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第1話

 プロローグ      煮込まれた野菜の旨味が溶け出し、台所は安堵するような甘い匂いに包まれている。  九歳にしては小柄な東雲(しののめ)春陽(はるひ)は、そっと飛び上がり、コトコトと揺れる小鍋の蓋を取った。  途端にほんわりとした白い湯気が立ち上がり、春陽が刻んだ、少し大きめの野菜がぷかりと顔を出している。 「母さん、野菜が煮えたよ。そろそろお味噌を入れようよ」  着地してつぶやくと、母の明子(あきこ)は小鍋ではなく春陽を見つめ、ため息をついた。 「春陽のジャンプ、滞空時間が長くて静かですごいわ。きっと運動神経がいい父さんに似たのね」 「そう?」 「あたしはこんな感じよ」  母はコンロの火を止めると、その場で飛び跳ねた。ドスンドスンと大きな音が響き、春陽は「家が壊れるよー」と声を上げて笑った。 「母さん、お味噌を入れたら、僕に味見させて」 「わかったわ」  母がお玉を小鍋にくぐらせた。小皿を受け取り、口に含むと、出汁の味と野菜の美味しさが混ざり合って、体がぽかぽかと温まる。 「おいしいね」 「春陽が手伝ってくれたからよ。小学生の男の子とは思えない料理のセンスがあるわ」  母はぎゅっと目尻に皺を寄せ、春陽の頭を優しく撫でた。 「こっちの帰省のお土産用も、春陽に手伝ってもらったから、美味しくできているわ」  小鍋の隣に、蒸気の上がった蒸し器が置いてあり、栗蒸しようかんを作っている。  手作りのこしあんに上白糖を加え、薄力粉とお湯を数回に分けて混ぜ合わせると、溶けたチョコレートのような生地ができる。  型に流し込み、冷凍していた金色に輝く栗の甘露煮を並べて蒸し器で蒸すと、なんともいえない甘い香りが漂ってきて、春陽はステンレスの流しの縁に手をかけ、うっとりした。 「――いい匂いだな」  父の正信(まさのぶ)が口角を上げてキッチンへ入ってきた。手伝っている春陽を見つめ、目尻を下げる。 「春陽は料理上手な明子に似たんだな。妻と息子が美味しい料理を作っている。俺は幸せだ」  春陽の両親は仲がよく、父と母は互いに思いやりを持って接している。そのことが春陽は嬉しい。  栗蒸しようかんを蒸して冷ましている間に、家族三人で茄子の香味ひたしとブロッコリーとエビをあっさり味で和えたサラダ、そして春陽が作った和野菜の味噌汁の朝食を食べた。 「さあ、そろそろ出発しましょう」  母が栗蒸しようかんを切り分けて包み、三人で家を出る。今日は夏休みを利用し、家族三人で瀬戸内海の近くの、父方の祖父母の家に遊びに行くのだ。

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