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第7話

滅多にしない白いネクタイを締め、何度も書き直したスピーチを鞄の中に詰め込んで家を出た。 あれから時が流れ、博ちゃんは大宮さんと結婚することになった。 本当はもう少し早く式を挙げる予定だったらしいけど、奥さんが妊娠し、この時期までずれ込んだ。 自分でも気づかぬうちに形になってしまっていた恋は、消えた。俺はこれから、幸せそうな二人に会いに行く。 足枷を付けられたように重たい足を引きずって、会場に向かった。 大丈夫、沢山練習した。スピーチも、二人の前で作る笑顔も。 会場は博ちゃんの家だった。お互いの親族が集まり、呼ばれた友人は俺一人だけだった。中学生の頃、この家に来た時の事を思い出した。 あの時は体が小さいから長く感じていたんだろうと思っていた廊下は、やはり今でも長く見える。庭の植木を眺めていると、「薫ちゃん」と声をかけられた。 振り向くと、博ちゃんが立っていた。五紋付の袴に身を包み、特別な装いの博ちゃんを見ていると、枯れたはずの恋心がまた形を成しそうなほどに胸が高鳴ってしまう。「あ、博ちゃん…す、凄くかっこいいね、似合ってる」 「ありがとう。なんだか落ち着かないんだけどね」あまりに眩しくて、目を見て話す事が出来ない。 「ねぇ薫ちゃん、ちょっと話そう」「え、でも」「いいから、こっち来て」そう言って博ちゃんは俺の手を掴んで歩き出す。表情や話し方は優しいのに、力いっぱい手を握ってくる。まるで逃げるなと言っているようで、怖くなった。 連れていかれたのは、博ちゃんの部屋だった。 本棚を埋めるのは、自己啓発本や経営学など、難しい本に変わっている。 あの時、ここで怪我を手当てしてもらって、あだ名をつけあった。窓の外を向いて置いてある椅子に二人で座った。深く椅子に腰かけて、和服姿で外を見る博ちゃんは怖いくらいに画になっている。 「未来の会長だって」博ちゃんが呟いた。 「まだ会社で働き始めて数年なのにさ、皆して気が早いな」博ちゃんのお父さんが他界し、博ちゃんは大学卒業後お父さんの会社に就職した。お父さんの意思を受け継ごうと決めた博ちゃんは、本当に凄いと思った。「き、今日、晴れてよかったね。本当におめでとう。いい式になりそうで良かった」思ってもいない言葉が口からこぼれ出る。必死で笑いながらそう言うと、 「本当にそう思ってる?」と博ちゃんが言った。 今まで聞いたことのないくらいに冷たい声に、肩がすくんでしまう。 「あんな浮気性の人と幸せになってって、薫ちゃんは本当にそう思ってる?」 その言葉で、俺は体中の血の気が引いた。 「前から怪しいなとは思ってたんだ。付き合いたいと思ったきっかけを聞いてもはぐらかすし、何度別れ話を切り出しても説得してくるし。だから、酔っ払ってる時にカマかけて聞いてみたんだ。そしたら全部話した。俺の家が目的だって事も、他に何人も恋人がいる事も全部」博ちゃんは眉毛一つ動かさず、淡々と言った。 「どうして、結婚するの…」 「家のため。母さん、父さんが死んでからどんどん弱っていっちゃってさ。見てるのが辛くて、俺が早く身を固めて会社の力になれるように努力すれば、少しでも母さんの不安が減ると思ってさ。実際体調も少しずつよくなってるし 」暗く冷たい笑顔で、博ちゃんは言った。俺が見たいのは、そんな笑顔じゃない。 こうなってしまったのは、全部俺のせいだと思った。 俺があの時に、見たことを全て博ちゃんに話していれば、こんなに悲しい事にならなかった。博ちゃんのためにと思ってやったことは、全然博ちゃんのためになっていなくて、むしろ博ちゃんをこんなにも追い詰めてしまった。 今更しても遅すぎる後悔が、波のように襲ってくる。 「薫ちゃん…?なんで、泣いてるの…?」 