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第3話 密かな疼き

 文化部の部室棟の一番奥。木製の引き戸の四角いガラス窓に、マジックで『写真部』とだけ書かれたコピー用紙が貼られている。  入口に花器を飾ったり、レゴブロックで部の名前を造形している他の部に比べ、あまりに素っ気ない。会心の一作をA1サイズにでも引き伸ばして貼れば写真部らしく演出できるのに、部長である山岸の最高傑作がパンチラ写真ではそれも難しく、他の部員が如何に部活動に興味を持っていないかが、部室の入口からも露呈していた。  貴樹は、「失礼します」と、中にいるはずの人物に声をかけた。軽い引き戸を開けると、顧問らしき人物の後ろ姿が、個人用のロッカーの中を物色している。  よく見れば、そこは貴樹に割り当てられたロッカーだった。一度も使ったことがないため鍵もかけていなかったが、顧問といえど勝手に開けられるのは不愉快極まりない。  「すみません。そこ、僕の……」と抗議のつもりで声をかけると、「解っています」と、強い口調で返された。  振り向いた人物を見て、貴樹は呆気にとられる。  「あなたのロッカーだから開けたんです。でも、何も入っていないのね。つまりは、幽霊部員ということかしら」  山岸が、お手上げだと困惑していた理由が、一瞬でのみ込めた。  「何してるんですか。ええーっと……」  貴樹が相手の呼び方に迷っていると、彼女は事もなげに言った。  「今は、谷川です。呼びにくいなら、『お母さん』でも良いけどね」  約二年ぶりに会う母親は、旧姓に戻ったままだった。  「ふ、ふざけないで下さい」  「ふざけてなんていないわ。私はどちらでも構わないと言ってるのよ。呼び方で私の立場が変わるわけじゃないのでね」  偏屈な物言いは、相変わらずだ。  理詰めで、合理主義で、感情を口にすることが全くと言っていいほどない。顔を見ても懐かしさが込み上げてこないのは、楽しかった思い出が何一つ浮かんでこないからだろう。それどころか、貴樹に相談もなく家を出て行った姿が最後の記憶なのだから、母との再会を喜べる訳がなかった。  谷川玲香が、貴樹の姉の由紀を連れて家を出たのは、彼が高校受験の合格発表を見に行った翌日だった。  中学の担任に合格の報告をし、かたい握手で「おめでとう」と祝福された後、家に帰ると、玲香と由紀が荷造りをしていた。  玲香は貴樹の姿を見ると、「お父さんと離婚することにしたの。私は由紀と出て行くから、あとはよろしく」と、貴樹の肩に手を置いた。そして、「直ぐに引越しのトラックが来るの。時間がないから手伝ってくれるかしら」と続けた。  その時は、寝耳に水の話に、真っ白になった頭で離婚に伴う作業を手伝い、トラックが走り去っていくのを見送った。  己の愚かな行動を後悔したのは、リビングに戻ってソファに腰を下ろした後だった。  一軒家に自分ひとり。気づけば明かりが点いていないリビングが、夕闇に包まれている。  昨夜のことが思い返された。  父親は出張で留守にしていたが、貴樹は、玲香と由紀に合格のお祝いをしてもらった。玲香からは腕時計を、由紀からはブランド物のボールペンをもらい、いつもより少しだけ豪華な食卓を囲んだ。  食事中は話をしないのが習慣になっていたから、祝い事だからといって家族団欒という雰囲気はない。テレビもつけずに黙々と食事をし、食べ終わった皿を各自が片づけて、それぞれの部屋に籠る。誰も他の者の時間を邪魔することなく、いつも通り、静かな夜を過ごした。  それでも話す時間は充分にあったはずだ。  昨夜だけではない。離婚話が持ち上がった段階で、何かしら相談してくれても良さそうなものだった。いや、人に相談などする人ではないにしろ、子供の意見くらい聞いてくれるのが筋というものだろう。  だが、そう反論したところで、「それなら何故離婚すると解った時に問い質さなかったのだ」と詰問されるのは解りきっている。「荷造りを手伝ったのだから、暗黙の承認ととられても仕方ないのではないか」と反問されたかもしれない。