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第13話

レッドカーペットの上を歩いた時も自分は浮かれていたけれど、あの時と同じくらいに浮ついている自覚がある。 ミッチェル・ウォーカーは朝から何度も時計を見ては深呼吸を繰り返し、落ち着かずに同じところをぐるぐると歩き、ロサンゼルス国際空港のエントランスに入ってからもその調子だった為、マイルズに大量のため息と小言をもらった。 「落ち着けよって何度言わせんだこの木偶の棒。お前が異常にハッピーなのはわかったから、そのあふれ出るハッピーは仕事にぶち込めもったいねーなクソ!」 「僕が、落ち着かない、自覚はあるしどうにかしたいと努力はしてるし仕事もばりばり頑張りたいとは思ってるけど口が悪いよーマイルズ。ごめんって。我儘言ってほんとごめん」 「あぁ? 我儘ってなんだよハッピーポンコツ野郎。さっきドーナツ屋でやっぱり昼飯はハンバーガーがいいとか言いやがったことか?」 「違うってば……えーとほら、こんなとこまで、付いてきてもらっちゃってさ……」 大女優の親族が話題の炎上歌手と秘密のデート、というゴシップは早くも世間から忘れられてきている。とはいえ、件の歌姫は毎日動画サイトを更新し、世間を煽り続けているせいもあって、まだミッチにも数人のカメラマンが張りついている状態だった。 やましいことはないのだから堂々としていればいい、というのは一般人の考え方だ。 芸能の世界に少々足を踏み込んでいるミッチは、どんな噂も根拠のないねつ造記事も、一度広がってしまえば醜聞として世間に刷り込まれてしまう事を知っている。 とはいえど、ミッチは所詮裏方ではある。顔を出して自分を売り込む俳優に比べれば、世間の騒ぎ方もまだマシだろう。 数日鬱々と閉じこもり作業をこなすうちに、なんとかそんな風に考えて落ち着く事が出来た。問題は外に出る度に誰かに張りつかれたり声をかけられたりすることがかなり煩わしい事だ。 ねつ造スキャンダルなどという馬鹿げたものの余波で、ミッチは一人でアルマを迎えに行く事すら叶わない。 一応一人でも大丈夫だと申告してみたものの、しかめっ面のマイルズに即却下されてしまった。 わざわざ車まで出してくれたマイルズに申し訳ない気持ちで項垂れるものの、片眉を上げた厳めしい顔の相棒は豪快に鼻で笑う。 「お前って奴は本当に、テンパるとわけわかんねー方向に凹むよなぁ。そんなんだからストレスで死にそうになんだ」 「うーあー……ごめ、」 「うるっせー謝んな日本人かてーめはよ。俺が勝手に付いてきたんだ、どうせお前はアルマの顔見たら浮かれちまって小鹿みたいになるんだから、運転手がいねーとだろ。な?」 「……ありがとう、マイルズ。君が僕の相棒で、本当に良かっ……あーだめ、震えてきた無理、空港ってこんなだった? 何ココ、初めて入った劇場初日より怖いしわくわくする……」 「まったくとんだ病気だなミッチ。まさかお前が恋の病気にノックアウトされるなんて、お前を知る誰もが予想してなかっただろうよ」 「僕だってそうだ。いや、ええと、今まで付き合っていた子達に対して真剣じゃなかったなんて事はないんだけど、なんていうか、こう、あー……幸せなんだ」 ミッチの人生の半分は音楽でできていて、いつでも頭の中の半分は音楽の事を考えていた。 アルマと出会った時、あのサンタ・カタリナ島の海が見える広場にはただ海の音と人々のざわめきしかなかった。耳を患っていたミッチは、くたびれた心のままただ海の音を聴いていた。音楽のない場所で、音楽の無い世界で、ミッチはアルマに出会った。 頭の中の音楽は、今は舞い戻ってきている。 それなのにアルマの存在感は少しも薄れず、ミッチの中のハッピーな音楽と常に仲睦まじく同居していた。 一昨日の電話で彼は、遠い国から愛を告げてくれた。 会いたいと零した自分の我儘な言葉に少し笑って、自分もそうだと応えてくれた。 いつもはミッチが愛を押し付ければ押し付けた力と同じ強さで跳ね返してくるのに、母国の地を踏んだアルマに、何か変化があったのだろうか。それともそんな事は関係なしに、単に自分たちの関係が少しずつ進んでいただけだろうか。 どちらにしてもミッチは落ち着きなく、きっと恋人と呼んでも怒られないだろう想い人を待つしかない。 毎日のようにマイルズの家に自転車で尋ねて来るケイティは、最後まで一緒に空港に行きたいと粘っていた。 