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第4話

「昨日、告白されたんだ」 図書室で勉強をしている時、博ちゃんがそう言った。 「え、そうなの?」「うん。でも、全然知らない人なんだ。断ったけど、友達からでもって詰め寄られて頷いちゃった」 これだけかっこよければ、声がかかるのも当然だろうと思った。 「こんな事言うのもあれなんだけど、正直、怖いんだ。高校生の頃の事思い出しちゃって」 この前聞いた、博ちゃんの高校生の頃の辛い思い出。 博ちゃんがその時と同じ思いをするのは、俺も嫌だと思った。でも、俺は博ちゃんの相手の事を何も知らない。 何も知らない人の事を悪く言うような事はしたくない。もしその人と付き合う事で博ちゃんが辛い思いをするようなら、俺は付き合ってほしくないと思った。 俺に博ちゃんの恋路をどうこうする権利などないのに、そんな事を考えてしまう。 辛そうな博ちゃんに何と返したらよいのか分からなかった。「何か辛い事があったら、言ってね。その、何も大した事なんて出来ないけど、聞くことだったら出来るから。俺じゃ頼りないかもしれないけど」そう言うのがやっとだった。 博ちゃんはシャーペンを動かす手を止めて俺を見る。「ううん、凄く頼もしい。ありがとう。急に変な事言ってごめんね」申し訳なさそうな顔をして、そう言った。 「父さんも退院できたし、これから色々落ち着いてくるといいな」博ちゃんが小さい声でそう言った。まるで自分に言い聞かせるように言っていたのが、少し気になった。 家に帰った後、姉ちゃんと食器を洗っている時だった。 「先日退院した葛城元彰氏が県内の総合病院に搬送されました。今日出席予定だった会議に向かう途中胸部に激しい痛みを訴え倒れ、容体は深刻で、一刻を争う状態とのことです」 思わず泡だらけの手のまま、居間に向かった。 「あれ、ついこの間退院したばっかりじゃなかった?無理して早く退院したのかな。大きい病院に運ばれたんだ。何もないといいんだけどね…」 俺と同じように居間に飛んできた姉ちゃんが、心配そうな表情でそう言った 。頭に、博ちゃんの顔が浮かんだ。きっと今一番不安な気持ちで一杯なのは博ちゃんだろう。「博ちゃん、大丈夫かな」と呟く俺に、「大丈夫じゃないと思う。不安でたまらないんじゃないかな」そう言いながら姉ちゃんが俺を台所に引き戻した。 「こういう時こそ一緒にいてあげなきゃダメだよ。特別な事なんかできなくってもいいから、葛城君の隣にいてあげな」姉ちゃんは泡を洗い流した手で、俺の背中をとん、と叩いた。 「うん」大宮さんの事、お父さんの事。 色んな事が博ちゃんに複雑に絡んでいる。せめて博ちゃんの心のもやついた感情を、少しでも無くす手伝いがしたいと思った。 博ちゃんは大宮さんと付き合う事になった。 もっと早く告白すればよかった、と悔しがる女子が沢山いた。それからというものの、博ちゃんの笑顔が硬くなっているような気がした。 何か隠しているような、本当に言いたいことがあるけど言えない、というような表情をしている。俺からそれを聞いてもいいのか、そうすることで博ちゃんの心を余計えぐるような事にならないか、と思い聞くことが出来なかった。 博ちゃんが教室に入った途端、皆が博ちゃんを取り囲む。「ねぇ、大宮さんと付き合ってるってマジ?」「お父さん、今大変なんでしょ?テレビで見たけど、どのくらい具合悪いの?」 テレビでよく見るような、囲み取材の様だった。 中学生の頃と同じ。皆で好き勝手博ちゃんに言葉を投げる。