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第2話 欲望を満たすため
「おーい、新堂くーんッ」
突如、スタンドの下から名前を呼ばれ、貴樹は身を屈めた。声の主を確認するより先に、壁面の陰から顔だけ出して、トラックにいるはずのターゲットを探す。被写体はコーチのアドバイスを受けているらしく、こちらの声には気づいていないようだった。
安堵のため息を漏らして、腰を落としたまま階段を降りる貴樹に、写真部部長の山岸も「何事?」と、声をひそめて辺りを見回した。
「いや、別に。それより、部長は休みの日まで撮影?」
山岸の興味を逸らすために、貴樹は当たり障りのない質問で切り返した。
入学以来、写真部の部室にはほとんど顔を出していない。学園祭に出品しなければ内申書に響くと聞かされて、適当に撮った写真を部室にあるデジタルプリンターで印刷する時に行ったきりだった。実際、山岸のカメラのストラップに付けられたネームタグを見るまで、彼の名前を思い出せず、部長という肩書きに助けられたほどだ。
「呼び出されちゃったんだよ、新しい顧問に。今度の先生、江木ちゃんとは全然違うタイプでさあ。俺、メチャクチャ苦手だわ」
山岸は、広角レンズを装着したデジタルカメラを撫でながら、春休みに登校した理由を面倒臭そうに話した。
生徒に、公然と『ちゃん』付けで呼ばれる写真部顧問は、年度末で産休に入っていた。
貴樹が通う私立鷺ヶ原高校は、歴史は浅いながらも県内有数の進学校として名を馳せており、部活動も盛んで、文化部・運動部ともに成績に反して立派な設備を誇っている。自主性を重んじることを校訓としており、新しい部の認可にも寛容で、つい最近、パソコンで対戦ゲームの腕を磨くeスポーツ部なる部活まで創設された。たとえ学業とは程遠い活動内容でも、顧問さえいれば認可されるのだから、学生にとって部活動は趣味そのものとも言える。ただ、一つ以上の部に入ることが決まりで、出欠状況やイベントへの参加状況、全国大会での成績や受賞歴が評価に影響するのだった。
そんななかで、唯一、部活動を敬遠する者たちの温床となっているのが写真部だった。
フィールドワークが部活動の中心となるため、学園祭に参加した実績さえあれば、出欠についてはいくらでも誤魔化せる。山岸のように自前のカメラを首から下げている連中は稀で、塾通いやバイトの時間を捻出するための隠れ蓑にしている者がほとんどだった。
それを容易にさせたのは、教師歴が浅いうえに、写真の知識も経験もない江木みのりが顧問でいてくれたお陰でもあった。彼女の特技はスマホの自撮りで、太陽光の使い方や小顔に見せるテクニックには長けていたが、一眼カメラの知識は皆無だった。
その結果、歴代の部長は、『被写界深度』や『F値』といった基礎的な専門用語を駆使するだけで、最新のデジタルカメラやプリンターを難なく購入してもらうことができ、幽霊部員たちは放課後の貴重な時間を思いのままに過ごすことができたのだった。
山岸は、無反応な貴樹の注意を引くように、わざと大きな欠伸をした。
「今朝、家に電話がかかってきたんだぜ。『部活オリエンテーションの準備は終わっているんですか』って。毎年オリエンには参加してませんが、確実に部員は入ってきますって答えたら、『学校に来て説明しなさい』って言われてさ。酷いと思わない? 俺、朝方までアスカちゃんのプライベートチャンネル見ててさ、さあ、これから寝ようかって時だぜ。お陰で、彼女の透け透けビキニ姿を夢で見そびれたっていうの」
最後に向けられた意味深な視線を、貴樹は無視した。『アスカちゃん』というのは、地下系のアイドルかプライベートをネットで晒す女の子のことだろう。
二年の学園祭準備の時、貴樹が部室に行くと、山岸がその手の女の子の写真をプリントしていた。その時も彼は、大して話したこともない貴樹にアイドルのパンチラ写真を自慢した。
「脚と尻の境目のラインが何とも言えないだろ。もうちょっと真下に入れたら、パンツの食い込みとか撮れたんだよなあ。あっ、やべっ。そんな写真、もうパンチラって言わないよな。俺、そっち系のカメラマンになれるかも。なあ、そう思わない?」
形だけの同意を求められ、貴樹は「そうかもね」と気の無い返事をして、その場をやり過ごした。
興味がないものを見せられて相手に話を合わせられるほど、貴樹は器用ではない。かといって、無関心な態度を示せば揶揄われることは目に見えている。男子高校生のコミュニケーションの基本は、良くて好みの女子のタイプ、酷い時は胸や尻の形にまで及ぶ。男子なら誰でも盛り上がる話題だという前提だから、その話題を避ける素振りだけで「そっち系か」と囃し立てられる。