それでも怒ってみせるべきだったのだろう。感情が伴わなかったとしても、頭が真っ白だったとしても、自分の立場を主張すべきだったのだ。  何も言えずに、ただ母親と姉が出て行く手伝いをした自分に腹が立った。  苛立ちを持て余して父親の携帯電話にかけてみたが、留守電にメッセージを残してもかかってこない。父の代わりに、妙に甘ったるい声の女から自宅に電話があり、玲香が出て行った理由が何となく想像できた。数週間後に帰ってきた父は、「電波の届かない所に居たんだ。すまんすまん」と弁解したが、その頃には、離婚の事情を聞く気も失せていた。  その後も父は出張と称して、ほとんど家に帰ってこなくなった。  貴樹は、独り暮らしのような生活に直ぐに慣れた。  初めから居ないものと思えば、悩むことなど何もない。それどころか、経済的な心配もせずに広い家を自由に使えるのだから、文句のつけようがなかった。  思春期の男子が成人のふりをしてアクセスする動画の履歴をわざわざ削除する必要もなかったし、親が寝静まるのを待たなければならない行為も気にせずにできる。それなりの成績を出していれば教師が私生活に介入してくることもなく、貴樹は、自由気ままな高校生活を存分に満喫していた。  それなのに、あまりにも突然に、母親の玲香が鷺ヶ原高校の写真部顧問として貴樹の眼前に姿を現したのだった。  「どういうつもりですか」  息子を置いて出て行った母親より、置いていかれた息子の方が優位にあるはずだという、ごく一般的な常識が、貴樹を強気にする。  だが玲香は、眉間に皺を寄せて睨み返した。  「あなたの話し方、成長がみられないわね。質問が漠然としすぎている。その聞き方では私のどんな行為に対しての質問か判断できないでしょ。それでは適切に答えられないわ」  「会話って、流れや空気を読むものじゃないですか」と、言いたいのを、貴樹はグッと堪えた。  母には、自分への罪悪感などないのだと、漸く気づく。  「失礼しました。谷川先生は、何故、僕が通っている鷺ヶ原高校にわざわざ赴任して来られて、写真部の顧問になられたんでしょうか?」  あえて敬語を使い、『わざわざ』という副詞を強調して慇懃無礼に尋ね直す。それでも玲香には貴樹の皮肉など通用しない。  「この学校に教師の空きがあったからです。産休を取られた先生が、写真部の顧問をされていたから代理を務める。それだけです」  玲香も敬語で返してきた。  彼女がこういう話し方をする時は、少なくとも機嫌が良い時ではない。「そうではなくて、僕に何か言うことはありませんか」などと強気に出れば、「何か言うこととは何ですか」と、更に責められることになるだろう。これ以上の煩わしさを避けるために、貴樹は、「そうですか」と、あっさり話を切り上げた。玲香は、目的のない会話をしない。それに、彼女の行動には常に確信が伴う。今さら過去の謝罪や弁明を期待しても無駄なのだ。  貴樹は、玲香の前を避けるように大回りして、共用のロッカーからカメラとレンズ、三十六枚撮りのフィルムを数本取り出した。持ち出した日時と名前をノートに記入している間、玲香の視線が自分を捉えているのを感じる。  その理由が、肩からぶら下げたデジタルカメラにあることに思い当たり、「オリエンテーションの写真を撮るのに、適した方を使いたいので」と、彼女の疑問を想定して先手を打った。「デジタルカメラを持っているのに、どうしてフィルムカメラを持ち出すの」と、聞いてくるような気がしたのだ。  だが玲香は、「あっ、そ」と素っ気なかった。  そして、フィルムを装填している貴樹に、「それはどうでも良いのだけれど、あなた、アルバイトをなさい」と命令した。  唐突すぎる展開に、頭がついていかない。「どういうことですか」と聞けば、また、「質問が漠然としすぎている」と返されるだろう。かと言って、「解りました」と、簡単に引き受けられる話ではない。  貴樹はささやかな抵抗を試みた。  「あまりにも急な話で、おっしゃっている意味が理解できないんですが」  「意味も何も、言葉通りよ。