苦しそうな顔で頬を引きつらせる博ちゃんを見ているのが嫌でたまらなかった。 博ちゃんの表情がこわばる。ただでさえすり減っている博ちゃんの心が、弾けて消えてしまいそうで、怖くなった。 「ひ、博ちゃん、先生が呼んでるよ。早く来いって怒ってる」 腹の底から声が飛び出る。 俺の声に、博ちゃんだけでなく周りの人たちも振り向いた。皆がひるんだ隙に人ごみの中に手を入れて、博ちゃんの腕を掴んで走り出した。 中学生の時も、こんな風に走った。二人で、人がいない所まで走って、笑いあう。俺の大切な思い出。途中すれ違う人たちが俺たちの事を不思議そうに見ていたけど、そんなことを気にする余裕も無かった。 足が伸びて、昔よりも早く走れるようになって、この手を離さないように、滅多に人が通らない大学構内の奥の方まで夢中で走った。 全力で走ったのは久しぶりだったから、心臓がばくばく跳ねる。 「か、薫ちゃん、先生が呼んでるって言ってたけど、誰が呼んでるの?」 博ちゃんが息を整えながら言う。 「あ…ごめん、それ、嘘なんだ」「え?」「その、皆が寄ってたかって博ちゃんに言い寄ってるのを見てるのが嫌で、つい、こんな事しちゃった…ごめんね」 あんなに大きな声が出せるんだと、自分でも驚いた。 「あ、そ、そうなんだ…ありがとう…」博ちゃんはちょっとだけ笑ってそう言った。前のような、柔らかい笑顔を少しだけ見ることが出来て、安心した。その時、腕を掴んだままだった事に気が付いて、ぱっと手を離した。「あ、ご、ごめんね、痛かった?」「い、いや、ううん、大丈夫」何とも言えない空気が流れる。「あのさ、博ちゃん、今日この後何か用事ある?」「え、無いけど…」「これから出かけない?」「へ?」博ちゃんはぽかんとした顔で俺を見る。「電車ですぐなんだけど、ちょっと癒されに行こう」少し強引かなとも思ったけど、学校周辺ではまたさっきのように囲まれてしまうかもしれない。なので、ちょっと足を延ばして気分転換をしようと思いついた。 「う、うん。分かった」博ちゃんは俺の提案に頷いてくれた。 薫ちゃんが、俺の手を引いて走る。 力強い足取りで校内を走る薫ちゃんに、必死でついて行った。 小さな手は、節くれだった大きな手に変わっている。でも、伝わってくるぬくもりは変わらぬままで、凄く安心する。 くすんだクリーム色の廊下を、上履きがパタパタと叩く音。弾む息と、薄赤い頬。 時々振り返って俺を見る薫ちゃんのやんわりした笑顔。長い前髪の隙間できらきら光る瞳。 全部覚えている。 俺よりも頭一つくらい背が低かった薫ちゃん。足も俺の方が速かった。 俺は中学生の時、心のどこかで薫ちゃんの事を守ってあげなきゃ、と思っていた。 でも、薫ちゃんと一緒にいるようになってから、俺を取り巻く人たちはどんどん減っていった。 俺が困っている時に、薫ちゃんが手を引いて一緒に走ってくれたから。 俺の事を、皆から離してくれたから。 そして二人で笑いあう。俺はこの手に、何度も救われた。 勝手に守ったつもりになっていたけど、本当に守られていたのは、いつだって俺の方だった。 目の奥が熱くなりそうで、頬を撫でる風に俺の目尻に滲みそうな涙を乾かしてほしいと思った。 滅多に人が通らないような倉庫の近くまで俺たちは走って来た。 「あ、ごめんね、痛かった?」そう言って薫ちゃんが手を離す。 今の今まで、手をつないでいたことを忘れていた。 薫ちゃんの手が離れた所に、ぬくもりが残っているような気がして無意識に手を撫でてしまう。 癒されに行こう、という薫ちゃんの提案に乗り、二人で電車に揺られている。午後二時という微妙な時間帯は、ほとんど人が乗っていなくて貸し切り状態だった。