ミッチとしてもアルマを独り占めしよう、などと思っていない。アルマの帰りを待っているのはミッチだけではない。毎日不安げな顔を押し込むように笑う少女も、親友の帰りを待っている。 しかしロサンゼルス国際空港はロングビーチからは流石に遠く、自転車で追いつけという訳にはいかない。 恨めしそうな顔でミッチの袖を掴むケイティの手を丁寧に解きながら、ミッチは彼女のいじらしい可愛らしさに少しだけ泣きそうになってしまった。 最近のミッチはすぐに泣く。感情の振れ幅が酷くて、音楽と仕事に対して悩んでいた時とは別の意味でのストレスを強く実感する。 大切な人たちとの大切な時間を勝手な理屈と横暴さで踏みにじるお騒がせ歌手と、それに乗せられる一部のマスメディアの人間に腹が立つ。怒っているうちに泣けてきて、悲しくなると今度はこんな自分に付き合ってくれる優しい人たちの事を想ってありがたくて鼻をすする。どうやら自分は、だいぶスキャンダル騒動に疲れているらしい。 実は先ほどもアパート付近でよく見かける車を見つけた。 運転席に座っていたのは、よく実家あたりでも見かけるガラの悪いひょろりと細長い男だ。どうやらパパラッチというよりは、母親か妹専属のストーカーカメラマンのようなものらしい。 その他にもちらちらと、週刊誌の記者のような姿が見える。もしかして今日は誰か、有名人が来米するのかと頭を傾げたが、彼らの目的は何なのかロビーですぐにわかった。 「うっわ」 思わず出た声が低くなる。 珍しいミッチの低い声はマイルズの激しい舌打ちとあまり大声で言ってほしくない悪態にかき消されたが、二人の渋面は誤魔化せなかった。 ミッチとマイルズがうだうだと会話をしながらロビーにたどり着いた後、がやがやと煩い外野を引き連れて女王のように登場したのは、件の炎上歌手だった。 「クリスティーン・グロッサ……」 「おいおい勘弁してくれよどっから付けてきたんだクソビッチ」 「え、僕達彼女にも尾行されてたの?」 「そうじゃなきゃこんだけ広い国のこんだけ広いビーチシティのど真ん中であら偶然ねって鉢合わねーだろ。見るなミッチ、知らんふりしとけ」 そうは言っても、彼女は目立つ。 わざとらしい程の金髪に脱色されたロングヘアーをなびかせながら、ラメで光るヒールをカツカツと打ち鳴らす。真っ赤なワンピースが恐ろしく安っぽく、何故かそれがファッションとして成立していた。 自分の外見をよく知っている女だ。そして自分の事を過度に愛している事が外見からすぐにわかる。 動画や画像では割合背が高く見えた彼女だったが、実際はかなり小柄だった。 スキャンダルとして出回った写真の男性は、彼女よりも頭一つだけ飛び出ていた。しかし長身のミッチが並べば、クリスティーヌの頭は胸よりも下に位置してしまいそうだ。 うっかり目で追っていたミッチに向けて、クリスティーヌは親し気に口の端を上げてほほ笑む。 怒っている人間を相手にするよりは笑ってくれた方がマシだが、ミッチが笑ってほしいのは友人と家族と恋人であって世間に喧嘩を売ることが趣味である女ではない。 何が目的かわからないが、単に目的地が被ってしまっただけかもしれない。 クリスティーンは上機嫌にウォーキングしながらミッチとマイルズの横を通り過ぎると、奥のカフェテリアに入って行った。 思わずその後ろ姿を眺めながら息を吐いたところだった。 「何アレ、ゲイノージン?」 少し掠れた声が後ろから飛んできた。 声は柔らかくて掠れているのに、発音が硬くて少しぎこちない。きっちりと、歯を合わせて単語を並べるような、硬貨や石が立てる硬い音のような。 ミッチが慌てて振り返ると、硬質な英語を話す日本人は国際便から降りてきたとは思えない程の小さなバッグを肩から下げて、カフェテラスの方に視線を向けていた。 「え、あ……アルマ、早くない……!?」 「あー。なんか航空会社の手違いでチケットたらいまわしにされて、乗る予定だったやつの一本前で帰って来た。十何時間も飛行機乗ってんだから、一時間くらい別に変わんないかー待ってりゃいいかーと思ってさ。つかそっちこそ早くない? 初デートのジェントルマンかよ」 「だって、そわそわしちゃってさ……。あーあのー、アルマ、ごめん実は、なんかまずい事に記者っぽい人達とかカメラマンっぽい人達とかわりといま引き連れてきちゃったみたいで、そのー……あと例の、彼女が、ええとさっきカフェの方に……」 「あー。あれがクリスティーン・グロッサか。なんか思ってたよりちっちぇーな?」 