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第1話
花の下紐
「あぁ、これかぁ、葛城さんのお宅って。いやぁでっかいなぁ」ハンドルから手を離して、お父さんが窓の外を指さしながら言った。その瞬間車が揺れ、「ちょっと、ハンドルから手を離さないでよ、怖いから」とお母さんが言う。お父さんが指さす方を見ると、そこには時代劇に出てくるようなお屋敷が建っていた。一人では開くことも難しそうな大きな扉の向こうには、何があるんだろう。お屋敷の周りは竹林で囲まれていて、ここだけ時代が違うように見える。中から侍が出てきそうだと思った。「葛城電機の会長さんのお宅だもんなぁ、いやぁ実際に見ると凄いなぁ」お父さんは何度もそう言った。
テレビで名前を聞いたことがあるけど、確か電化製品を作る会社で、具体的に何がどう凄いのかまでは僕には分からなかった。とにかくお金持ちなんだろうなぁ、という事だけが、この家を見て分かった。隣では崇恵お姉ちゃんがぐっすり眠っている。山々は燃えるような赤や黄色で彩られ、高い建物がほとんどないこの町は、空が凄く高く見える。今まで住んだどの町よりも田舎だけど、息が詰まりそうな程にビルが密集した都会よりも、この町の方が好きだと思った。
「きっと、楽しい学校生活になるから。ね」お母さんがバックミラー越しに僕を見て微笑んだ。本当にそうかな、と思った。
お父さんの転勤が続き、これが三度目の引っ越しになる。住む場所が変わるということは、通う中学校も変わるということになる。前の学校でクラスの人にやられてしまった手の甲と腕の青なじみは、最近やっと消えてくれた。僕は、引っ越しの日が来るまで何度も神様に今度の学校は、楽しい事がいっぱいありますように、とお願いした。
「今日から皆と一緒に勉強する倉橋薫君だ。皆、仲良くするんだぞ」担任の先生が黒板に僕の名前を大きく書いた。
「倉橋薫です、宜しくお願いします」ぱちぱち、という乾いた拍手が響いた。「じゃあ倉橋君の席はあそこな」先生が指さす方を見ると、僕の隣の席が空いている。今日は休みなのかな、と思った。
用意された席にそっと着くと、椅子の足を蹴られた。恐る恐る振り向くと、僕よりも体の大きい生徒がにやにや笑いながら僕を見ていた。体が細かく震え、背中に汗がにじむ。やっぱり神様なんていないんだな、と思った。
まだどこに何があるのかも分からない校舎の中を、必死で走って逃げた。その途中で、大きな鏡を見つけた。小さい頃からよく女の子に間違えられてきたこの顔。色白で、ひ弱な体。女の子みたいな名前。「おい、待てよ逃げるなって!」後ろから聞こえてくる怒鳴り声がどんどん近くなる。夢中で走ってたどり着いたのは行き止まりだった。
「なんだよお前、その顔。女みたいな名前」「なよなよしてて、弱っちいな。小さいし、本当に中学生かよ」結局追いつかれてしまい、四人がかりで囲まれてしまった。どん、と強く突き飛ばされ、後ろに倒れてしまった。名前も、この体も、お父さんとお母さんから貰った大切なものなのに、なんでそんな事言われなくちゃいけないんだろう。痛くて悔しくて悲しくて、涙があふれる。腕を掴まれても振りほどく事すら出来ない。折角前の学校での傷が消えたと思ったのに、また傷だらけになってしまうんだ、と思った。
「泣いてないで、何か言えよ」一際体の大きい生徒がこぶしを振り上げ、殴られる、と思ってぎゅっと目を閉じた瞬間、
「やめなよ」というよく通る声がした。
そっと目を開けると、一人の男子生徒が立っているのが見えた。穏やかな弧を描く眉に、黒い大きな瞳。学ランの襟をきちっと留め、爽やかな清潔感がある。背負っている鞄は、重たそうに膨らんでいる。こんなにも一目見たら忘れられないほどに凛々しい人、クラスにいただろうか、と思った。「うわっ、葛城じゃん、おい逃げるぞっ」「なんだよ、今日休みじゃなかったのかよ」いじめっ子たちは、蜘蛛の子を散らすように去っていった。
