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第8話
女心
家に着いてまずするのは、おかえりと言うよりも先に、電気と水道が使えるかどうかを確かめる事。
思い切り踏み込んだら突き破ってしまいそうな程に、さびてもろくなった階段を上がった先にある、私の家。
煙草のやにで色が変わった壁紙は、所々剥がれかけていて、見ていると不安な気持ちになる。冷蔵庫の中には何にも入っていなくて、机の上に千円札と「今日は帰らない」という汚い書置きがあるだけだった。
これが私の日常だった。着ている服もぼろぼろで、靴下はどれも穴が開いてる。
汚いだの貧乏くさいだの言われ続け、もはや何が辛いのか分からなくなっていった。
だから将来は、お金に困らないような生活がしたいと強く思った。食べるものにも困らず、水道と電気が使えるか心配する必要も無い、皆にとって普通の生活がしたい。それが私の夢だった。
夢の大学生活が始まってから、私の人生は大きく変わった。
高校生の頃からバイトしてためたお金で好きな服もメイク道具も沢山買った。一人暮らしも始めた。
真っ白な壁紙は見ているだけで心地いい。一生懸命可愛くなろうとした。
雑誌もたくさん読んで、髪の毛だって高いシャンプーを使って、肌のケアだって入念にした。だから、色んな人が私に声をかけてくれた。
皆、私に可愛いと言ってくれる。お父さんもお母さんも、一切言ってくれなかった言葉を沢山かけて貰える。何で生まれてきたんだとか、あんたなんか産まなきゃよかったとかばっかり言われて育ったから、褒めてもらえるのが嬉しくてたまらなかった。
生まれてきて良かったと、心の底から思った。
もう何人目か分からない遊び相手にメールの返事をした時だった。
「ねぇ加奈、隣のクラスの葛城君って見たことある?」友達がふとそんなことを言った。
「知らない。誰それ?」「えぇ、知らないの?この学校で一番かっこいいって入学した時から超有名だよ。ほら、葛城電機って聞いたことない?あそこの息子だよ」
「へえ。じゃあ、お金持ちって事だ」
大学生の言うかっこいいなんてどうせ皆似たり寄ったりで、会ってみても流行りの服を着るしか能のないパッとしない人間だという事の方が多い。だから、その葛城君とやらの事もあんまりあてにしていなかった。その姿を見るまでは。
「ほらほら、あの人。あそこの水色のシャツ着てる人が葛城君」食堂に行ったとき、友達は興奮気味にそう言った。目をやると、そこだけ違う雰囲気が漂っているようだった。清潔感の塊みたいな、何にも汚されていないというのが一目でわかる。サラサラしてそうな黒髪で、笑った顔が幼くて、釘付けになってしまう。
恋に落ちた。今までこんな感情を抱いたことが無い。私にだけその顔を見せてほしい。私にだけ笑ってほしい。あの人が欲しいと、強く思った。
告白をしたところ、友達からならという条件で関係を持ってくれることになった。私は家で浮かれまくった。あんな人と結ばれたら、将来なんにも困らないじゃん。おまけにかっこよくって、最高じゃん。誰と遊んでも揺れ動かなかった心が、ゴムボールのようにぽんぽん弾む。
しかし思っていたよりも上手くいかなかった。どんなにめかし込んでも、葛城君は何とも言わない。どこか上の空というか、違う事を考えている。こんなにお洒落してる私に振り向かないなんて、と思った。
あと、何もしてこない。他の遊び相手は、すぐ手を出してくる。私もそれが当り前になっていた。試しにそういう雰囲気になるような事もしてみた。「減るもんじゃないし、何してもいいよ」でも葛城君は何もしてこなくて、
「そう言う風に、自分の体を物みたいに言わないで」と言った。そんなこと言われたの、初めてだった。不覚にも、ときめいてしまった。大事にされている、と思ってしまった。デートしても、葛城君は嘘っぽい笑顔で笑う。
警戒心が強いのか、人見知りなのか、少なくとも私が食堂で見た笑顔ではなかった。それが何だか悔しかった。こんなに好きだと伝えているのに、葛城君は一切なびかない。どうして?私可愛くないの?こんなに一生懸命おしゃれしてるのに?メイクだって服だって寝る寸前まで考えてるのに?なんで?