「……なんで知ってるの」 「日本だってYouTubeくらい見れるっつの」 そう言って笑う顔は数日前に送り出した時と変わりない。 それなのにミッチはどうにも気恥ずかしくなってしまい、先ほどよりも更に落ち着かない気分で足踏みをしたくなった。首元に引っかけてきたヘッドフォンを耳まで引っ張り上げてしまいたい。何度もベッドの中でシミュレーションしたのに、現実のアルマを目の前にするとうまく言葉が選べない。 言葉より先に気持ちが先走る。 先走って溢れたミッチの感情は陽気な音楽のように体温を上げていく。 さっさと場所を移動した方がと助言してくれるマイルズの声はかすかに理性が聞きとめる。それに答えて別にここでいいよと言うアルマの声も、どうにか理解できた。 「あーでも、ミッチはあれか、こんなとこでパパラッチの餌食になるの嫌か。じゃあ車行く?」 「え、いや僕は別に。君が巻き込まれちゃうのが嫌なだけで」 「……感極まって再会のキスしちゃっても問題ないのかよ」 「だって今までだって、僕は特に何も考えずにいつもビーチに通ってたし。僕の周りにはストレートだったりゲイだったり、ちょっと変わってる恋愛してる人いっぱいいるから」 「それってさ、ミッチェル・ウォーカーのウィキのページに、『現在交際中の恋人は男性である』って付け加えられてもOKって事?」 「…………それが嘘とかハッタリとかじゃなくて事実ならもうぜんぜん、なんでもOKだよ」 いつも通りにやりと笑うと思った。 けれどアルマは思いのほか爽やかに目を細めて、ミッチの首に腕を回した。 戯れのように軽いキスをすることはあった。 けれど、舌を絡ませる甘いキスは、グランドキャニオンを巡るあの旅の最中以来、記憶にない。 「……、っ…………ふ、……アルマ、……あの、」 「んー…………写真、撮られてる?」 「わかん、ない、けど、みんな、見てる、……気がする」 「イヤ?」 「……いやじゃない。好き」 「ふは」 軽く笑ったアルマはもう一度深く舌を舐め合い、名残惜しさを残してからほんの少し唇を離した。 それなりに混雑しているロビーの隅で交わすには情熱的なキスだった。マイルズがあからさまに視線を逸らす程生々しいキスを堪能した後、至近距離の男はさっぱりとした顔で笑う。 「俺、こっちで生きてみようかなって、腹くくって来たよ」 息が触れる程の近さに、ミッチの心臓は先ほどからずっと忙しなく鳴り続けている。アルマの舌は冷たくて甘い。眠気覚ましの強いミントタブレットを舐めていたのかもしれない。 「……お姉さんと、旦那さん、平気だったの?」 「思ってたより元気だった。死にそうなのかなって思ってたけど、ねーちゃんパニくってただけみたいだわ。完治するには時間かかるらしいけど、とりあえずは安定してるらしいから。つーわけで俺は用済み」 「家の仕事は?」 「ねーちゃんに押し付けてきた。……そもそも、押し付けて出てきたんだけどさ。あんときは逃げてきただけだけど、今日はなんてーかさ、帰って来たって感じ。うん。……帰ってきたんだと思う、俺」 ここで生きる、という彼の言葉が、嘘みたいに嬉しくて涙が滲んだ。それを隠したいのに至近距離で笑うアルマから目が離せず、お互いに抱きしめ合ったまま腕も身体も離せない。気まずそうなマイルズに申し訳ない。彼には後で食事を奢る事にしよう。 ちらちらとこちらを窺う知らない人間の視線も、時折聞こえる不躾なシャッター音も、今はどうでもいいと思う。 「……僕ね、ケイティにすごくクールな日本語を教わったんだ。世界に誇っていい、最高な、ケイティおススメの日本語」 泣きそうな顔のままミッチも笑う。彼の事が好きすぎて自分でも気持ち悪いと思いながらも、腕を解けずに笑う。 「オカエリ、アルマ」 帰るべき家のドアを開けた時に、家で待つ日本人は『オカエリ』と言う。この伝統的な挨拶は、似たような意味を持つ英語がない。 自らの元に戻って来た人に、ありったけの想いを込めてミッチはその言葉を贈った。 ぎゅっと抱きしめていたから、その時のアルマがどんな顔をしていたかはわからない。けれど彼は少し掠れた声に水っぽい音を滲ませて、ケイティが教えてくれたもう一つの愛おしい挨拶を返してくれた。 ただいま。 そう言った彼の身体を、どれほど強く抱きしめても、ミッチの頭の中から溢れる幸福な音楽は止まらなかった。

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