博ちゃんの言葉で、自分が泣いていることに気が付いた。 少しだけ優しくなった博ちゃんの声を聞いた瞬間、涙が堰を切ったように溢れて止まらない。 「お、俺、知ってたんだ、大宮さんに他に恋人がいる事…でも、どうしても言えなかった…俺が言ったら、博ちゃんが大宮さんと別れることになるかもしれないって思って、家の事と、大宮さんの事で悩んでる博ちゃんの心が、本当に壊れてなくなっちゃうんじゃないかと思って…でも俺、心の中で、大宮さんと別れて欲しいって思っちゃったんだ…博ちゃんが、大宮さんと一緒にいるのを見るのが、辛くてたまらなくなってた…」 今から他人の夫になる人にこんなことを言ってもどうにもならないのに、博ちゃんを困らせるだけなのに、自分の思いを止めることが出来ない。散り散りになったはずの恋心はひっそりと俺の心の奥の方に眠ったままで、また花を咲かせようと勝手に芽をはやして伸びようとする。 「俺、博ちゃんの事が、好きなんだ…」 初恋だった。 あの日、俺を助けてくれた時から、博ちゃんの事が好きだったのかもしれない。 胸に空いた大きな穴は、寂しさではなくて恋い慕う気持ちだったんだと思う。恋い焦がれて、黒くくすんだ心が、博ちゃんと会った途端にみるみる癒されていった。俺の人生に、眩しい光をくれた人。 学校に行くのが楽しいと、明日が来るのが楽しみだと初めて思わせてくれた人。帰り道で別れた瞬間に、早く明日学校で会いたいと思った人。 こんなにも人を好きになったことが無いから、恋をするという気持ちがこんなにも苦しいものだとは知らなかった。黒いスーツの上に、涙の染みが広がっていく。こんなに泣いたのはいつぶりだろうと思った。博ちゃんを困らせるだけの勝手な告白を終え、ここから走り去りたいのに、涙が止まらなくて動くことが出来ない。 「ごめん、俺、帰るね、本当、ごめん…」やっとの思いで立ち上がろうとした時、 「俺と同じなんだね」 と博ちゃんが、とても優しい声で言った。 思いもしない言葉に顔を上げると、博ちゃんは、俺が大好きな穏やかな笑顔を浮かべている。 「俺も、薫ちゃんの事、好きだよ」 言っている意味が一瞬分からなかった。 「え…」あまりの驚きに、涙が止まってしまう。「俺もね、薫ちゃんと別の高校に通うの、凄く辛かった。薫ちゃんと離れるのが嫌で、高校変えようかとまで思った。だから大学で会えた時、凄く嬉しかったんだ。見た目は全然違う人みたいに変わってるのに、優しい心はそのままで、隣にいてくれるだけで安心するんだ」 博ちゃんの言葉を、少しも聞き逃したくないと思った。「そ、そんな…」思わず頭を抱えると、「その癖も変わってない。恥ずかしいとき、頭を抱える癖。可愛くて、好きだった」と博ちゃんが言う。「加奈といる時よりも、薫ちゃんといる時の方が、ずっと楽しいって思い始めてた。気を遣わなくても、無理に明るくしなくてもいい。他の誰よりも、俺の事を分かってくれる人だと思ってるよ」「う、嘘…」今この身に起こっている出来事が現実だと思えなくて、頭の中が滅茶苦茶になってしまう。 「嘘じゃないよ。夢でもない」博ちゃんの指が、俺の涙を優しく拭った。いつからか、この指で触ってほしいと思っていた。指から伝わるぬくもりが、夢じゃないと言っているようでまた涙があふれてくる。 「ごめん、俺、本当に…」何と言ったらいいのか分からなくて、涙で博ちゃんの指を濡らしてしまうのが申し訳ないと思った。 もう片方の博ちゃんの手が、俺の頬を包んだ。博ちゃんが椅子から身を乗り出したと思った瞬間、目の前に博ちゃんの綺麗な顔があった。 綺麗なおでこだ、と思っていると、あたたかくて柔らかいもので、口を塞がれた。 怖いくらいに優しい口づけで、頬に熱が集まる。「ひ、博ちゃん、何してるの…」あまりの事に驚いて言うと、「だって、好きなんだもん」と言って笑った。俺が大好きな、穏やかで優しい笑顔。