そう考えたとき、何でこんなに必死になってるんだろう、と思った。今まで、相手にその気がないと分かったら、あっさりと捨てていた。
でも、葛城君だけは、何としても振り向かせたいと思った。お金持ちだから?最初はそう思っていた。いつからか、葛城君の事が本気で好きになっていた。軽い気持ちで声をかけたのがいけなかった。一丁前に経験豊富なくせして、本気で恋をした事が無いから、どうしたらいいのか分からなくなってしまった。
その日は用事があるからと、デートを断られてしまった。誰かと遊ぼうかな、と思ったけど、そんな気持ちになれない。
ふと中庭を見ると、葛城君がいるのが見えた。その時の葛城君は、あの時私が食堂で見た笑顔だった。幼くて、可愛い笑顔。
心の一番敏感な部分をぎゅっと掴まれる、愛らしい顔。隣には、知らない男の人がいる。
坊主頭の、いかつい人。食堂にいたときも、葛城君はあの人と話していた。
葛城君は、私に見せたことのない表情を、その男の人に次々見せる。悔しくてたまらなかった。私にはそんな顔見せてくれないくせに。その時、葛城君がそっけない理由が分かった。
私よりも、隣にいる人の方が好きだからだ。
何故か涙がこぼれてきた。幸せそうに笑う葛城君を見ていられなくて、早足でその場を離れた。今度のデートに履いていこうと思って買ったミュールは、サイズが合っていないのか踵に靴擦れが出来てしまった。この涙は、悲しいからじゃなくって、靴擦れが痛いからだ、と思い込んだ。でないと、どうにかなりそう。
それから私は遊びまくった。周りが引くほどにとにかく派手に遊んだ。
時間が空くと、あの時の葛城君の笑顔を思い出してしまって辛くなるからだった。でも、遊べば遊ぶほど、葛城君の笑顔は私の頭の中にすり込まれていく。
振り向いてほしいけど、どうしたらいいのか分からない。
こんな感情を抱いているのが嫌だった。部屋でうずくまっていると、携帯が鳴った。相手はお母さんだった。
「あのさぁ、お金貸してくれない?」久しぶり、よりも先にそれかよ、と思った。「もう電話してこないでよ、今まで私にどんな事してきたか忘れたの?」「悪かったって思ってるよ、あの時は私も子供だったんだって。お母さんの事助けてよ」「ふざけないでよ、私が学校でどんなに辛い思いしてたかも知らないくせに、こういう時ばっかり母親面しないでよ」
声が大きくなってしまう。どれだけ逃げても、この人はどこまでも私を追ってくる。
「もう切るから。もう電話してこないで」「まあ待って、これだけは言わなきゃいけないのよ」「何よ、早く言ってよ」
「お父さん死んだ」一瞬、時が止まった。
「近いうちに葬式やるから。また電話する」そう言って、電話は切れた。お父さんが、死んだ?私に一言も謝らないまま?何それ?楽しい思い出なんて一つもくれなかったお父さん。いつも疲れ切ってて、遠い目で外を見ていた。
どんなに嫌いだと思っても、心の底には肉親なんだからちょっとは助けてやらないと、みたいな気持ちがあった。
そう思っていた事さえ伝えられないまま、お父さんは勝手に死んだ。虚しさでいっぱいになった。