この車両にも、俺と薫ちゃんしか乗っていない。隣に座る薫ちゃんをちらりと見た。窓の外を眺める凜とした横顔を、じっと見つめてしまう。「ん、俺の顔に何かついてる?」俺の視線に気づいた薫ちゃんがそう言った。「ううん、何でもない」安心するから見てたんだよ、なんて恥ずかしい事、言えなかった。 薫ちゃんの後をついて行ってたどり着いたのは、植物園だった。 横に伸びた長方形のその建物は一面ガラス張りで、青空を反射してきらきらと光る。外からでも背の高い植物が生えているのがはっきりと分かるほどに磨き上げられている。 「こんな所に植物園なんてあったんだ」 「小さい頃住んでた家の近くにも植物園があって、じいちゃんがよく連れて行ってくれたんだ」 門をくぐると、あたたかい空気に体を包まれた。見たことのない植物が一面に広がっていて、深呼吸したくなるほどに清々しい空気が流れている。視界が緑で埋め尽くされ、何だか不思議だった。進んでいくと、色鮮やかな花が咲き乱れ、蝶がひらひらと舞っていた。 「へぇ、チョコレートコスモスってこんなに匂いがするんだ」「俺も小さい頃おんなじこと思った。凄いよね、自然からこんなものが生み出されるなんて」 薫ちゃんの丁寧な説明をずっと聞いていたいと思った。ふと横を見ると、ちょうど薫ちゃんの頭の辺りに花が飾ってあるように見えた。白くて小さな細かい花がいくつも集まった枝が薫ちゃんを囲む。 伏せた睫毛が落す影をじっと見てしまう。 「綺麗だね」 思わず呟いていた。 「あ、これ?綺麗だよね、クラリンドウっていう花。こんなに大きくなるんだなぁ…俺もこういう大きな植物育てたいな」 俺は今、何に対して綺麗だねって言ったんだろう。 ベンチに座ってぼんやりと植物を眺めていると、「はい」という声と共に後ろからミルクティーが差し出された。 「あ、ありがとう」受け取ると、手のひらがあたたまっていく。 「なんか、ごめんね。もっと楽しいような場所に連れてきてあげられたら良かったんだけど」休憩所のベンチに座りながら薫ちゃんがそう言った。 「そんな事ないよ。静かで、凄く心地いい。連れてきてくれてありがとう」 薫ちゃんは安心したように微笑んだ。騒がしい大学と違い、ここだけ別世界の様に静かで、時間がゆっくりと流れているように感じる。 波打つ心が、だんだんと平らになっていくのが分かる。隣に薫ちゃんがいてくれるのが、とても安心する。 俺の手に、蝶が止まった。「綺麗な羽だなぁ。これも自然から生まれるなんて凄いね。俺こんなに間近で虫を見たのは初めてかもしれない」「そうなの?」 「父さんが、虫取りなんかするなって言ってたんだ。そんな事してる暇があったら習い事を増やせって言ってさ。犬や猫を触るのも駄目だった。病気がうつったらどうするんだとか言って、近所の猫を撫でることも出来なかったんだ」 そこまで言ったところで、はっと我に返った。こんな俺の家のごたごたした話なんて、聞きたくないだろう。「ご、ごめんね、こんな話して」焦って薫ちゃんを見ると、 「もっと聞きたいよ」と優しい声で言った。 その言葉をきっかけに、俺は家の事を沢山話した。自分からこんなに家の話をしたのは初めてなんじゃないかと思うほどに、夢中になって話した。 些細な事も一家の大事件も、とにかく話した。そんな俺の話を、薫ちゃんは親身になって聞いてくれた。 時々頷いて、相槌を打って、長い話を最後まで聞いてくれた。 ミルクティーが冷めきった頃、俺の話は終わった。 「なんか色々話したらすっきりしたな…ごめんね、長ったらしい話しちゃって」「ううん、嬉しかったよ。