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第4話 遮るもの
貴樹は、写真部の腕章をつけて体育館に向かった。
狙いは陸上部のターゲットだけだが、それを誰にも悟られないよう、山岸が苦手だといっていた運動部の様々なカットをデジタルカメラで撮ることにしたのだ。
体育館では、男子バスケットボール部が試合形式で練習をしていた。
体育の授業でしかバスケをしたことがない貴樹には、どういう写真を撮るべきか、これといって明確なイメージがない。精々思い浮かぶのは、テレビのスポーツ番組で見かけるようなシュートシーンだが、どのポジションから撮影すればいいのか見当もつかない。とりあえずボールを持った選手をひたすらフォローするが、陸上と違って動きが読めず、両チームのコートをレンズが右往左往するだけで、一向にシャッターを切れずにいた。
ここで手間取っていては、陸上部の撮影に時間が割けなくなる。考えた末、画角を広くして点数が高いチームの逆サイドのゴール脇で待つことにした。
山岸だって、傑作なんて期待していない。撮影したという証があればいいのだと、貴樹は自分に言い訳してそれらしい写真をデジタルカメラで数枚撮影し、陸上トラックへと急いだ。
時折吹く突風にスタートを遮られながらも、陸上部は練習を続けていた。
貴樹はフィルムカメラに持ち替え、左腕の腕章をお守りのようにきつく握った。
腕章は、邪魔にならなければどこからでも撮影できる免罪符のようなものではあるが、目立つ場所で撮影する勇気はない。フィニッシュラインの正面で構えていて、勢いのまま走ってきたターゲットに見つかるのは避けたかった。
グラウンドの外周に植えられた樹々の陰を移動して、ゴールとは逆側のバックストレートの正面でスタンバイする。ゴール前とは異なりスピードは出ないかもしれないが、太い幹に隠れて真正面から走りを撮影できる絶好のポジションのように思えた。
直線に並ぶハードルは三台。画角サイズとピントをフォローしながら狙えば三回のシャッターチャンスがある。
初めて使う共用のフィルムカメラを構え、ハードルのスタート位置にいる選手にピントと絞りを合わせてみた。フォーカスリングは思いのほか重く、メンテナンスされている感じがない。今になって、フィルムカメラなど誰も使っていないことに気づいた。
それでも、このチャンスを逃したくはない。
貴樹は、オートフォーカスで動作確認することにした。シャッターボタンを半押しにして、第一コーナーをまわってきた他のハードル選手をフォローしてみる。だが、ピントの速度が遅く不安定で走りのスピードに追いつかない。そのうえ、俯瞰からの撮影と異なり、真正面からでは、あっという間に距離を詰めてくる選手をフレームいっぱいのサイズに調整しながらフォローするのが難しい。バックストレートを真っ直ぐ走ってくるのを撮るだけなのに、被写体の姿は直ぐにフレームをはみ出し、サイズを直すたびにピントがぶれる。これでは、せっかくフィルムカメラを使っても、まともな写真一枚撮れずに終わってしまいかねない。貴樹は、仕方なく走りをフォローするのを諦めて、最も手前のハードルを飛び越える瞬間に狙いを定めた。
次の選手で画角を確認しようとスタートラインを見ると、目当ての選手が、既にスターティングブロックに足をかけようとしていた。
片倉俊介。貴樹と同じく、この春から三年になる。
俊介は、短距離の選手だったが、高校に入ってハードルに転向した。
ハードルの選手が短距離に転向して成功する例は多いが、その逆は極めて少ない。ただ、短距離に比べて選手の層が薄く、戦略的に転向する者もいるようだった。
鷺ヶ原高校でも、ハードル選手は少ない。
短距離から転向した者は俊介以外にも何人かいたが、ハードルの間の歩数を合わせるという初期の段階で壁にぶち当たってしまい、それを乗り越えるのに数カ月を要する者もいた。器用な部員の中には踏切の足を変えて跳ぶことができる者もいたが、その先、練習次第でタイムを縮められるというわけではない。ハードル競技に向いてないと自ら結論を出す頃には、短距離の選手と明らかな差がついていて、短距離にも戻れず退部してしまうというのが一連の流れだった。
俊介がハードルに転向した理由が戦略的なものなのか、貴樹は知らない。
だが、二年の春には支部予選会で標準記録を突破して県大会まで進めたのだから、少なくともハードル競技に適応できたということだ。
たとえ競技が変わっても、俊介は今もトラックを走り続けてくれる。それだけが貴樹のささやかな希望だった。
コーチの合図で飛び出した俊介が、コーナーをまわってバックストレートに入ってきた。狩る者の姿に化身してハードルを越える彼を、貴樹はファインダーの中心で迎えた。
グングンと迫ってくる姿に、心臓を直接叩かれてでもいるかのような強烈な拍動が起こる。体の芯が、いつものように変化しそうな予兆を感じた。
もう少し。もう少しで、野生動物のような目をレンズが捉える。
俊介の体がフレームいっぱいまで近づいて、片脚の太腿が高く持ち上げられた。
今だ。
貴樹が震える指でシャッターボタンに力を加えようとしたその時、俊介はタイミングを誤ってハードルに突っ込んでいった。
「ああっ」
思わず漏れた無念な思いが、ハードルの倒れた音にかき消される。
俊介は、「クソッ」と短く吐き捨ててハードルを元の位置に戻し、トラックの外に出て行った。その間、貴樹は太い樹木の陰に身を潜めた。トラックから離れているから彼が気づくことはないだろうが、失敗した瞬間を撮影したなどと思われたくなかった。
行き場を失った下腹部の疼きが、腰骨のあたりに纏わりつく。処理してしまうほどの高ぶりもなく、かといって何でもないふりをして歩き回るには違和感がある。その、人知れぬ淫靡な感覚を、次に俊介が跳ぶ時まで体の奥に蓄えておくことにして、貴樹はフィルムカメラをデジタルカメラに持ち替えた。
木立の陰から動くことなく、山岸に渡す写真を撮る。短距離と長距離の選手が混ざってトラックを走る風景。ゴールしてぐったりと上半身を倒す選手。コーチの指導を受けている部員たち。俊介がフレームに入っていない画は、ただの雑景に過ぎない。
そろそろ俊介の番かと望遠レンズをスタート位置の方に向けると、一人の少女がトラックの外で休憩している彼に近づいて行くのが見えた。
手にしたタオルとペットボトルのドリンクを、彼女は恥じらいながら俊介に渡す。
丈の短いジャケットに派手なチェックのスカート。どこかの学校の制服のように見えなくもないが、それにしては色合いが華やかだった。
鷺ヶ原高校には制服がない。服装に関する規則がないことを理由に入学してくる生徒もいるが、ファッションに気合いを入れるのは一部の女生徒だけだ。それも、毎日私服を着回さなければならないとなると、彼女たちの服装も徐々に地味になり、受験が視野に入る頃には何故かスカート丈も長くなってくる。
俊介に近づく少女のファッションを見る限り、在校生ではないように思えた。
「誰だよ」
ほとんど無意識にズームリングを回して少女の顔にピントを合わせようとした時、強風が吹いて、彼女のチェックのスカートを捲り上げた。
慌ててスカートを抑える彼女の前で、俊介が両腕を広げてなおも吹き付ける風を遮る。
俊介は優しい。優し過ぎて腹が立つ。
「やめやめ……」
貴樹は、構えていたカメラを下ろした。
ずっと下腹部で燻り続けていた疼きは、いつしかすっかり消え失せていた。
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