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第9話
七月最後の週は、珍しい大雨から始まった。
「旅の途中に降らなくて良かったねぇ」
だらだらと窓を伝い落ちていく雨の勢いは止まらない。まるでバケツの水をぶちまけたかのような雨は、西海岸では珍しい。
パサパサに乾燥した空気と温暖な気候が特徴であるこの地域は、山火事は起これどハリケーンすら辿り着かない場所だ。
映像のチェックでミッチの部屋を訪れていたマイルズは、広げた資料とパソコンを手早く片付けながらまったくだと零した。
「運がいいんだか悪いんだかわかんねーよなぁ。天候の神様は微笑んでくれたが、映画の神様は結局そっぽ向いたままだよ。やっぱな、人間向き不向きがあんだよな」
旅先でこの大雨に見舞われたら、それこそ撮影どころの話ではない。雨など降らなくても、撮影の過程は予想していたよりも困難で、マイルズとミッチは大幅に予定を変更せざるを得なかった。
マイルズの言う通り、彼は物語を作ることに向いていなかった。
ストーリーを練る、という才能もなければ、現実の人間を雇って演技をしてもらう才能もない。薄々は気が付いていたけどさと笑うものの、やはりその顔には悔しさと寂しさが同居していた。
「まぁ、一回やってみてノリと情熱だけでどうにかなるもんじゃねーや、って流石に実感したよ。やり始めたもんは最期まで責任もってどうにか観れるくらいのもんにするけどよ……やっぱ俺はお前の作ったハッピーな曲に、短い物語をテンポよく乗せる仕事が向いてんだなぁ」
「楽しい仕事が天職で良かったじゃないの。ついでに相棒とも仲良しで最高で最強じゃない?」
「ミッチあれだよな、あのスーパー器用な日本人に出会ってからちょっとっつーかかなりわかりやすく前向きになったよな」
「え、そう? あー、そうかなぁ。なんかアルマって、結構僕の事褒めてくれるから、じわじわ自信になってるのかも」
アンタが俺のどこを好きになったのかさっぱりわからない、と呪文のように繰り返すアルマは、その台詞を口にする度にミッチはいかに素晴らしい人間であるかという事も付け足す。
優しい。気が利く。歌がうまい。ピアノも弾ける。絶対に否定しない。正しい。ダメな時は怒らず助言をくれる。背が高い。顔も悪くない。車の運転もうまい。そんな風に羅列し、最後に決まったように『それなのになんで俺なんだ』と怒ったように呟く。
そうやってミッチの長所を上げる度、そうか自分はそういうところがある人間なんだな、と客観的に実感する。全てそのまま受け入れるわけではないが、それでも参考くらいの気持ちでありがたく言葉は受け止めていた。
そういえば最近、思い悩んでぼんやりすることは少なくなった。
マイルズと共に映画の作業をしていて忙しかった、という事情もあるとはいえ、やはり精神的にも安定してきているのだろう。
小さな自信は、人生を上向きにする。
耳を病んだ時は新しい仕事など全く考えられなかったというのに、今のミッチは頭の中に溢れる音楽を早く形にしたくてうずうずしていた。
新しくやりたい事は、マイルズには勿論報告してある。
マイルズの映画の編集作業が一区切りした後、今度はミッチの我儘に彼をつき合わせるつもりだった。
ミッチの仕事には、やはり、マイルズという頼もしい相棒が必要不可欠なのだ。
「何にしてもお互い先が見えてきて良かった、って思う事にするわ。っつーわけで俺ァ帰んぞ。ウェレリアが暗くなる前に帰って来いってさっきから携帯鳴らしててうるせーからな」
「ひどい雨だものねぇ。明日には晴れるといいけど」
「まったくだ。喉が渇くパサついた空気が懐かしいな。それとほら、頼まれてた写真。出力したやつな。お前いい加減音響機材以外の機械に慣れる努力しろよ」
「してるよーしてるけど僕がやるよりマイルズがやった方が五倍くらい速いし、効率いいでしょー。ありがとう助かる嬉しいよ」
「その笑顔彼氏に向けてやれ。つかホント、次からはマジで自分でやれよ。データ確認する俺の身になりやがれ」
じゃあなと言い捨てて、マイルズは雨の中に消えた。彼の交通手段は自家用車なので、帰り道もある程度は安全だろう。
