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番外編「七海が欲しいもの」 1.きっかけは1

 七海には、お気に入りのパン屋がある。  住んでいる最寄りの駅の、ひとつ隣にある電車が二路線通る大きな駅。駅前の商業ビルが並ぶ通りを抜けて歩くこと十分。居住用の中規模マンションが並ぶ静かな住宅街に、そのパン屋はあった。  そこの生食パンは絶品だ。香りが良いし、ふわふわでもちもち。焼いても美味いが、そのまま食べても美味い。クロワッサンも絶品だ。サクッとした表面と、ふんわりとした中がたまらない。フランスパンも、メロンパンも美味い。少し遠いが、ここまで来て買う価値はあると思っている。ただ、毎回ここまで来るのは厳しいので、常連というほど通っているわけではない。  晴太郎も気に入っているので、彼が家に遊びに来る時は、あらかじめ買っておくようにしている。  今日は、晴太郎が遊びに来る日だった。  夜に待ち合わせているので、午前に家の掃除を終わらせ、昼過ぎに買い物に家を出たついでに、隣駅のパン屋に来ていた。  生食パンを買って、帰ろうと駅の方へ向かっていたときのことだ。  普段は静かな住宅街に、大きな建設工事の音が響いていることに気が付いた。  前来た時は、工事なんてしていなかったはず。前にこの場所に何が建っていたか思い出せない。けれども、なぜか気になって工事現場の近くに行ってみた。  実際に工事しているところは、大きな壁で見えないが、その壁に大きく「新築分譲マンション」と書かれた看板があった。  この工事は、マンション建設の工事だった。前に建っていたものは結局わからなかった。どうしても知りたかったわけではないので、帰ろうとした、その時。 「あ、あの……もしかして、ご興味、ありますか?」 「っ、は、はい?」  背後から、知らない女性に声を掛けられた。急なことで驚き、ビクリと肩を跳ねさせた。 「あっ、ご、ごめんなさい! 驚かせるつもりはなかったんですけど……」 「いいえ、こちらこそ……すみません」  七海の後にいたのは、真新しいスーツに身を包んだ大人しそうな若い女性。 「急にびっくりしますよね……私、実はこのマンションに携わってる会社の者でして……三浦と申します」  三浦、と名乗った彼女はきっとまだ社会人になったばかりだ。慣れない手つきで名刺を渡してきた。  営業、と書いてあって少し驚いた。気弱そうでおどおどした様子の彼女には、意外性のある肩書きだ。 「ずっと建設現場見てたので、もしかして興味があるのかと思って声を掛けたんですけど……違いました?」 「興味、というか……ここには以前、何の建物が建ってたかな、と思って見てたんですよ」 「そ、そうだったんですね」 「ここの道を何度も通っているはずなのに、思い出せないものですね」

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