今回も何と答えるのが正解なのかわからず、「そうか。じゃあ、頑張って」と、適当に流すと、「頑張ってじゃないよ」と、山岸が立ち塞がった。
「新堂くん、たまには部員らしいことしてよ。あの顧問、俺にはお手上げだよ。『ただ部員が入ってくれば良いという考え方で、部活動が活性化すると思っているのですか。だから、幽霊部員ばかりになるとは考えないのですか』って、もう写真部の内情掴まれちゃっててさ。仕方ないから、これから準備しますってカメラ持って出て行こうとしたら、『他の部員はどうするつもりですか』って詰問するんだよ。春休みの最終日に学校に来るやつなんかいないっていうのにさ。そもそも、学校あったって出てこないから幽霊部員なのにな」
新顧問の口ぶりを真似しているらしい山岸の愚痴を聞きながら、貴樹は心の中で苦笑した。世の中には、その新顧問のように一筋縄ではいかない人間がいることを、彼は身を以て知っていた。
しかし、笑ってばかりもいられない。話の流れからすると、オリエンの準備を手伝わされる羽目になる。
この場を逃れる言い訳を考え始めた貴樹に、山岸が顎を突き出して言った。
「新堂くんさあ、俺を助けると思って、ちょっとだけ部室に顔出してよ。部長に呼ばれて来たって言ってくれるだけでいいからさ。あとは俺が学校中で写真撮りまくって、皆の分だって言っておくから」
人にものを頼む態度ではないが、幽霊部員の一人として気が咎めないこともない。それに、山岸の言葉の一部にも引っかかった。
「学校中で撮りまくるって、何撮るの?」
「各部の撮影許可をもらったから、ブラスバンドと合唱、バスケ、陸上部。それから、特進コースの授業風景も撮れる。あとは校舎周りだな。入学式の準備風景とかでも良いしね。バリエーションがあった方が、大勢で撮影しましたって感じだろ」
生徒の勉強姿が画になるとは思えなかったが、山岸にはイメージがあるようだった。パンチラだの透け透けビキニだのと騒いでいた時とは別人の顔になる。
たまに写真雑誌を捲ると、カーテンが揺れているだけで情感を表現したり、落ち葉一枚で秋の情景を映し出す写真を見かける。印象的な作品だとは感じるが、貴樹の心を刺激することはない。それは自分に写真の良さを見極める感性がないためで、表現力を高めるためのスキルを学ぶ気がないからだと自覚している。結局、貴樹にとっての写真は、芸術性や感性とは無縁の、我欲を満たすものに他ならない。見方によっては、山岸のパンチラ写真と変わらないのだ。
貴樹は、陸上部の撮影許可も取っているという山岸に、内なる興奮を悟られないよう、あえて渋い顔をしてみせた。
「解った。そういうことなら、顧問に挨拶しておくよ。それから、写真も適当に撮っておく。山岸みたいな写真は撮れないと思うけど、構わないよな」
「マジで? 助かるよ。どんな写真でも良いからさ。今撮ってたヤツでも良いし」
「えっ?」
「今、スタンドの上から陸上部狙ってたんじゃないの?」
「いや。それはさ、その……、高いところから画になりそうな風景を探してただけだよ」
「何だ、そうか。俺、運動系の写真って苦手だから、そっちを頼めたらと思ったんだけどな。そうだよな。新堂が学園祭に出した写真って、スポーツ写真って言っても何撮ってるか解らない……」と、そこまで言って山岸は口を噤んだ。
彼が言ったのは、一年の時に出展した野球部のトスバッティングと、二年の時のサッカーフィールドの雑景だった。どちらも陸上部の練習の合間に狙えたから撮影しただけで、自分でも面白いと思っていないから、面と向かって悪口を言われても気にならない。
「あっ、でも、そういう写真でも助かるよ。テイストが違う方が、俺だけじゃないって判りやすいから」
フォローにもならない言葉を残して、山岸は満足げに去っていった。
貴樹は、急いで部室に向かった。
山岸の顔を立てて、顧問に挨拶することが目的ではない。部室にある共用のフィルムカメラを借用するためだった。
既に撮影許可が取れていて、オリエンテーションに使用する写真を撮るという大義名分があるなら、万一、ターゲットに見つかっても言い訳が立つ。どうせならフィールドに降りて、今手にしているデジタルカメラではなく、フィルムで撮影したかった。
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