何が起きたのか分からず呆然としていると、葛城と呼ばれた男の子がこっちに向かって歩いてくる。「大丈夫?」体をかがめ、手を差し出してくれた。
近くで見ると、より一層大人びて見える。「あ、ありがとう」その手を取って立ち上がると、「僕、葛城博久って言うんだ。よろしくね」と微笑んだ。笑うと年相応に見える。「あ、倉橋薫です…よろしくお願いします。最近引っ越してきて…」「あ、昨日先生が言ってた転校生って倉橋君の事だったんだ。僕今朝の集会に出られなかったから、会えなかったね」
その時、隣の席が空席だったのを思い出した。この人が隣の席にいるんだと思うと、何だか安心した。葛城という最近聞いた覚えのある苗字のこの人は、あのお屋敷に住んでいる人なんだろうか。「うわぁ、結構ひどくやられたね。痛かったでしょ。全く野蛮だなぁ。ねぇ、今日の放課後僕の家来なよ。手当てしてあげる。今日、保健室の先生が出張でいないんだ」「え、」葛城君は、僕の顔についた傷を見ながらそう言った。友達の家に遊びに行った事なんかないし、遊びに行くほど仲のいい友達などいたことがない。正直怖い。でも、今は助けてくれた人が現れた事で頭が一杯で、断ったら二度とこの人と話せないような気がした。小さく頷くと、「同い年の誰かがうちに来るの、初めてだな」と葛城君は嬉しそうに笑って、僕の腕を引いて歩き出した。
放課後、葛城君と一緒に帰る事になった。僕よりも頭一つ分背が高い。「最近急に寒くなったね」葛城君は小さく震えて身を縮める。「うん」会話が下手な僕は、気の利いた一言を返すこともできない。「倉橋君は、これが初めての転校なの?」「ううん、もう三回目になるよ」「そうなんだ。引っ越し、大変でしょう。兄弟はいるの?」「うん、お姉ちゃんが一人いるよ」「へぇ、いいなあ。僕一人っ子だから羨ましい」
葛城君は、僕が答えやすいように話しかけてくれた。頭が良くて、気遣いが出来る人なんだなと思った。落ち葉を踏むと、ぱりっとした、缶から出したばかりの海苔のような乾いた音がする。「着いた」葛城君の声に顔を上げると、そこにはあの大きなお屋敷があった。やっぱり葛城君は、この家の人間だったんだ。葛城君が重たそうな扉を両手で押し開けようとしているのを見て、僕も反対側の扉を精一杯押した。
ぎぎ、と軋んだ音を立てながら開いた扉の向こうには、侍ではなく、着物を着た女の人が箒を片手に立っていた。どこかの旅館の女将さんのようないで立ちで、綺麗にまとめられた黒い髪には、赤い石が付いたかんざしを挿している。薄紫色の着物には、藤の花が描かれていて、とても綺麗な人だった。「あら、おかえり」「ただいま、お母さん」こんなに綺麗な人がお母さんなのか、と思った。よく見ると優しい目元が似ている。
「その子はお友達?あら、怪我してるじゃない。大丈夫?」葛城君のお母さんは心配そうに僕を見た。「そう、友達。クラスの奴にやられちゃったんだ。僕の家で手当てしてもいいでしょ」「ええ、もちろん。冷蔵庫にジュースとおやつがあるから、一緒に食べなさい」「うん、分かった」玄関の戸を開ける葛城君について行って、恐る恐る家の中に入った。
広い玄関の隅には、葛城君のお母さんの物と思われる女性ものの靴や、葛城君のお父さんの物と思われる紳士靴が綺麗に収められている。玄関から続く長い廊下は顔が映りそうな程に磨き上げられていて、歩くのが申し訳ない。
いつかテレビで見た、世界に一つしかないと言われていた骨董品が目の前にあって驚いてしまった。僕が思っていた以上にお金持ちなんだなぁ、と呆気にとられ、ぶつからないように気を付けなくては、と思うとどうしても忍び足になってしまう。大きな音を立てたら天井裏から忍者が出てきそう。
