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14.晴太郎の音8

 しかし、誰にどんなに褒められても晴太郎はまだ満足出来ない。まだ一番褒めて欲しい人に褒められていない。一番聴いて欲しかった人に、まだ感想を聞いていない。 「あのさ、七海……どこにいるか知らない?」  どんな時も、一番に晴太郎の元へ駆けつけてくれるのは七海なのに。なぜか今日はまだ来てくれない。  思い返してみると、七海は昔からピアノの演奏会の時だけ、いつも一番に来てくれない。晴太郎の演奏が終わるとみんながこうやって来てくれるのに、七海だけ後から走って来るのだ。今日もいったいどこで何をしているのだろうか。  晴太郎の問いに、ふたりは顔を見合わせてくすくすと笑い出した。何か変なことを言っただろうか。 「七海は、あの様子じゃあ……」 「そうね。もうちょっと後で来るかも」 「えっ、なんで?」  ふたりは七海がどこで何をしているか知っているようだ。どうしてすぐに来てくれないのか、本当にわからなくて首を傾げる。 「晴ちゃんは知らないかもだけど……七海、泣いちゃうのよ」 「えっ、七海が?」 「うん。毎年毎年、晴太郎の演奏を聴いて、泣くほど感動しちゃうんだって」 「そう、なんだ……」  ふたりとも同じことを言うので、きっと事実なのだ。晴太郎は驚きを隠せない。今まで七海はそんな素振りを一度も見せたことが無かった。  どうして隠す? そんな事、隠さなくても格好悪いなんて思わないのに。 「晴ちゃんと約束したって言ってたけど、なんの事かわかる?」  紗香の言葉で、以前七海とした約束を思い出した。確かあれは、まだ晴太郎が小学生だった頃。  ーー約束します。坊ちゃんが悲しくならないように、私はあなたの前で泣きません。  晴太郎が今まで忘れてしまっていたような、なんて事ない小さな約束。しかし七海はこれをしっかり覚えていて、今日までずっと守ってくれた。ーー本当は涙脆いのに、晴太郎の前ではずっと涙を隠していた。  なんて律儀なのだろうか。どうして彼は、こんなにも自分との事を大事にしてくれるのだろうか。  嬉しくて、ぎゅうっと胸が締め付けられる。大事にされていると自惚れずにはいられない。  ーー早く七海の顔が見たい。早く七海に会いたい。  その時、バタンっと勢いよくドアが開いた。 「すみません、晴太郎様! 遅くなってしまい……わっ!」 「七海っ!」  七海の姿を見て、いてもたったも居られず勢いよく抱き着いた。 「なあ、俺どうだった?」 「すごく、ものすごく素敵でした。格好良かったです」 「最後まで、ちゃんと聴いてくれた?」 「ええ、もちろんです」  七海に抱き着いたまま顔を見上げると、眼元が少しだけ赤くなっていた。きっとそれは、無理やりゴシゴシと拭った涙の跡。  こんなに近くに、自分のピアノで心を動かしてくれる人がいるなんて。  自分がピアノを弾くことで、大切な人たちが喜んでくれる。晴太郎の音で、涙を流すくらい喜んでくれる人がいる。  もっと色んな人の心を動かしたい。笑顔にしたい。大切な人に喜んで欲しい。  ーーそのために自分にできる事は? 考えなくても分かる。ひとつしかない。 「七海」 「はい?」 「俺、ピアノ頑張ってみる」  中条晴太郎の音を奏でる。それが自分にできる、みんなを喜ばせる方法。

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