私の知り合いが、カメラマンのアルバイトを探しているの。あなた、写真部なのに、全く部活動に参加していないらしいじゃない。学園祭にどうでもいい写真を提出して、それで済まそうなどと考えているわけじゃないわよね。写真部としての実績がないのだから、アルバイトで実績をつくりなさい」  強引なロジックに、溜息が出そうになる。後々面倒なことに巻き込まれるなら、安易に流されずに、もう少し踏ん張らなければと本能が警告した。  「ですが、先生。僕は今年、三年になるんです。受験勉強があるので、バイトする時間なんてありません」  「あなたが三年になることくらい、母親だから知っています。あなた、成績は良いらしいじゃない。今まで通り勉強して、カメラを持って校内をうろついている時間を、アルバイトに充てれば良いだけよ」  『うろついている』というのは正確ではないが、玲香が貴樹の高校生活を概ね把握していることに、僅かな戦意も喪失する。  「僕の写真は自己流で、バイトするスキルなんて全然……」  「それなら問題ないわ。あなたの写真は、もう先方に渡してあるから」  断る口実を並べていた貴樹の口が、そのまま固まった。  「あなたの机の上に一枚だけ置いてあった写真をカメラマンに渡したの。助手としては合格だそうよ」  「なああッ!」  普段出したこともない大声が、部室に響いた。  玲香が持って行ったのは、どこに仕舞い込んだかと、ずっと探していた写真だった。  「せ、先生が、写真部の顧問になったからって、家に上がって僕の写真を持っていくって、お、おかしくないですか」  「教師が生徒の家を訪問する事の何がおかしいのかしら。ただの家庭訪問でしょ」  「本人の留守を狙う家庭訪問なんてありますか」  「狙ったわけじゃないわ。あなたが留守だっただけよ。それに、あなたのお父さんには了解を得たわ、メールでね」  悪びれることもなく、玲香は言った。  「か、家庭訪問って、見たのは僕の部屋だけですか?」  「他に、見られて困る場所でもあるのかしら」  「そんなことは、ありませんけど……」  「それなら何も問題ないでしょ。ところで、あの写真、どこで紙焼きにしたの?」  玲香にじっと見つめられて、背中がしっとりと汗ばんでくる。  「そ、れは、写真屋、です」  「あ、そっ」  再び素っ気ない返事をして、玲香はジャケットのポケットから名刺を取り出した。  「明日十七時に行くと伝えてあるから。予定があるなら、自分で電話してスケジュールを調整なさい」  差し出された名刺をつい受け取ってしまった後で、事が進んでいることに気づく。  「ちょっと待ってください。僕はまだ何も……」  「明日のアポイントを取っているのに、待っている時間などあると思いますか。どうしても断るというなら、それはあなたの意思です。これはもう、紹介者である私の手を既に離れたこと。断るなら、あなたが責任を持って断ってください」  玲香の眼力に、貴樹はそれ以上抗うのを諦めた。  「解りました。失礼します」  貴樹は、ひとまず受け入れるふりをして部室を出た。  バイトをどう断るかはともかく、写真だけは返してもらわなければならない。  それは、ターゲットがハードル選手として初めて県大会に出場した時の写真だった。  その年は、県立の競技場が工事中だった。代わりに会場となった市営グラウンドは、応援用のスタンドが低く、トラックからの距離も近かった。幸運にも、ターゲットは一番外側のレーンで、その走りを遮るものは何もない。写真部の腕章をして他の選手も撮影しているふりをしているから、ターゲットに見つかっても弁明できると思うと大胆になれた。  スタンドの最前列に陣取り、柵の隙間からレンズだけを出す。カメラのボディが床につくほど身を屈めて、ローアングルのショットを狙った。高い位置からの撮影とは異なり、スタートからゴールまでをフォローすることはできないが、ターゲットに最も近い迫力のある画が撮れるはずだと目論んだのだ。  ターゲットがスタート位置につくと、鼓動が煩いほどに音を立てた。