さて何故彼は少し不満げだったのだろう。と、首を傾げながら出力された写真のファイルを開いたミッチは、新しく淹れた珈琲を思い切り噴き出してしまいそうになった。
ミッチがマイルズに出力を頼んだ写真は、アルマから送られてきたデータだった。
最初の数枚はダイナーの前で手を振るエマとケイティで、その後は埃っぽい西海岸の風景が続く。
パソコンは持っているが基本的に作曲作業以外ではあまり使わない。どうせなら紙に出力してアルバムにしたい、と思ったミッチは特に何も考えずにデータをそのままマイルズに渡し、出力を頼んだ。
写真の大半は、広大な大地と自然だ。
時折マイルズや、旅先で出会った人々の生活が記録されている。俳優陣が写真に収められていないのは、アルマなりの配慮だろう。日本人はプライバシーや個人の顔写真にひどく敏感だ。
しかし、中盤程からやたらとミッチの写真が多い。
その上明らかに寝起きの欠伸をしている場面だったり、転寝をしている場面だったり、ひどくプライベートな雰囲気が漂う写真が多々混じっていた。
「……うっわぁ……」
どうにか珈琲を飲み込んで、思わず口元を手で押さえる。にやけてしまいそうだし、恥ずかしくて叫んでしまいそうだ。
こんな旧友にも見せた事がないような表情をマイルズに見せてしまった羞恥心と共に、こんな写真をさりげなくデータに混ぜ込んでくるアルマは一体どういう気持ちなのかと考えるともう駄目だ。
しれっとそっぽを向いて耳を赤くしている彼の顔が頭をよぎり、耐え切れずにミッチは机の上に沈み込んだ。
これはずるい。
こんな写真を撮っていたなんてずるい。
こんな写真を渡してくるなんてずるい。
今日が外出もためらうような雨でなければ、今すぐにタクシーを捕まえて彼が間借りするダイナーまで走っていってしまうところだった。
相変わらずアルマは携帯を所持していない。彼の声が聴きたい時は、物理的に会いに行くしかない。
「……ケイティに頼めば、電話くらいさせてくれるかなぁ」
まだ日が暮れる直前くらいの時間だ。この雨では、アルマは仕事を休んでいるかそれとも早々に切り上げていることだろう。
熱い顔を冷やすように手近にあった雑誌で仰ぎ、噎せないように注意しながら珈琲を飲み干した。
落ち着かない気持ちを落ち着かせる方法を、ミッチは知らない。音楽を作る事以外で、こんなにも興奮したことは数えるほどしか記憶にないからだ。
やっぱり電話しようかな、と携帯に目をやった時だった。
まるでタイミングを計ったかのように、ミッチの携帯は着信のベルを鳴らした。
マイルズが忘れ物でもしたのだろうか。写真の動揺がまだ残っていたミッチは、特に相手を確かめずに通話のボタンを押し、そして雨の音の向こうから聞こえた声に眉を寄せた。
「…………え、ケイティ? ケイティ、だよね?」
うまく聞き取れないのは、ひどい雨の音のせいだ。まさかこんな豪雨の日に、外にいるのだろうか。
バタバタと煩い水音の向こうで、消え入りそうな声でケイティらしき少女は、どうしようと呟いたようだ。
どうしよう、助けて、と。
「……助けて、ミッチ……アルマが、日本に、帰っちゃうよぅ…………」
「いや、ちょっと、待って、それは、えーと……まず、今キミどこにいるの? 家? 家じゃない、よね? 外?」
「……外、だけど、ここがどこか、よくわかんない……自転車、乗ってきて……ミッチの家に、行こうと思って、あたし、でも、雨が、すごくて、寒くて」
「うん。うん、オーケイ、わかった。すぐに迎えに行くから動かないでケイティ。どこか雨を避けられるところに居て。携帯は濡れてないね? 今どこにいるか、現在地だけ送って」
動かないでと三回念押しして、ミッチはすぐに部屋の鍵を掴んで傘を掴んだ。無意味かもしれないが、何もささないよりはマシだろう。
建物の上から流れる水は小さな滝のように、容赦なく傘を叩く。
バタバタと煩い。幸いケイティが送って来た彼女の現在位置は、走れば五分で着きそうな場所だった。
ビーチシティのダイナーから、ミッチの住むパサデナまで三十キロはあるのではないか。バスでも遠いと思うのに、自転車で走る距離ではない。その上こんな雨の中、ケイティは一体何時間自転車を走らせていたのだろう。
考えるだけで気が遠くなりそうだ。
