2 / 8

第2話

「薫ー、準備できたのー」 「うん、今行くよ」 一階から俺を呼ぶ母さんの声に返事をして階段を下りていく。「いやぁ、今日から大学生かぁ。写真撮ろう、皆でさ」 父さんはこの日に合わせて買ったデジタルカメラを手に、嬉しそうに笑う。「スーツよく似合うじゃん。なんかあれみたいだね、任侠映画に出てきそう。にしても、背が伸びたねぇ。百七四センチだっけ?逞しくなったね」 俺の肩に腕を回し、刈りたての俺の坊主頭をわしわしと撫でながら崇恵姉ちゃんが言う。 あれから俺と博ちゃんは、別々の高校に進学した。初めて心の底から仲良くなりたいと思えた人との別れは、想像以上に辛かった。 自分の体の中から、大きな何かがぽっかり無くなってしまったようで、いじめられていた頃よりも寂しいと思った。 高校に進学してからは、その寂しさを埋めるように勉強した。頭の中を文字や数式で一杯にすると、寂しさがほんの少しだけ和らぐからだ。 高校生活が始まると、俺の体はどんどん成長していった。成長痛が痛くて眠れなかった事もある。骨が太くなって、背が大幅に伸び、肩幅がしっかりして、声がぐんと低くなり、顔つきが険しくなり、あまりの急成長に俺も家族も驚いた。 小さい頃の面影など微塵も残っていない俺の顔を見た親戚たちは、本当に薫君か、と言いぽかんとしていた。クラスでは、寡黙な怖いやつと怖がられてしまい、友達が出来なかった。皆の輪の中に入れないのもあったけど、博ちゃん以上に仲良くなれる友達が出来ると思っていなかった。 博ちゃんから話しかけてくれたから友達になれたようなものだから、俺から人に声をかけるなんて事が出来なかった。「俺も、こんなに変わると思ってなかったな」随分低くなった自分の声も、今ではすっかりなじんだ。「今日は入学式だけなんでしょ。怪我しないようにね」母さんが俺の背中を撫でながらそう言った。 「ここで緊急ニュースです。葛城電機会長の葛城元彰氏が、急な体調不良により病院に搬送されました。詳しい病状などは分かっておりません」 聞き覚えのある苗字が耳に飛び込んできてテレビを見ると、どこかで見たことのある顔が映し出されていた。初めて博ちゃんの家に行ったときに見せて貰ったアルバムの中に、この顔を見た。「あら、葛城さんとこのお父さんだ。大丈夫なのかな。ていうか薫、テレビ見てないで早く行きな、遅刻するよ」「あ、うん」崇恵姉ちゃんの声で我に返り、玄関に向かった。妙な胸騒ぎを感じたまま、慣れない革靴を履いた。 会場は予想以上の人で溢れかえっていた。 所々、見知った顔があるような気がする。皆髪を明るい色に染めたり、ワックスで派手にいじっていたり、ピアスを開けたり、思い思いの格好をしている。坊主頭の俺の方が凄く目立っているような気がした。 途中で目的地と逆方向に進んでいるのに気が付いて振り返ると、どん、と誰かにぶつかってしまった。 「あ、すみません、大丈夫ですか」 「いや、こっちこそすみません」 ぶつかってしまったその人を見ると、胸の奥で強い風がびゅう、と吹いたような気持ちになった。どこかで見たことがあるようなその人の顔を凝視してしまう。 眉にかかるくらいのさらりとした黒髪で、黒目がちの目に、穏やかな眉。とても優しそうな雰囲気を纏っている。その人も、同じように俺を見る。 「博ちゃん…?」 頭に浮かんだ、昔何度も読んだ名前を口にすると、その人は大きく目を見開いて 「え、もしかして、薫ちゃん…?」と言った。俺の事をその呼び方で呼ぶのは、一人しかいない。「うん、そうだよ、倉橋薫。葛城博久君だよね」と言うと、 「本当に?本当に薫ちゃんなの?うわぁ、久しぶりだね、凄いね、全然違う人みたい。覚えててくれて嬉しいよ」 ぐっと俺の手を握って、昔と変わらない笑顔を俺に向けて、そう言った。「本当に久しぶりだね。俺、昔とだいぶ変わっちゃったから、気付いてもらえないかと思った」「いやぁ、随分背が伸びたんだねぇ。凄く逞しくなったね。なんかどこかで見たことあるんだよなぁ、って思ってたら本当に薫ちゃんなんだもん、びっくりしちゃった」 再会できたのがあまりにも嬉しくて、自然と口角が上を向く。博ちゃんも随分背が伸びて、俺よりも少し背が高い。優しい雰囲気はそのままで、ぐっと大人っぽくなっている。「大学一緒なんだね。