ぼんやりしながら、葛城君の携帯に電話をかけてみた。留守番電話サービスに繋がり、出てくれなかった。あの男の人と話してるのかな。そう思った。試しにメールを打ってみた。精一杯明るく振る舞って、絵文字をたくさん使ってみた。
それでも、返って来たメールは、シンプルなおやすみ、という言葉だけだった。
葛城君がプレゼントをくれた。でも、あんまり嬉しくない。これは後ろめたさからくるものなんじゃないかと思った。私よりも、あの男の人といる方が楽しいと思っているのを悟られないようにしているんじゃないんだろうか。「ありがと、うれしい」作り笑いを浮かべてそう言うと、葛城君は安心したように笑った。
そんなに悟られたくないなら、その人の事を考える暇がないくらいに好きにさせたい、とお思った。私の事で、頭の中が一杯になってほしい。
あの男の人よりも、私の事を大事にしてほしいと思った。だから私は、とにかく葛城君にくっついた。移動するときも、帰り道も、お昼の時も。そのたびに葛城君は、あの男の人に一言入れる。
「ごめん薫ちゃん、先に帰ってて」
あの人、薫ちゃんって言うんだ。綺麗な名前。
苗字は、倉橋と言うらしい。名前の画数が多いな。
食堂で葛城君とお昼を食べている時、奥の方に倉橋君がいるのが見えた。一人で食事をする姿は、凄く寂しそうに見えた。その時、猛烈な罪悪感が私の心に降って来た。
私は、倉橋君から葛城君を奪っている。倉橋君が葛城君以外の人といるのを見たことが無い。友達がいないのか、葛城君といるのがよっぽど楽しいのか。多分、後者だろうと思った。あの人の心のよりどころを私は奪っているのだ、と思った。
葛城君から別れ話を切り出されたのは、金木犀の香りが校内を覆う頃。
「いやだ、別れたくない」そういうと葛城君は、戸惑ったような表情を見せた。
この人よりもかっこよくてお金持ちの人なんて、いくらでもいるじゃん。
頭の中で、もう一人の私が言った。それでも、私はこの人がいい。何をこんなに意地になっているのか分からないけど、どうしても葛城君に振り向いてほしい。それはつまり、倉橋君から葛城君を奪う事になる。いや、奪いたい。どこかでそれを望んでいる。こんな感情なんて、今まで感じたことなかった。
私が結婚式の日に白無垢に包まれながら思い出したのは、そんな日々だった。
白無垢を纏った私を見て、博久は言った。「綺麗だね」
本当にそう思ってる?
なんて、言わないけどさ。
姉心
「くぉらあ、このクソガキどもっ、うちの弟いじめてんじゃねーよっ」
昨日油を指したはずの自転車のペダルは、きいきいと情けない音を立てる。
クソガキどもは震えあがって逃げていった。
「でた、崇恵オニ、おっかねー」「誰が鬼だ、親の顔見せろタコがっ」小さくうずくまって、頭を抱える私の弟。「薫、大丈夫?立てる?」私の言葉に顔を上げた。頬も鼻の頭も傷だらけで、その痛みが私にも伝わってきそうだと思った。「お姉ちゃん、ごめんなさい」薫はそう言って立ち上がった。「薫はなんにも悪くないでしょ。ほら、帰ろう。かごに鞄入れな」べそをかきながら、私の隣をとぼとぼ歩く。
薫はどこの学校に行ってもいじめられる。そのたびに私は薫のもとに飛んでいく。
皆して、何がそんなに気に入らないの?薫がなんかしたの?ちょっと体が小さいかもしれないけど、だから何なの?
