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10・右足から歩きだす(終)

 そう多くないあけおめLINEの中に、珍しい名前があって驚いた。西田だ。大学で会ったら話はすれど、プライベートで付き合いがあるほどの間柄じゃない。『あけましておめでとう』のスタンプの前は、大学入学当時LINEを交換したとき、つまり四年以上前の履歴だ。それからLINE上でのやりとりは一度もなかったのだが。  ――聞いたんだ、一緒に暮らしてる人と付き合ってるって。学祭のときはからかって悪かった。  正月早々、真面目な話を振ってきたものだ。紅蓮と付き合いはじめたことは増野にしか話していないので、増野が西田に話したのだろう。知られたってまあ構わないけど、口が軽くて少し呆れる。  新年の挨拶にしては長いメッセージを読み進めていって、驚いた。  ――俺も、実はそっち系なんだ。  目を疑う。  何度も読み返して、文脈を読み違えていないか確認した。  ――カモフラージュで女と付き合ったりもしてんだけどね。結局別れちゃうんだよな。  ――好きなやつもいるんだ。  ――てか、増野なんだけどさ。  驚きすぎてスマホを取り落としそうになる。 「どうした?」  初詣に出かけるため服を着替えている紅蓮が振り向く。僕はなんでもないと見え透いた誤魔化し方をして、液晶を隠すようにしてコソコソ続きを読んだ。  ――増野の前でああいう話すれば、増野が俺みたいなヤツのこと気持ち悪いと思ってるかどうか、確かめられると思ったんだ。利用してごめん。でも、若宮くんと山田さんのおかげで、俺、今年はがんばってみようって思えたから、ありがとな。お幸せに!  読み終えて、少女漫画を読んでるときの生娘みたいに胸がドキドキした。なんと返事をするか考えてぐるぐるしながら洗濯物を洗濯かごに詰め込み、ベランダへ出る。きりきりと冴えた空気に身は縮むが不思議と気分はせいせいしている。今年一番最初の朝は、気持ちよく晴れ渡っていた。  あらためてスマホを取り出す。「がんばれよ」と打ち込んだがすぐ消した。だって僕はツイていただけで、特にがんばった記憶もないし、僕ががんばれと言うのは変だ。「応援してる」というのも違う。少し悩んで、まあいっか、開き直り、「増野、イブもクリスマスも暇そうにしてたよ」と教えてやった。 「おみくじ、何吉だと思う」 「何吉って発想が出る時点で既に違うんだよなー」 「凶か。でも凶って逆に持ってるなって気にならないか?」 「引いたことないだろ、引いてみろよそんな気分になんてなれないから」 「俺だって凶くらい引いたことあるぞ……多分」  こちらを向いて笑いながら玄関のドアを開き、一歩踏み出した紅蓮が、さっと真顔に戻る。 「ん?」 「何」 「なんか踏ん……うっわ」  紅蓮のあげた右足の靴裏に、べったりと、茶色いものがこびりついている。 「げっウンコッ」 「うっわっ!」  なぜアパートの二階に。なぜ玄関の目の前に。謎だらけだが、目の前にあるのは、新年の外出の第一歩目の右足が、ウンコを踏んづけたという、その事実だけだ。 「……あっはっはは!」  流石に大声をあげて笑った。愕然としていた紅蓮もつられるようにして笑った。外出一秒で、二人さんざん笑って、仕方ないので玄関前廊下にこびりつけてしまった糞を掃除して、紅蓮の靴裏は駐車場の砂利へ必死になすりつけた。このまま出かけて、帰ってから洗うらしい。 「新年早々うんがついたな!」  大笑いして紅潮した顔で、紅蓮がそう言う。こりゃ大吉を引くぞ、と。  十歳の頃だったろうか。験を担いで右足から家を出て、その足でウンコを踏んだ日から、僕の人生は不幸と決まってしまった。そう思って十年以上も不幸な人生を送り続けてきた。けれど、今僕の横でお気に入りの靴の裏を必死に砂利になすりつけている彼は、お気に入りの靴で元日にウンコを踏んづけたことすら、ポジティブな言葉で表現する。  そう、もしかしたら、考え方ひとつかもしれない。――例えば宝くじ、六等三千円、それがたった一枚当たったくらいのことで、海外旅行でも当てたのかってくらい大喜びできる。そういう考え方でいれば、まったく同じ人生を歩んでいたとしても、進む道は薔薇色に輝いているはずだ。  ウンコを踏んづけたあの日、僕の表情は真っ暗だった。このまま小学校に行ってこいつくさいぞってからかわれるところまで一気に想像して絶望にうちひしがれていた、必死に洗い流してびしゃびしゃの靴で登校して足は寒かったが結局誰にも気づかれなかったのに、ずっと暗い顔のままだった。でも、今は笑っている――踏んづけたのは僕じゃないし、他人の不幸はなんとやらとも言うけれど、例えば今それを踏んづけたのが僕の右足だったとしても、僕は吹き出して笑っただろう。  この、大きな、大きな僕の幸運の隣でなら、どんな不幸だって笑い飛ばせる。 「さ、行くか、運試し」  紅蓮が歩きはじめる。僕は後ろから追いかけた。「紅蓮、忘れ物」 「ん?」  駆け寄って、ぱっと、手を取って。きゅっと握って。  見上げた顔が、呆気にとられてて、で、それからぶあっと赤くなった。「なんだよ、照れるな」にへらと笑って、顔をそらす。ベッドの上ではあんな恥ずかしいことをしてるのに、手を繋ぐくらいでまだ照れてる。かわいいやつ。かわいくって僕が笑うと、紅蓮も笑う。照れを隠して笑いながら、僕らは並んで歩いていく。  吉でも、凶でも、この顔には叶わない。キングボンビーもてんのめぐみも実際のところどうでもよくて、益虫だの害虫だのもあんまり関係ないのかもしれない。だって、ほら、紅蓮がちょっと笑うだけで。僕の持ちうるすべての要素は、ぴかぴかの一等賞の幸せに、塗り替わってしまうのだから。

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