葛城君の部屋に向かう途中でいくつかの部屋を見たけど、どの部屋もまるでテレビで紹介される旅館の一室の様だった。開いた口がふさがらなくて、夢なんじゃないかと思ってしまう程に立派な家だ。
「ここが僕の部屋だよ」葛城君はジュースが入ったコップとお菓子が盛られた皿が乗ったお盆を片手に、部屋の襖を開けた。その瞬間、墨のような、爽やかないい匂いがした。葛城君の部屋の中は、和風だけど、学習机やブリキのおもちゃ、偉人の伝記などが並ぶ本棚があって、年相応の物が置いてあって子供らしい雰囲気を感じる。「怪我したところ、見せて。先生みたいに上手に出来ないかもしれないけど」葛城君は引き出しの中から救急箱を取り出しながら言う。「う、うん。ありがとう」
向かい合って座り、葛城君の手の動きを見ていた。慣れた手つきで傷跡の消毒をして包帯を巻いて、動きに無駄が全く無くて、まるでお医者さんの様だと思った。「今日、どうして朝の集会にいなかったの?」「あぁ、習い事のせいだよ。何個か掛け持ちしてるんだ。今日は英会話。お父さんが先生に学校なんかよりも習い事を優先させろって無茶言ってるんだ。僕の気持ちなんか関係ないんだ。学校の授業について行くのが大変なわけじゃないんだけど、特別扱いされるのが大嫌いなのにさ、全然聞いてくれないんだ」「そうなんだ…大変だね。英語が喋れるのって、凄くかっこいいと思うよ」というと、「そんな事言われたの初めてだな」と葛城君は笑った。
「あの、どうして僕があそこにいるって分かったの?」「ん?あぁ、遅れて学校に来たから、先生に登校してきましたって報告するために職員室に寄った時に、別館の方に誰かが走っていくのが見えたんだ。今日は移動教室の授業なんか無いし、どうしたんだろうと思って見に行ったんだよ」もし葛城君が気付いてくれなかったら、どうなっていたんだろう。
「皆、弱い者いじめなんか何が楽しくてするんだろうね」そう言う葛城君の顔が、寂しそうに見えた。「僕が悪いんだよ。弱いから抵抗すら出来ないし、皆それを見てるのが面白いんだと思う。男なのに、情けないね」と僕が言うと、「そんなことないよ」と葛城君が言う。「倉橋君は、情けない人なんかじゃないよ。絶対倉橋君のせいじゃないから」今日初めて会ったのに、なんでこんなに優しくしてくれるんだろう。「ありがとう」と言うと、葛城君はにっこり笑った。
「ねぇ、僕たち友達になろう」「え?」「僕、友達いないんだ。皆僕の事が怖いんだって。僕に何かすると、僕のお父さんに何かされるって思ってるみたい。そんな訳ないのにね」「それは、凄く嬉しいけど…僕と一緒にいたら葛城君までいじめられちゃうかもしれないよ」
自分のせいで、こんなにいい人まで痛い思いをするのは絶対に駄目だと思った。「大丈夫だよ、その時は先生に密告しちゃおう」いひひ、といたずらっぽく笑って言うのがおかしくて、僕も笑った。「ねぇ、下の名前で呼んでいい?僕の事も下の名前で呼んでよ」家族以外に下の名前で呼ばれた事なんか無い。「う、うん、分かった、博久、君」「なんか硬いなぁ。もっと砕けた感じでいいよ」「え、じゃあ…博ちゃん?」「あはは、博ちゃんか。父さん達にも呼ばれたことないや。なんか嬉しいな。じゃあ、俺も薫ちゃんって呼ぼう」「僕も薫ちゃん、なんて呼ばれたことないや。なんだか面白いな」二人でふふ、と笑いあった。今日は初めて会った人とこんなに話せるなんて、自分で自分に驚いた。人生初めての友達は、今まで会ったことのないくらいに優しい人だった。
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