閉店したカフェの軒先で蹲る少女を見つけた時、ミッチは本当に久しぶりに神様に感謝した。ケイティはずぶ濡れで、真っ青になって震えていたが、どこも怪我をしていない。それだけでも充分だと思う。
急に立ち止まったせいで息が切れ、そういえばそんなに若くないんだと苦笑する余裕もできた。
ぜえはあと肩で息をし、何度か咳き込んでからミッチはようやく少女の前にしゃがみ込んで名前を呼ぶことができた。
「…………けがはない、ね? ケイティ、一体どうしてそんな、自転車なんかで――」
「だって。あたし、車も、電車も、バスも乗れない。ミッチの家に行くには、自転車で走るしかないじゃん……」
「それは、まあ、確かにそうだけど」
「昔はまだ乗れたんだ。ちょっと、気持ち悪くなるくらい。でも、学校行って、ヤバい奴らに目をつけられて、そんで嫌だって言ってるのに車で連れ出されて吐いても止めてくれなくて、言いたくないくらい結構ひどい事されて、それから、全然ダメ。動く乗り物が、全部だめ。あたし、タダでさえダメな子なのに、本当に欠陥品になっちゃったんだって思った」
とりあえず寒いからと肩を叩いても、ケイティは動かない。
そのうちボロボロと大粒の涙があふれた。アルマはミッチの事を気が利く男だと褒める。けれど、自分はこんなに何もできない人間だと実感したことはない。
「でも、……アルマ。アルマがさ……自転車乗ってどこでも行けるじゃんって、買ってくれたんだよ……アメリカ広いっつってんのにさ、漕げば漕ぐだけ進むんだから、がんばりゃ横断もできんだろ、なんて言ってさ……ばっかじゃんって思って、あたし、本当にアルマの事好きだなって思った。あたしは、アルマの、一番の友達だってずっと、思ってるし、本当はミッチの事最初は好きじゃなかったけど、ミッチと一緒に居る時のアルマ好きだから、仕方ないから許してやろうって、思っ……うぅ……ミッチー……」
「うん。うん、どうしたの? ああ、ほら、泣かないでケイティ……」
「どうしよう……アルマ、日本に帰っちゃうー……やだぁーもっとアルマと一緒に居たいよぉ……やだよぅ……ミッチ、アルマ説得してよー…………アルマに、行っちゃやだって言ってよー……」
ついに声を上げて泣き出した少女に、ミッチはかける言葉を見つけられなかった。
恐らくアルマは、ケイティに帰国の話をしたのだろう。ケイティは彼の同居人で、大家の娘で、そして親友だったからだ。
きっと帰ってくるよ、という言葉は気休めだ。きっと帰ってくると本人も言っていたが、未来の事はわからない。置いていかれる立場はミッチも一緒だ。不安に思わないわけがない。
「とりあえず、立ってほら……ね? ケイティはさ、行っちゃヤダってアルマに言った?」
「……言ってない……だってあたしが言ったって、アルマ、きかないもん……」
「どうかな。ケイティは、アルマの一番の友達でしょ?」
「…………うん」
「じゃあ涙拭いて、とりあえず僕の家で着替えて、そしたらあったかいココアを飲んで、二人でどうやってアルマをアメリカに軟禁しようか作戦会議だ。あ、エマとアルマには連絡するよ? 家出ってわけじゃないんでしょ?」
「……ミッチのとこに行ってアルマ説得してもらわなきゃって思って出てきただけだから……」
「それでよくここまで自転車で来れたもんだよすごいよキミは」
苦笑を洩らしたミッチに対し、泣いて落ち着いたのか鼻を啜ったケイティは少し気まずそうに地面に視線を落とした。
傘はケイティに渡し、ミッチは濡れる服も気にせずマウンテンバイクを押した。タクシーで帰してあげたいところだが、生憎ケイティは車には乗れない。
雨が上がるのを待ち、一緒に歩いて帰るしかないかなぁと思案しつつ、ケイティとアルマの事を考えた。
アルマは今頃必死になってケイティの行方を捜しているに違いない。彼から連絡がこないのは、ミッチの連絡先を知っているのがケイティだけだからだろう。
早く帰ってダイナーに電話を入れなければいけない。
すっかりずぶ濡れになっているミッチの上に腕を伸ばして傘をかざす少女が、もう泣かないように言葉を尽くさなくてはと思った。
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