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第6話 剥がされた写真

 人目に晒すつもりなど微塵もないのに、「許可を取っておいて」と言われたからには、取らずに済ますことができない。  己の気の弱さと生真面目さにジレンマを感じながら、貴樹は、俊介の家の前で逡巡していた。  片倉俊介は隣家の幼馴染で、最も小さい頃の記憶にはすでに存在していたように思う。  だから、いつどんなふうに出会い、何がきっかけで仲良くなったのか覚えていない。  子供の頃はよく遊んだが、今では用がなければ話すこともない。  俊介には学生生活を打ち込める陸上部の練習があり、たまの休養日には、彼を誘おうと待ち構えているクラスメイトたちがいる。スポーツマンでスタイルが良く、彫りの深い顔立ちと明るい性格から男女ともに人気があり、他校の女子から告白されたという噂も絶えない。バレンタインデーにはチョコの山ができる俊介と、学校に限らず連む友達がいない貴樹との接点は、今や無いに等しかった。  成長すれば、それぞれに興味の対象や生活圏が異なるのは当然のことで、幼馴染なんてきっとそんなものだと、貴樹は自分に言い聞かせていた。  片倉家の呼び鈴を押そうとするものの、躊躇いがその手を止める。  俊介にどう話すべきか、言葉のかけ方が解らなかった。  最後に会ったのは学校の廊下で、すれ違う貴樹に、「オスッ」と俊介がかけてくれた声に、「おうっ」と応えただけだった。それだけで、その日は浮かれて、帰宅後ずっと物置に籠って俊介の写真を眺め続けていた。  それ以降、ひと言も言葉を交わしていない。  会いに行く口実ができたのは嬉しいが、本人に知られたくない写真の許可を取るという不本意な用件であるうえ、貴樹の気持ちが伝わってしまうのではないかと思うと、手放しで喜べなかった。  呼び鈴に触れる指に力を入れられずにいると、「タカちゃん」と背後から声をかけられた。  振り向くと、俊介の弟の孝介が学ラン姿で立っていた。長い袖と、肩幅がふた回りも大きい中学の学ランが、小柄な孝介に覆い被さって見える。  「よう、孝介、元気か?」  「タカちゃん、久しぶりだね。兄貴に用?」  その板についてない呼び方に、笑いが漏れた。  つい数年前まで、『兄ちゃんがねえ』『兄ちゃんならさあ』と、俊介の自慢話をしていたのに、どうやら兄離れの一歩を踏み出しているようだ。  「俊介、いるかな」  「今日は遅いと思う、けど……。何がおかしいの、タカちゃん」  「いや。孝介の学ラン姿が微笑ましくてさ」  「ちょっと大きいんだよね。三年間着るんだから大きめにしとけって、お母さんがさ」  「良いんじゃないか。直ぐに体に合ってくるよ。俊介なんて、一年の終わりには仕立て直したからな、急に背が伸びて」  「僕も、兄貴みたいに大きくなるかな」  「なるかもな。その学ランじゃあ、丈が足りなくなるかもしれないぞ」  「そしたら、兄貴のお下がり着れば良いよね」  「そうだな」  相槌を打ちながら、また笑みが漏れる。孝介のブラコンは、兄の呼び方を変えたところで消えるものではない。  「そういえば、中学の入学祝いしてなかったな。何がいい?」  貴樹の問いに孝介は少し考えて、「タカちゃん家、行って良い?」と聞いた。  「俺の部屋物色しても、たいした物出てこないぞ。何か買ってやるから、遠慮しないで言えよ」  「うーん。欲しい物っていうよりさあ、タカちゃんに頼みがあるんだよね」  「何?」  「アルバム見せて。兄ちゃんが写ってる写真が見たい」  俊介の呼び方が、あっさりと『兄ちゃん』に戻る。  「俊介の写真なら、孝介ん家にもあるんじゃないのか。母さんが撮った写真は、おばさんに渡してただろ」  「他の写真も見てみたいんだよ。ねっ、お願い。