「崇恵ってさぁ、ブラコンだよね。弟の事好きすぎじゃない?」「分かるー、弟離れした方がいいんじゃないの」クラスメイトがそう言った。あんたらの弟が、私の弟に何をしてるのか教室のど真ん中で叫んでやりたかった。
薫は、ただ他人を傷つけるしか能のないあんたらの弟と違って、何十倍もいい子だ。
お母さんの料理の手伝いもするし、お皿洗いも、洗濯も、お風呂掃除も、お使いも、なんだってする。他人思いの優しい心を持った、自慢の弟だ。その弟をボロボロにするまでいじめるなんて、お前の家の親はどんな教育してるんだと思った。心の中で舌打ちをした。
先生に相談しても、何もしてくれない。
「そう言う問題は難しいからなぁ、むやみに詮索してもなぁ」とかなんとか言って、真面目に話すら聞いてくれない。その言葉に無性に腹が立った私は、先生のネクタイを掴んで、
「そうやって見て見ぬふりばっかりして、逃げてばっかりじゃないですかっ。なんで大人って皆して、そうやってずるいんですかっ。私の弟の事、何だと思ってるんですか!?」と周りの先生が引くほどにどえらい剣幕で怒鳴り散らしていた。大人が守ってくれないなら、私が守るしかない。そう思っていた。
次の日親が学校に呼び出されてしまった。
クラスでは倉橋が学年主任を締め上げ泣かせたと話が大きくなっていた。
でも半分合ってるので何も言えない。
帰りの車の中で、お父さんに怒られると思っていた。「あんなんが、先生になれるんだなぁ」お父さんは、ぽつりと言った。
「お父さんも、崇恵と同じ事しそうになっちゃったなぁ」のんびりとした、でも静かに怒っているような口調でそう言った。「もうあんな事しちゃ駄目だぞ」そう言ってお父さんは私の頭を撫でた。
それからしばらくして、また引っ越しすることになった。薫と一緒に、食器を箱に詰める。薫は絆創膏だらけの手で、丁寧に作業をする。
「次は、きっといい学校だよ。いい先生もいっぱいいるよ」薫はゆっくりと顔を上げ、「うん」と言った。薫が最後に笑ったのを見たのは、いつだろう。悲しそうな薫の顔を見るのが、私は一番辛い。
「薫、前髪長いね。切ってきたら?」「あそこの床屋さん、ちょっと怖いからやだ…」
目にかかるくらいに伸びてしまった前髪を触ると、薫は気まずそうにうつむく。
「じゃあ、お姉ちゃんが切ってあげる」
押し入れにしまってあった散髪セット。私たちが小さい頃、お父さんが使っていたもの。
勝手に使わない事、と箱に大きく書いてあるけど、私はそれを無視した。
新聞紙の上に薫を座らせて、カッパを着せる。見よう見まねで霧吹きで髪を湿らせ、
鏡を睨みながら鋏を動かす。しゃくしゃく、という心地いい音が響いた。
「ほい、できた」薫の目を覆い隠していた前髪はさっぱりと整えられ、綺麗な二つの目が覗く。「折角綺麗な顔してるんだから、出さなきゃ勿体ないよ」頭を撫でると、
「ありがとう、お姉ちゃん」と薫は微笑んだ。ずっとこんな表情で、薫が過ごせたらいいのにな、と思った。
どうか、薫の事を幸せにしてくれるような人が現れてほしい。寝る前にそう願うのが、癖になっていた。新しく住む町は、絵に描いたような田舎だった。見渡す限り、山。山しかない。でも、私はすぐにこの町を気に入った。家の裏に川があって、あとで薫と遊びに行こうと思った。
「薫、なんかあったらすぐお姉ちゃんの事呼ぶんだよ。隠しちゃだめだからね」学校に行く前に、薫の目を見て言った。
「うん。ありがと、お姉ちゃん」薫は薄く笑った。私は、学校にいる間気が気じゃなかった。薫がいじめられてたらどうしよう、とその事で頭が一杯で、「あの、倉橋さん、自己紹介してください」という先生の声で我に返った。