またそんな顔を見れると思わなかった。今から他人の夫になる人と、口づけをした。とんでもない事をしているのに、頭のてっぺんから足の先まで甘く満ちていく。 ファーストキスだ、と思った。 あと数時間で、親戚の人たちも集まってくる。一階にはすでに人がいるのに、こんな甘い口づけをしてしまった。顔がどんどん赤くなっているのが分かる。 「ねぇ、薫ちゃん、俺加奈の事許したわけじゃないんだ」「え…?」 「実はさ、加奈の浮気の事って、色んな人が知ってたみたいなんだよね。証拠も証言もいっぱいあるの。周りの人も呆れるくらいだったみたい。いざとなったら俺たちの方が圧倒的に強いんだ。こんなのうちの人間が知ったら大騒ぎだよ。使えるものは何でも使わなくちゃ」いたずらを思いついたような笑顔でそう言った。 「だから俺たちも繋がっていよう。薫ちゃん、俺の恋人になって」 真剣な表情で、博ちゃんは言った。まともな判断が出来なくなった頭から煙が上がりそうだった。 「駄目だよ…」「ん?」「お、俺、男だよ。会社を背負って立つ人の恋人が男なんて、それに、俺のせいで、博ちゃんが不倫する事になっちゃうなんて絶対駄目だよ、そんな、」と言いかけた所で、「それでも、俺もう、この手を離せない…」と少し焦ったような声でそう言いながら、博ちゃんが俺を抱き寄せた。 体中の血が沸いているような、全身が熱くて堪らない。つま先にぎゅっと力を込めてしまう。切ないような苦しいような気持ちでいっぱいになり、自分の鼓動が博ちゃんに伝わってしまいそうだと思った。 「薫ちゃんは…?」頬を両手で掴まれ、博ちゃんが俺を見る。 綺麗な黒髪が額に当たってくすぐったい。頬が赤くて、困っているような、切羽詰まっているような、今まで見たことのに表情をしている。 それが、何だか可愛いと思ってしまった。俺を助けてくれた時と同じの、真っすぐな二つの瞳が、心の奥底まで覗きこむように見つめてくる。「 俺も…俺も、離せない…」 この手を、離したくない。そう思いながら、博ちゃんの手の上に自分の手を重ねた。「じゃあ、俺たち両想いだね」屈託のない笑顔で、博ちゃんは言った。 「今から結婚式だなんて、信じたくない」博ちゃんは寂しそうな表情でそう言った。「俺も怖い。顔が赤くなるのを抑えられないかもしれない」なんて残酷で甘やかな誓いをしたんだろう、と思った。周りの事より、何もかも蕩けて無くなってしまいそうな程に甘いこの時間が続いてほしいと、凄く自分勝手なことを考えてしまう。 きっと誰かを傷つけるのに、それでもこの手を離したくないと、心の底から思った。窓から差し込むあたたかい光が、二人の影を部屋に落とす。 「信じたくない…」 博ちゃんがそう言いながら、俺と額を合わせて目をつぶる。俺も同じようにした。 あの日の俺に、今日の事を伝えたら、なんて言うだろう。 そんなことを思いながら、博ちゃんの手をぎゅう、と握った。 にこやかに、親族の人たちと挨拶をする博ちゃん。見ているとどうしてもさっきの口づけを思い出す。無意識に、唇を見てしまう。博ちゃんが俺の視線に気が付いて、笑う。その顔が、どこか色っぽくて、見ているだけでどうにかなりそうだった。慌てて目をそらし、ビールに口を付ける。頬も耳も赤いのは、ビールのせいだから、と自分に必死で言い聞かせた。 「奥様の着付けが終わるまで、もう少々お待ちください」 着付けの人の言葉を聞いて、俺は家の中をうろついていた。まだそんなに人が集まっていなくて、広間には机と座布団が丁寧に並んでいる。 「いやぁ、お父さんの若い頃にそっくりだなぁ。この姿見てほしかったねぇ」親戚がそう声をかけてくれた。その時、玄関から音した。振り向くとそこには薫ちゃんがいた。スーツ姿で、白いネクタイをきっちり締めている。唯一呼んだ友人だった。 俺の中では、友人というくくりに収められない程の存在になっていた。 