでも一応大人で、自分の人生は自分で考えて決断してきているんだよ。確かにキミに恋しちゃったのはかなりびっくりな出来事だったし、ほとんど本能に忠実に口説いちゃったけど。……他人に僕の選択の結果を擦り付けたりはしないよ。いつか悔やむことがあっても、それはアルマのせいじゃなくて僕のせい。あ、でも、初めてのキミとのセックスが満点の空の下っていうのは、ちょっと刺激的すぎるかな」 おどけた様子で笑ったミッチは、俺もそう思うよと笑うアルマの腰を抱えるように立ち上がると、静かに、けれど早急に部屋の中に入りベッドを探した。 後悔しないか、というセリフはミッチこそが言うべきだった。 アルマはよく自分の事を中途半端な男だという。けれど、ミッチは自分こそ中途半端な人間だと思う。 一人で生きてはいるものの、生活も仕事も安定していない。プレッシャーやストレスで仕事道具である聴力を失うところだった。心が弱い。やりたいことはたくさんあるのに、やり遂げる精神力が足りない。 こんな中途半端な男が、母国の家族との関係に悩んでいるアルマに手を出していいものか。 ミッチの気持ちが中途半端な恋だとは思わないが、結局今になってもアルマの何がきっかけになって恋が始まったのか、わからないままだ。 けれど、好きなところは山ほど上げられる。 まっすぐな性格が好きだ。愚痴は言うものの他人を不快にする悪口やジョークは言わない、その真面目さと配慮できる人柄が好きだ。笑った時の八重歯が好きだ。同い年なのに、少年のように見えてとても可愛らしい。かと思えば遠くを見つめファインダーを覗く姿は格好良い。ケイティの少し我儘な願いをさっさと叶える甘いところも大好きだ。 アルマが好きだと思う。 その気持ちには偽りはないし、その気持ちだけは自信がある。 好きな気持ちだけで世界がうまく回るとは思っていない。人生は簡単にハッピーエンドに向かわない。 キスをしながらベッドに崩れ落ち、愛おしい人を見下ろしたミッチはようやく覚悟を決めた。 後悔しないのは勿論だが、自分だって後悔させない男になろう。 アルマが日本に帰っても、遠くで泣いたり怒ったりとにかく理不尽だと喚くような事があれば、電話一本で飛行機に乗って駆け付けるヒーローになろう。 柄ではないけれど、電話ボックスで着替えて空を飛ぶよりはきっと簡単だ。 うだうだ悩む性分ではないミッチは、一瞬でその決意を固め、そしてそれを口には出さずにシャツを脱いだ。 今はミッチの決意を口にするよりも先に、服を脱ぐことの方が重要だ。 大事な話は明日の朝、お互いの脳みそがきちんと働いている時にすればいい。 「……そういやミッチ、メシは?」 それなのにアルマはひどく現実的で色気のない事を口走る。そういうところも可愛いのだが、今はそれどころではないという事を知らしめる為にミッチは少々荒いキスをした。 「…………っ、はー……じゃあ僕先に腹ごしらえするからちょっと待っててねって言うわけないでしょ……」 「ふはは。や、別に待っててもいいけど」 「やだよ……アルマの気が変わったら嫌だもの……」 「変わんねーよ。俺そんなその場のテンションとかで他人に身体預けない」 「えー。もう、ほんといつからそういう感じだったのか全然わかんない……でも嬉しいからそういうのもっと言って……」 「で、サンドイッチ食うの?」 「食べないってば。先にキミを味見するから、なんていうコテコテな事言わせたいの?」 潜めた声でアルマは笑う。掠れた息は熱く、ひどくセクシーだ。 この日ミッチは、快楽の声を堪える人はあまりにも官能的だ、という事を知った。

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