タカちゃん家のアルバム見せてよ。出したらちゃんと片付けるからさ。ねっ、いいでしょ」  中学の入学祝いよりも俊介の写真を見たいと言われたら、無下には断れない。  「ウチにあるか解らないけど、探してみるか」と承知すると、「大丈夫だよ。タカちゃん家は、ちゃんと整理整頓できてるもん」と生意気な口をきいて、孝介は貴樹の背中を押した。  「懐かしいなあ、タカちゃん家」  玄関を入るなり、孝介は辺りを見回した。  玲香が家を出るまで、彼は学校から帰ると、真っ直ぐ貴樹の家に来ていた。  孝介が幼い頃に父親が亡くなり、その後直ぐに母親の裕子が働きに出たため、俊介と孝介は鍵っ子だった。由紀が産まれたのを機に教師の職を辞し、当時、塾講師をしていた玲香は、バイトの時間を調整して孝介の面倒を見ていた。  裕子が仕事から帰ってくるまで、俊介も孝介も貴樹の家で過ごす。三人揃って宿題して、夕食をとって、風呂に入る。それが、中学二年の春先までの生活スタイルだった。  その後、俊介は来なくなったが、約一年の間、孝介だけはこの家で兄と母の帰りを待ったのだった。  今、裕子は、惣菜のデリバリーの店を経営している。玲香が出て行ってからは付き合いもほとんどなくなったが、月に何度か裕子から惣菜が差し入れられ、貴樹の食生活を豊かにしてくれていた。  「リビングのキャビネット、探してみて。あるとしたら、そこらへんだから」  貴樹に言われ、孝介は勝手知ったる家のその場所に直行する。  貴樹が冷えた缶ジュースを持って行くと、数冊のアルバムが取り出されていた。  「あったか?」  「うーん……」  次々とページを捲る孝介の返事は思わしくない。  「どんな写真を探してるんだよ」  「うーん……。中学の時の部活の写真……」  「短距離の?」  「ううん。リレー……」  その頃の写真が残っているはずはなかった。  中二の春、貴樹が走るのをやめた時、その手の写真は一枚残らずアルバムから剥ぎ取った。玲香がカメラを持たなくなったのも、その頃からのような気がする。  「リレーの写真なんて、どうするんだよ」  「兄ちゃんが探してたみたいだったから……」  「俊介が? 俊介、何で探してたの」  「それは……よく、わかんない」  孝介が、一瞬、言い淀んだ。  「けど、プリントして渡したら喜んでくれるかなぁ、とかさ」  貴樹は、俊介の思惑が気になった。  もし、あの頃のことにまだ捉われているなら、見せるべきではないだろう。  孝介の手からアルバムを手放させる方便を考える。  「それじゃあ、孝介にプレゼントしたことになんないだろ。俺、孝介に喜んで欲しいんだよ」  「うーん……。でも、なあ……」  貴樹の話など上の空で、孝介は、一冊のアルバムのページを何度も捲り続けた。  「ねえ。所々写真が貼ってないページがあるんだけどさあ、これって何かなあ」  「さあなあ。アルバムは母さんがまとめてたから、家出て行く時に持って行っちゃったかもしれないなあ」  話にケリをつけるために、あえて玲香のことを持ち出すと、孝介は、パタンとアルバムを閉じた。  「……ごめん、なさい」  「いや、俺の方こそ、役に立てなくて悪かったな。でも、俊介を喜ばせたいなら、他にいくらでも方法があるんじゃないか」  「例えば?」  「そうだなあ。家の手伝いするとか、勉強頑張るとか……」  「陸上部に入ったら、喜んでくれるかな?」  目を輝かせて、孝介が聞く。  「そう、だな。喜んでくれるかもな」  貴樹はできるだけ平静を装った。  ブラコンの孝介の、ただの思いつきだと解っている。それでも貴樹には、「タカちゃんが走らないなら、僕が走る」と言われたような気がした。

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