嬉しいなぁ、話したい事が一杯あるよ」「俺も、色んな話したい」胸に空いていた穴が、溢れんばかりの喜びで一瞬で埋め尽くされていく。不安で一杯だった大学生活が、一気に楽しみになった。 なんでこんなに習い事をしなきゃいけないの、と聞いても、「それがお前のやるべき事だからだ」という言葉以外返ってこない事を知ったのは、5歳の頃。 学校の教科書よりも分厚い、父さんが勝手に通う事に決めた塾のテキストを鞄に入れたまま登校した日の事だった。 職員室に向かおうとした時、視界の隅で何かが動いたような気がした。よく目を凝らすと、見慣れない生徒が別館の廊下を必死に走っているのが見えた。 その生徒の後を、ガラの悪いクラスメイトが追いかけている。今日は家庭科や美術など、教室を移動するような授業は無い。 ただ事じゃない雰囲気を感じて、重たい鞄を背負ったままで別館に向かった。廊下の奥の方で数人がかりで誰かを囲んでいる。 「やめなよ、何してるの」僕がその場に付いた途端、クラスメイト達は舌打ちをしながら逃げていった。追われていた生徒は、小柄で華奢な体つきの男の子だった。 ゆっくりと顔を上げて僕を見る。頬や腕に痛々しい傷が沢山あって、もし僕がここに来なかったら、あいつらはもっとひどい事をしたかもしれない、と思った。 自分と違う人だったら、何をしていいとでも言うんだろうか。自分と見た目が違うから、育った環境が違うから、気に入らないと思った人間だったら、ボロボロにしてもいいと思ってるんだろうか。長い前髪の隙間から覗く目が、僕の事を見ている。凄く怯えていて、僕が誰なのか分からなくて戸惑っているのが伝わってくる。この男の子を一人にしてはいけないと、強く感じた。「大丈夫?」差し伸べた手を、男の子は恐る恐る握って立ち上がった。「あ、ありがとう」小さな声で、男の子は言った。 僕はこの時初めて、遅く登校してきて良かった、と思った。 その男の子の名前は、倉橋薫君。 綺麗な名前だな、と思った。家に上がって貰った時、倉橋君はお尻を横に向けて靴を直して家の中に上がった。 その後も、畳のへりを踏まなかったり、作法を知っている人なんだな、と思った。僕の家の中を見ながら、「うわぁ、」とか「へぇ…」とか呟いていてちょっと面白い。怯えていたさっきと違って落ち着きを取り戻した倉橋君は、大人っぽい人だった。 話し方が優しくて、僕よりも年上なんじゃないかと思ってしまう。まなざしが真っすぐで、前髪で隠れているのが勿体ないと思うほどに綺麗な目をしている。 「あれは何の本?」倉橋君が本棚を見上げながら言う。「飛行機の本だよ。大きくなったらパイロットになりたいんだ」「そうなんだ。かっこいいね」柔らかな物腰と、纏っている不思議な雰囲気に強く惹かれ、友達になりたい、と思った。 「ねぇ、僕たち友達になろう」「え?」「僕、友達いないんだ。皆僕の事が怖いんだって。僕に何かすると、僕のお父さんに何かされるって思ってるみたい。そんな訳ないのにね」この人がどんな人なのか知りたい。生まれて初めてそう思った。 「ねぇ、下の名前で呼んでいい?僕の事も下の名前で呼んでよ」「う、うん、分かった、博久、君」「なんか硬いなぁ。もっと砕けた感じでいいよ」「え、じゃあ…博ちゃん?」「あはは、博ちゃんか。父さん達にも呼ばれたことないや。なんか嬉しいな。じゃあ、俺も薫ちゃんって呼ぼう」「僕も薫ちゃん、なんて呼ばれたことないや。なんだか面白いな」 倉橋君は困ったような顔で、自分の頭を押さえている。初めてつけて貰った博ちゃん、という呼び方で呼ばれるのが、くすぐったくて何だか面白い。友達ってこういうものなんだな、と思った。 「おかえりなさい。高校での寮生活、長いようで短かったわね 」県外の寮で高校生活を送っていた俺を、母さんが迎えてくれた。「ただいま。これで毎朝五時起きともおさらばだ」と言うと、ふふ、と母さんが笑う。 地元の大学に通いたいと思っていたので、卒業式を終えた数日後に実家に帰って来た。高校生活は、俺にとって特別楽しいものではなかった。勉強するために通っていると思っていたし、彼女が欲しいなんて思わなかった。卒業式では、皆別れが寂しいと泣いていたけど、俺は涙一つこぼれなかった。 多分、中学生の頃の卒業式での別れがあまりにも寂しかったからだと思う。 俺と薫ちゃんは、お互いを親友と呼べるほどに仲良くなった。 薫ちゃんは他人の気持ちの変化に敏感で、俺が嫌だと思う事を一切言ったりしなかった。