シャッターボタンに乗せた指が細かく震える。それでもピストルの音と同時に何度か連写を繰り返すうちに、貴樹はファインダーの中の被写体に集中していた。  心臓の拍動によって全身に血液がまわる。胸も腹も腕も脚もズキズキと脈打って、スラックスの中央までもがじんわりと持ち上がってくる。  誰にも言えない疼きを全身で感じながら、被写体の姿が視界から消えるまで、貴樹はひたすらシャッターを切り続けた。  その時の何とも言えない興奮は、暫く体の中から消えなかった。  自らの手で発射するために行う自慰行為の快楽が発散なら、被写体を追いながらの興奮は膿んでいく感覚に近い。気持ちが自然に高まり、それを象徴する場所が意図せずに勃ち上がってくる。だが、欲情を溜め込むばかりで射精には到底至らない。溜め込まれたものが膿んでいってもどかしいはずなのに、それでも疼き続けることを体が求める。  そんな感覚に捉われたのは初めてで、そのフィルムを現像した時は、いけない写真を撮ったような罪悪感に襲われた。  だが、当然ながらフィルムに定着した画像は極めて健全なもので、貴樹は、そのうちの一コマを紙焼きにした。  紙焼きの工程もまた、貴樹に別の興奮をもたらした。  玲香が家を出て行った後、貴樹は物置の中に暗室を造った。  二畳ばかりのプレハブ小屋を組み立て、庭の蛇口から水を引いて、光が入らないように目張りをする。貯金で中古の引き伸ばし機を買い、フィルムの現像から印画紙のプリントまで全ての作業ができる設備を整えたのだった。  ひとたび暗室に入ると時間を忘れた。  特に、印画紙の現像作業は、貴樹を夢中にさせた。  現像液の中で、真っ白な印画紙から徐々に浮かび上がってくるターゲットの姿。現像液から引き上げるタイミングや定着の手際で微妙に異なる写真の仕上がり。赤いセーフライトが創出するいかがわしい空間が、印画紙の中のターゲットそのものを掌握しているかのような錯覚さえ起こさせる。デジタルカメラでは味わえない無限の執着に、貴樹は自ら溺れた。  競技会で撮影したローアングルの一枚も、いつも通り現像液の中で像を結び始めた。  小さなフィルムで見たときよりも、貴樹の予想を超えてはるかに力強い走りを映し出している。その美しいフォームが呼び水になったのか、それとも、想像以上の写真の出来に興奮したのか判らない。  貴樹の体がじわじわと熱をもつ。  疼き出す予兆を感じ、思わず利き手で股間を握った。  その間も、ターゲットの画像は赤いライトの下で濃さを増していく。  プリントを独学で覚えた貴樹には、あっという間に黒さを増していく写真を救済するテクニックなど持ちあわせていない。現像液から引き上げるタイミングを誤れば、興奮を覚えるほどの写真もボツになることは充分承知していた。  それでも股間に伸ばした手を動かしたくなる衝動を直ぐには抑えきれず、印画紙を定着液に移すタイミングが僅かに遅れた。その、ほんの一瞬の迷いで、ターゲットは識別できないほど黒く変色していった。  膨らみ始めた股間も、膿んだまま熱を溜め込んでいく。  発散できない欲情と葛藤し、また新たな現像作業によって生まれる熱を体の一部で期待して、貴樹は、同じ画像を何枚も印画紙に焼き付けた。  一枚焼く度に、暗室内に吊るして乾かす。現像の薄いものや濃すぎるもの、ムラができたもの、小さなゴミの跡がついてしまったもの。些細な失敗も気になって、漸く納得できる一枚が仕上がった時には朝になっていた。  全ての紙焼きを終えたところで、乾いた印画紙を物置の中に張ったロープにピンチで留めていった。一コマのフィルムから生まれた数十枚の同じ白黒写真が万国旗のように揺れる。その中で、最後の一枚だけがカラフルに色付いて見えた。  それは、きっともう二度と出会えない、貴樹にとって奇跡のような一枚だった。  それなのに、玲香は、その宝物に等しい写真を知らないカメラマンに渡してしまったのだった。

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