自転車を必死でこいで家に帰ったけど、薫の靴が無かった。この時間には帰ってきているはずなのに、誰かにいじめられているんだろうかと不安でいっぱいになる。迎えに行こうと思った時、玄関が開く音がした。音がした方に向かうと顔や手にガーゼを貼った薫がいた。
「薫、それどうしたの?学校の誰かにやられたの?」薫の肩を掴んで問い詰めた。
「うん。でも、大丈夫」「え?」
「お姉ちゃん、僕、友達が出来たの」
薫は、にっこり笑ってそう言った。久しぶりに見た、薫の笑顔。薫が転校初日に笑って帰ってきたことなど一度も無い。だから、私にはその笑顔がとても眩しくて嬉しかった。目の奥が熱くなる。「そう…良かったね…」細い薫の体をぎゅっと抱きしめた。「お姉ちゃん、泣いてるの」薫が私の頭を優しく撫でる。私の願いが、やっと届いたんだ。
友達の名前は、葛城博久君。
お互いの事を博ちゃん、薫ちゃん、と呼び合うほどに仲良くなっていた。葛城って事は、あの家の子か、と思った。きっと育ちがいいんだろうな。
それから薫はよく笑うようになった。明るい声でただいま、と言い、学校であったことを、それは嬉しそうに私に教えてくれる。博ちゃんが授業で分からないところを教えてくれるとか、帰り道公園に寄って遊んできたとか、何気ない事まで私に話してくれるのが、とても嬉しかった。
「明日学校楽しみだなぁ」薫の口からそんな言葉を聞く日が来るとは思わなくて、私は泣きそうになった。うちに葛城君が来ることになった。薫がうちに友達を連れてくるぞ、と家族皆で小躍りして喜んだ。
「お姉ちゃん、この人が博ちゃんだよ」「初めまして。葛城博久です。お邪魔します」「あ、ど、どうも、姉の倉橋崇恵です」葛城君は、中学生と思えないほどに大人びていて、高校生の私の方が戸惑ってしまう。二階から、薫と葛城君の楽しそうにはしゃぐ声が聞こえてくる。私はその声を、ずっと聞いていたいと思った。薫に、やっと本当の友達が出来たんだと、本当に嬉しかった。クソガキどもを追い払う私の健脚に泣かされていた自転車は、登下校の時にしか使われなくなっていた。
中学の卒業式の日、薫は浮かない顔で帰って来た。「どうしたの?」
「博ちゃん、県外の高校に行くんだ」「え、そうなんだ…」その顔は、いじめられていた頃よりも寂しそうで、今にも泣きだしそうだった。やっと薫が心の底から楽しい日々を送れると思ったのに、私まで悲しくなった。高校生になってから、薫はどんどん成長していった。
「ねぇ、急に大きくなりすぎじゃない…?」「ご、ごめん…」身長は私を抜かし、足のサイズも大きく変わり、何より一番驚いたのは声の変化だった。「姉ちゃん、寝癖ついてるよ」「あ、ほんとだ…って薫、何その声!低っ!あのボーイソプラノはどうした!!」
「ボ、ボーイソプラノって何?俺も自分で驚いてる…」
綺麗に刈られた坊主頭としっかりした体つきのせいかよく野球部と間違えられ、「地区予選頑張れよ」と近所の爺さんたちに応援されていた。
「髪型とか、ワックスの使い方とか、よくわからないから」坊主にして帰って来た薫は
そう言っていた。
薫は、とにかく勉強してた。それがまるで、葛城君との別れの寂しさを埋めるように見えて、切ない気持ちになった。
こればっかりは、私にもどうにもできない。
大学の入学式の日、スーツに身を包んだ薫はすでに成人したように見えた。あの見た目なら、もういじめられることも無いだろう。でも、やっぱりちょっと心配だった。入学式を終え帰って来た薫は、とても嬉しそうだった。
「おかえり、どうした嬉しそうな顔して」
