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第3話
しばらく会わないうちに、博ちゃんはさらに大人っぽくなっていた。
俺よりも少し背が高くて、スタイルがいい。さらさらと風に揺れる黒髪、すっとした鼻筋、優しそうなまなじり。
いつも黒かグレーか白の同じ服を着まわす無彩色の俺と違って、博ちゃんは服装にも気を遣っている。
皺ひとつないシャツにジーパンというシンプルな格好でもとても清潔感がある。書く字も、博ちゃんの人柄がにじみ出る柔らかな書体だった。
同い年の人に囲まれていると、落ち着いた話し方や柔らかい物腰が余計に大人びて見えて、同じクラスの女子のほとんどが博ちゃんと仲良くなりたいと思っているらしい。
サークルに入らないかだの、同好会に所属してくれだの、ありとあらゆる勧誘が博ちゃんを囲む日々が続いた。
たとえどれだけの人に囲まれていようと、博ちゃんは俺を見つけると、俺の隣に来てくれる。「あ、薫ちゃん今からお昼?一緒に行こう」「うん」
今の俺には似合わない可愛すぎる呼び方かもしれないけど、呼ばれると懐かしい気持ちで胸の中がいっぱいになる。
「あの人たち、放っておいて大丈夫?」博ちゃんを囲んでいた人たちは、悔しそうな顔でまだこっちを見ている。「ん?いいのいいの、俺サークルとか興味ないから」そう言って博ちゃんは歩き出す。
自由は怖いと思った。何でも自分の思い通りに出来るけど、全ての責任を自分で負う事でもある。皆いきいきとしてて、思い思いの青春を謳歌している。俺もその中にいるはずなのに、溶け込めないまま孤立している。
「薫ちゃんはサークルとか興味ないの?」
「うん。それよりも勉強とか本読んだりとかしたいことが沢山あるんだ。今度漢検一級受けようと思ってるんだ」
「一級?凄いなぁ、あれって旧漢字も出るよね。俺暗記得意じゃないから、あれだけの漢字を覚えられるのって凄いと思う」「はは、ありがとう。他にも色々やりたいことがあるし、それに…」「それに?」
「仲良くなれる自信がないから」
見た目が大きく変わっても、中身は幼い頃のままで、人と話すのが怖い。ましてや、あんなに派手そうな人たちの中に飛び込む事など出来そうになかった。
弱い心のまま、体だけが大人になってしまったような感じがする。それがなんだか情けなくて、悲しくなった。「自分がしたい事に時間を使うのが一番いいよ。したくない事なんて、やらなくていいじゃない」博ちゃんは笑ってそう言った。
「ありがとう」博ちゃんと話すたびに、積もっていた寂しい気持ちが溶けていく。入学式の後、お互いの高校生活について話が止まらなくて、こんなに夢中で話したのは初めてなんじゃないかと思うほどだった。
「あ、そういえば昨日先に帰っちゃってごめんね。先生に頼まれてた事があったのに」博ちゃんが申し訳なさそうに言った。
「ううん、大丈夫。お父さんのお見舞いの方が大事だよ」博ちゃんのお父さんの容体は思わしくない様だった。入院当時よりは落ち着いているものの、まだ油断できない状態らしい。「博ちゃんは大丈夫?夜眠れてる?」「俺?俺はへっちゃらだよ。どっちかって言うと母さんの方が心配なんだよね…自称父さんのお友達から色々電話が来たりしててさ」
困ったような顔で博ちゃんは笑った。俺は正直、博ちゃんの方が心配だと思ってしまった。辛い時ほど大丈夫、と言う癖は今でも変わっていない様だった。
「薫ちゃんって、彼女ほしいと思ったことある?」
昼食時に急にそんな事を言われ、驚いて米粒が変なところに入りそうになる。
「な、ないよ。どうしたの急に」今まで、誰かと付き合いたいと思ったことが無い。
そもそも、付き合うという事がどういう事なのか分からなかった。ただでさえ人と仲良くなるのが苦手なのに、異性と距離を縮めるなど俺に出来るわけがなかった。
「なんとなく気になって、聞きたくなっちゃってさ。高校生の頃とか、どうだったのかな、って思って」「俺、彼女がいたこともないし、付き合うっていう事がどういう事なのかも分からないんだ。それに流行りに疎いし、俺と一緒にいても楽しくないと思う」
「えぇ、俺薫ちゃんといて楽しいよ」
博ちゃんがそう言った。こんな人相が悪くて人づきあいが下手で寡黙な俺といて楽しいなんて、どうしてそう思ってくれるんだろう。
「そ、そうかな…博ちゃんはどうだったの?」「俺?一回だけあるんだけど、付き合ってたって言っていいのか、微妙な感じだったんだ」「微妙?」
「うん。他校の人に声をかけられて、最初は断ったんだけど、その後も何度か付き合ってくれって言われてさ。でも、毎日メールしたり、出かける約束したり、そういうのに耐えられなくなっちゃったんだ」
確か博ちゃんが通っていたのは全寮制の学校だ。
それなのに他校の人から声をかけられるなんて凄いな、と思った。
「結局デートなんかしないまま、俺から別れてくださいって言ったんだ。後から知ったんだけど、その人、俺の家の事に興味があったんだって。友達と賭けをしてて、もし俺の家の面白い話を聞き出せたら景品が貰える、みたいなさ。別れて正解だった」
そう言う博ちゃんの目が悲しそうで、俺まで辛い気持ちになる。
皆、人の気持ちを何だと思っているんだろう。自分がされたらどう思うか、考えた事は無いんだろうか。
「辛かったでしょ」「え?」「そんな酷い事されて、気持ちを踏みにじるような事されて、辛かったでしょう」博ちゃんは少し驚いたような顔をした後、「ありがとう」と微笑んだ。この優しい笑顔で、辛い気持ちを隠して色んな人と接していたんだろうと思った。