博ちゃんの話が聞けて、良かった」 どうして俺が言ってほしい言葉が、してほしい事が、薫ちゃんは分かるんだろう。誰も俺にこんな事してくれない。 父さんも、加奈も。自分の心の中に芽生えかけてる気持ちを知るのが怖かった。 何と言葉で表現したらいいのか分からない気持ちが、どんどん上に伸びていく。そんなことを考えていると、俺の鼻の頭に蝶が止まった。 はくしゅん、とくしゃみをすると、蝶はひらひらと飛んで行き、今度は俺の頭に止まる。「あっはは、博ちゃん、可愛い」その様子を見た薫ちゃんが、白い歯をのぞかせて目を細め、弾けるような笑顔を見せた。 その表情にドキッとしてしまった。そんな風に笑うところを初めて見た。 普段とは違う無邪気な笑顔でくすくす笑う。 「そ、そんなに笑わないでよ…」「ごめん、可愛くってつい、ふふ」冷静になろうとミルクティーの蓋を開けようとするけど手汗で滑って上手くいかない。 「貸して」薫ちゃんが俺の手からペットボトルをそっと取る。その時に、薫ちゃんの指が俺の指にそっと触れて、たったそれだけなのに怖いくらいに胸が高鳴ってしまう。 「はい」キャップを外した状態で俺に渡してくれた。「あ、ありがとう」ぐっと飲み込むと、人肌よりも冷たくなったとろりとした液体が、喉の奥に流れ落ちていく。 舌の上に残った砂糖とミルクの甘い味が、いつまでも無くなってくれなくて落ち着かない。蝶は俺の頭を離れ、どこかに飛んでいった。「ここ、ちょっと暑いね」薫ちゃんはそう言って、カーディガンを脱いでシャツのボタンを外した。 はぁー、と細く長いため息をつきながら、薫ちゃんは大きく伸びをする。 その時、薫ちゃんの素肌がちらりと見えた。何故か、見てはいけないものを見たような気持ちになった。薫ちゃんからは、性の匂いが全くと言っていいほどしない。クラスで堂々と誰と誰がやっただの性的な話をする人や、肌を露出した格好をする人がいる。そんな人達なんかよりも、ボタン一つを外して襟元が少し乱れただけの薫ちゃんからは比べ物にならない色気が漂う。 俺に記憶の中には、小柄な薫ちゃんの姿が焼き付いている。 今俺の隣にいる薫ちゃんは、すっかり大人の男性だ。 少しリラックスした様子で背中を丸め、足を投げ出して植物を眺めている。普段見えない鎖骨が襟元から少しだけ覗いていて、いつも皆が目にする薫ちゃんとは違う、砕けた姿から目が離せなかった。薫ちゃんの恋人になる人は、薫ちゃんのこういう砕けた姿をたくさん見る事が出来るんだと思うと、羨ましくなった。 切れ長の目が俺を見る。何度も見つめられているのに、緊張する。 「どうしたの?」薫ちゃんに言われハッとして、「あ、いや、何でもない…」と答えた。 いつもきりっと引き締まった表情をしているけど、俺と目が合った時や話している時に凛々しい眉が穏やかに下がる瞬間を見るのが、静かに甘やかされているような、まるで俺に気を許してくれているようで好きだった。 こんな感情を、加奈に抱いたことが無い。なんでこんな感情を薫ちゃんに抱いているのかもわからない。はっきりと別れてほしい、と告げたこともあるけれど、そのたびにあの二人組が現れ、長々と説得される。加奈と丸一日一緒にいても満たされない心が、薫ちゃんとほんの数時間過ごしただけで胸の中からこぼれ出てしまいそうな程の熱でいっぱいになってしまう。心が癒されるどころか、滅茶苦茶に乱されてしまった。芽生えた気持ちは勝手に葉を増やし、根を張り、蕾を付けていく。必死に抑えないと、咲いてしまいそう。そう思った。

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