「博ちゃんに会ったんだ。博ちゃん、俺と同じ大学に入学してたんだ」薫は、あの時と同じ笑顔でそう言った。薫の見た目が大きく変わってから、こんなに笑っているのを初めて見たかもしれない。「ほんと!?良かったじゃん!」と肩をたたくと、薫はふふ、と笑った。
それから楽しい学生生活を送っていると思っていたけど、最近薫の表情が何となく暗い。
多分、葛城君に彼女が出来てから。
「薫、何かあったの」縁側に座ってぼんやりしている薫の隣に座って話しかけた。「いや、何って訳じゃないんだけと…」うつむいて、薫は何か言いたそうにしている。
「姉ちゃん、俺、変なんだ」
「変?」「その人にだけ自分を見てほしいとか、その人の仕草を目で追ってしまうとか、触ってほしいとか触りたいとか…そういう事ばっかり考えてて…」薫は、膝を抱えてそう言った。私は、薫のそんな様子を見て胸がぎゅっとなった。
「それ、恋なんじゃないの」
「え…」薫は勢いよく頭をあげ、私を見た。頬が赤くて、動揺してて、薫のこんな顔初めて見た。
「凄く綺麗な感情だと思うよ」「そうかな…」
「知らないうちに、その人の事考えちゃうの?」
「うん…もっと俺と話してほしいって思うんだ。でも、困らせたくないから、絶対言っちゃいけないんだ、なんかめんどくさいな俺、嫌だなこんな…あー…」
薫は、目を伏せて恥ずかしそうにそう言った。今まで薫の恋の話など聞いたことが無い。
でも、薫なら、愛する人が出来たら怖いくらいの愛情で相手を包むだろうと思った。
「その人の事、本当に大事なんだね」薫は小さく頷いた。「良かったね、好きな人が出来て。私も嬉しいよ」見た目がどれだけいかつくなっても、中身は優しい薫のまま。
世界に一人の、私の可愛い弟。
「うん」薫は少しの間泣いた。私は薫の綺麗な坊主頭をざりざりと撫でた。「私は薫の味方だよ」何があっても、私はずっと薫のお姉ちゃんだから。
葛城君は、結婚することになった。
薫は友人代表のスピーチをすることになったらしく、私もその手伝いをした。真っ白な便箋を、薫の達筆な字が埋め尽くしていく。
薫は、ひどく暗い顔をしていた。今にも倒れてしまいそうな程に顔色が悪い。「薫、大丈夫?」薫は顔を上げ、「うん、大丈夫」と言った。嘘が下手なのは相変わらずだなと思った。苦しそうな、何かに耐えているような顔。友人の結婚を祝う表情じゃなくて、心配になった。
日が傾いたころ、玄関が開く音がした。向かうと、薫が立ち尽くしていた。
「薫、おかえり。…どうした?」と聞くと、薫は我に返ったように「あ、いや…なんでもない…」と言った。顔が真っ赤で、困ったような顔をしている。
「お、俺、着替えてくる…」そう言って階段を駆け上がっていった。酔っているから顔が赤いのかと思ったけど、薫はお酒が全然飲めないし、お酒の匂いもしなかった。
姉ちゃん、俺、変なんだ。
そう言っていた薫の顔が頭に浮かんだ。
薫の大事な人が、分かってしまった。
「私は、薫の味方だよ」薫に聞こえるはずもない独り言は、廊下の奥に吸い込まれていった。
「崇恵さんって、どうして美容師になろうと思ったんすか?」
仕事終わりに、そう声をかけられた。
「んー、きっかけか…弟、かなぁ…」
一時期外に出る事さえ怖くなっていた薫。伸び放題の前髪を、見よう見まねで整えた。綺麗に整った前髪から覗く、綺麗な目。
「ありがとう、お姉ちゃん」そう言って弟がほんの少し笑うのが、私は嬉しかった。
「へー、弟さんも美容師になりたかったとか、そういう事っすか?」
「はは、そんなんじゃないよ」
それで薫が笑顔になるなら、幸せだって思ったからだった。
私は薫の味方だから。
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