「ねぇ薫ちゃん、今度どこか出かけようよ。隣町に大きな本屋さんが出来たんだよ」
「へぇ、そうなんだ。じゃあ、俺が運転するよ」「え、薫ちゃんもう免許持ってるの?」
「うん、大学生になる前に取っちゃおうと思って。教習所が大混雑してて大変だったけど」「いいなぁ、俺こっちに帰ってきてから取ろうと思ってたから、まだ持ってないや。友達が運転する車に乗るの、初めてだなぁ」
「俺も、家族以外の人を乗せるの初めて」
こんな俺と一緒にいて楽しいと言ってくれる人が、この先少しでも楽しい思いが出来るようになるといいなと思った。
薫ちゃんは見た目も中身もより凛々しくなっていた。
綺麗に刈られた坊主頭は、人混みの中にいてもすぐに見つけることが出来る。
昔の映画で活躍していた俳優のようないで立ちで、周りにいる人たちが凄く幼く見えるくらいだった。
着ている服は黒か白かグレーというシンプルな色で、それが薫ちゃんの堅実な雰囲気をより一層引き立てる。
和服がとても似合いそうだと思った。シャツもハンカチも丁寧にアイロンがけをしてあって、身だしなみもきちんとしている。
切れ長の目は、刃物のような凄みがある。そんな薫ちゃんの雰囲気に押されてか、誰も薫ちゃんに近寄ろうとしない。立っている時も座っている時も姿勢が良くて、俺の背筋までぴん、と伸びる。あと、所作の一つ一つがとても丁寧だった。ノートをめくる手つき、立ち上がる時の動き、考え事をする時に頭を抱える骨ばった指。何気ない仕草を目で追ってしまうほどに綺麗だと思った。薫ちゃんの字は、明朝体のようなとても達筆な字で、まるで印刷されたように見える。特に食事をしている時の薫ちゃんの所作は本当に綺麗だった。魚の骨をこんなに無駄なく取る事が出来るなんて、感心してしまうほどだった。お箸の使い方のお手本を見ているような気持ちになる。
「薫ちゃんってさ、カップラーメンとかファストフードとか食べるの?」
「うん、食べるよ。なんで?」「いや、なんていうか、体にいい物だけ食べてそうな感じがするなあと思って」「そ、そう?初めて言われた」
薫ちゃんは見ていて飽きない。もっと色んな仕草を見てみたいと思う程だった。
「葛城クンってさ、ほんとにあのでかい家に住んでんの?やばいねぇ」「お父さん、ニュースによく出てるよな。お手伝いさんとかいんの?行ってみたいわーそんな家」大学生になっても、色んな人に囲まれてしまう。
県外からも来ている人が多いからか、俺の家族の事などについてもあれこれと聞いてくる。もうすぐ成人になるって言うのに、人の家の事を無神経にずけずけ聞いてくるなよ、とうんざりしてしまう。
だから、薫ちゃんといるのが一番気楽だった。何も言わず、隣にいてくれるだけで心が安らぐ。薫ちゃんが纏う静かな空気に、俺も包まれているような感じがするからだった。
「なんで葛城クンってさー、あの、何だっけ、あの人…そう、倉橋クン?あの人といつも一緒にいるの?全然タイプ違くね?」「あー、それ私も思う。古いっていうか、お堅いっていうか、全然大学生っぽくないよね。なんか蛇みたいって言うか、いつも怖い顔してるし、話しかけるのちょー怖い」
よくそんな無神経なことが言えるな、と驚いてしまった。薫ちゃんがどんなにいい人かも知らないくせに、そんな事を言うような人に話す事などない。適当にあしらって、薫ちゃんのもとに向かった。
「お腹すいたなぁ、何食べよう」食堂に向かっている時、薫ちゃんがふと立ち止まってしゃがみ込む。「俺、魚が食べたい気分だな」そう言いながら廊下に落ちているペットボトルを拾って、ゴミ箱の中にごとん、と落とした。
薫ちゃんは、色んな所に気を配っている。こういうさりげない優しさを持っている人なのに、なんで皆薫ちゃんの中身を見ようとしないんだろう。
「具合悪いの?」もやもや考え込む俺に、心配そうに薫ちゃんが言う。「ううん、何でもない」この優しさは俺だけが知っていたい、と思った。
放課後、知らない人に呼び止められた。
小柄な、肩まで伸びた明るい茶髪の今風の格好をした人だった。その後ろに二人、友達と思われる人が見える。
「あの、葛城君って彼女とかいますか?」大宮加奈さんというその人は指先を動かしながらそう言った。
「いえ、いませんけど」「じゃあ、その、私と付き合ってくれませんか」後ろの二人組が俺の事をじっと見ている。俺はこの人の事を全然知らない。どういう人なのかも知らない人と付き合う気にはなれなかった。
「あの、申し訳ないんですけど、俺はあなたの事を何も知らないし、誰かと付き合うつもりもありません。なので、付き合う事はできません。ごめんなさい」なるべく傷つけないように、丁寧に断った。「なら、せめて友達からでもなってくれませんか。私どうしても葛城君と付き合いたいんです」「加奈、凄くいい子なんですよぉ、真面目だし、優しいし」「そうそう、私達からもお願いします」後ろの二人組も一緒になって詰め寄ってくる。自分以外の人間を連れてきて、意地でも俺にイエスと言わせるつもりなんだなと思った。
高校生の頃の、嫌な思い出が蘇る。
「わ、分かりました、友達からなら」というと、三人はきゃー、と声を出していた。たった数分の出来事なのに、すっかり疲れてしまった。明日から学校に来るのが少しだけ億劫になりそうだと思った。
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