俺が家の事について聞かれるのが大嫌いだという事を知っていたから、テレビで父さんの事がニュースに出るたびに取りまきに囲まれる俺を、こっそり腕を引いて助けてくれた。人混みの隙間からそっと手が伸びてきて、俺の学ランの袖を掴む。 人が少ない所まで二人で小走りで逃げて、笑いあう。そんな日々が、本当に楽しかった。 高校生になってからも、家の事について聞いてくる人は後を絶たなかった。俺と仲良くなりたいからではなく、俺の家の事が知りたくて集まってくる。だから心を開きたいと思う人なんて一人もいなくて、面倒なことになりそうな時は図書室に逃げていた。こういう風に囲まれている時に俺の腕を引いてくれた手は、もう無い。 息が切れるまで走って、笑いあう事も無い。授業で分からなかったところを教え合う事も無い。そう思った途端、猛烈に寂しくなった。 薫ちゃんと別れるのが本当に寂しくて、県外の高校に通うのを一瞬ためらうほどだった。近所の公園の大きな桜の木の下で、また会おうね、と約束してから三年経った。薫ちゃんは、どこの大学に通っているんだろう。手紙のやり取りをしていたけど、あまり進路について踏み込まれるのは嫌かな、と思いどこに進学するのか聞けないまま、今日を迎えてしまった。 「明日は入学式ね。スーツちゃんと用意してある?」「うん。なんか緊張するなあ」「あら、あなたらしくないわね。今日は早く寝て、明日に備えなさい」本当は触れたくないけど、聞かなければいけない事を聞いた。 「父さん、どうしてるの」「今は落ち着いてるわ。入院した当時はどうなるか私も先生も心配してたけど、ご飯もちゃんと食べられてるの」「そう…」息子の俺でさえ、父さんの体調不良をテレビのニュースで知った。自分の息子に、自分の体の不調についても話してくれないのか、と心配する気持ちよりも苛立ちのような気持ちが芽生えてしまった。「ほらほら、そんなに怖い顔しないで。今日は博久が好きなもの沢山作ったのよ。冷めないうちに食べましょう」 母さんは笑って気丈に振る舞うけど、本当は心細くてたまらないはずだ。俺がしっかりしなくちゃ、と思いながら、懐かしい母さんの手料理に箸を伸ばした。 大学の門をくぐると、見渡す限り人、人、人、で目まいがしそうだった。金や茶色の髪の毛がぐるぐると動き回る。黒髪の俺の方が珍しいのかもしれない。何も期待していなかった。友達を作りに来ている訳じゃないんだ。 でも、これだけ同年代の人が集まっていると、つい探してしまいそうになる。人の波に押されながら、もたつく足取りで目的地に向かっている時、前を歩いていた人が振り返り、肩が強くぶつかってしまった。 「あ、すみません、大丈夫ですか」「いや、こっちこそすみません」 顔を上げその人の顔を見た瞬間、息が詰まりそうになった。 坊主頭で、しっかりとした体つきの人。濃くはっきりとした眉に切れ長の目で、とても精悍な顔立ちをしている。 まるで生まれた時代が違うようだと思った。 でも、どこかで見たことがあるような、この真っすぐな目で、見つめられた事があるような気がする。 その人は眉を寄せ、「博ちゃん…?」と言った。 俺が初めて貰ったあだ名。そのあだ名で俺を呼ぶ人は、一人しかいない。 「え、もしかして、薫ちゃん…?」「うん、そうだよ、倉橋薫。葛城博久君だよね」「本当に?本当に薫ちゃんなの?うわぁ、久しぶりだね、凄いね、全然違う人みたい。覚えててくれて嬉しいよ」三年ぶりに再会した薫ちゃんは、まるで別人の様だった。でも、優しい話し方はそのままで、中身は昔の薫ちゃんのままなんだと安心した。あまりに嬉しくて、体が震えだしてしまいそうだった。握った手のひらから、優しいぬくもりが伝わってくる。この手が、何度も俺を助けてくれた。「本当に久しぶりだね。俺、昔とだいぶ変わっちゃったから、気付いてもらえないかと思った」「いやぁ、随分背が伸びたんだねぇ。凄く逞しくなったね。なんかどこかで見たことあるんだよなぁ、って思ってたら本当に薫ちゃんなんだもん、びっくりしちゃった」いつか会おうと約束した日を、今日、迎えた。「大学一緒なんだね。嬉しいなぁ、話したい事が一杯あるよ」「俺も、色んな話したい」積もりに積もった思い出話が、咲きに咲いて止まらない気がする。 暗く湿っていた自分の心に光が差し込んでいくようだった。

ともだちにシェアしよう!