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14.晴太郎の音5

「っ、すみません! お待たせしました」  七海が戻ってきた。急いで戻ってきたのか、少し息を切らしている。 「自販機が近くになくて……時間がかかってしまいました」 「いや、大丈夫だ。ありがとうな」  七海からお茶の入ったペットボトルを受け取り、それをひと口、ふた口ほど飲む。そして、大きく息を吐く。けれども、緊張も不安も治らない。ーーどうしよう、やっぱり辞めようか。いや、そんな事はできない。だって、自分で決めたのだから。 「晴太郎様……どうしました? 少し、顔色が悪いように見えます」  心配した七海が、椅子に座った晴太郎の前に跪く。  下から顔を覗き込むように見上げられる。いつもとは違う視線の高さが新鮮で、晴太郎もまた七海をじっと見つめてしまう。 「もしかして、緊張していますか?」 「……うん。わかる?」 「はい。手、握り締めてしまう癖、昔から変わりませんね」  七海にそう言われてハッとした。先ほど姉に言われたばかりなのに、また手を握り締めてしまっている。七海は晴太郎の右手をとってそっと指を開かせる。 「……綺麗な手なのに。爪が食い込んで、傷付いてしまいますよ」  そんなに力を込めていたつもりはないが、指先は地の巡りが悪くなっていたのか、白く冷たくなっていた。七海の大きな手が、晴太郎の手を温めるように包み込んだ。  すらっと指が細くて長い晴太郎の手とは違って、手のひらが大きく骨張った男らしい手。普段、洗い物をしてくれているせいで少し荒れているが、とても温かい。  こんな風に、七海は昔から手を温めるように握ってくれる。演奏会や発表会の前、晴太郎の緊張を解すために。 「……父さんも、兄さんも姉さんも、みんな観に来てるんだって」 「はい。みなさん、楽しみにしておられますよ」 「うん……だから、上手くできなかったらどうしようって。母さんみたいな演奏が出来なかったら、みんな聴いてくれないんじゃないかって。ちょっと、不安になってた……」 「……お母様のことを考えるの、やめませんか?」  ぎゅっと七海の手に力がこもる。 「私も、社長もご兄弟たちも、晴太郎様ご自身の演奏を見に来ているのです」 「……でも、母さんの音に似てるって……」 「いいえ。誰が何と言おうと、いくら似ていようとも、晴太郎様の演奏はあなたご自身の音です。お母様の音ではありません」 「……俺の、音?」 「そうです。お母様の音に似てる、なんて言う人は放っておきましょう。私は、あなたの音が聴きたい」  七海の低くて柔らかい声は、波打つ晴太郎の心の中をすっと落ち着かせる。彼は真っ直ぐに、真剣な瞳で晴太郎を見つめていた。

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