薫ちゃんに抱いた思いを打ち消すように加奈に向き合った。でもそうすればするほどに、薫ちゃんの存在が胸の中で濃くなっていく。 加奈と体を重ねても、頭の隅には薫ちゃんがいる。子供が産まれて俺が最初に思ったのは、こんなのがお父さんでごめんな、という気持ちだった。 母さんは初孫をそれは喜んで、少しずつ元気になっていった。それを見て、俺は複雑な気持ちになった。母さんが元気になっていくのを見るのは嬉しいけど、俺の中に残っている思いを知ったら、母さんはどうなってしまうんだろう。 これほどまでに俺の中で薫ちゃんの存在が大きくなっていることが、怖いとすら思った。 廊下を歩いていると、誰かが立っているのに気が付いた。薫ちゃんだ。 愁いを帯びた横顔をじっと見てしまう。 俺を見た薫ちゃんは、一瞬動きを止めて俺を見た。「あ、博ちゃん…す、凄くかっこいいね、似合ってる」 ほんのりと頬が赤らんでいるように見えるのは、気のせいだろうか。 「ありがとう。なんだか落ち着かないんだけどね」薫ちゃんは、俺の目を見ようとしない。「ねぇ薫ちゃん、ちょっと話そう」「え、でも」「いいから、こっち来て」強引に腕を引いて、俺の部屋に向かった。 あの日薫ちゃんに、この部屋で、俺と友達になろうと言った。 薫ちゃんはあの頃と大きく見た目が変わったけど、どこかに昔の儚い面影がある。 スーツ姿で、うつむく横顔。綺麗だと思った。 「未来の会長だって」薫ちゃんが俺を見る。 「まだ会社で働き始めて数年なのにさ、皆して気が早いな」俺はあの後、結局父さんの後を継ぐことに決めた。母さんが憔悴していくのを見ていられなくて、俺がしっかりしないとと思った結果だった。 「き、今日、晴れてよかったね。本当におめでとう。いい式になりそうで良かった」薫ちゃんはぎこちない笑顔を浮かべながらそう言った。 「本当にそう思ってる?」 自分でもびっくりするくらいに冷たい声が出てしまった。「あんな浮気性の人と幸せになってって、薫ちゃんは本当にそう思ってる?」 薫ちゃんは絶句している。 「前から怪しいなとは思ってたんだ。付き合いたいと思ったきっかけを聞いてもはぐらかすし、何度別れ話を切り出しても説得してくるし。だから、酔っ払ってる時にカマかけて聞いてみたんだ。そしたら全部話した。俺の家が目的だって事も、他に何人も恋人がいる事も全部」加奈は、聞いていない事まで全部話した。あまりの内容に呆れを通り越して笑ってしまうほどだった。 「どうして、結婚するの…」 「家のため。母さん、父さんが死んでからどんどん弱っていっちゃってさ。見てるのが辛くて、俺が早く身を固めて会社の力になれるように努力すれば、少しでも母さんの不安が減ると思ってさ。実際体調も少しずつよくなってるし」 俺は、心のどこかで全部家のせいにしようとしていた。自分の思い通りに行かないのも、全てこの家のせいにしてしまいたかった。 薫ちゃんが何も言わないので横を見ると、薫ちゃんはぽろぽろと涙をこぼしていた。黒々とした睫毛に涙の粒が光って落ちる。 「薫ちゃん…?なんで、泣いてるの…?」 驚きながら、そっと聞いた。「お、俺、知ってたんだ、大宮さんに他に恋人がいる事…でも、どうしても言えなかった…俺が言ったら、博ちゃんが大宮さんと別れることになるかもしれないって思って、家の事と、大宮さんの事で悩んでる博ちゃんの心が、本当に壊れてなくなっちゃうんじゃないかと思って…でも俺、心の中で、大宮さんと別れて欲しいって思っちゃったんだ…博ちゃんが、大宮さんと一緒にいるのを見るのが、辛くてたまらなくなってた…」 薫ちゃんは声を詰まらせながら、必死で涙を拭っている。 「俺、博ちゃんの事が、好きなんだ…」 その言葉を聞いた瞬間、俺の心の中で根を生やしていた芽が、急激に伸びていく。花は一斉に開きだし、一面に咲き誇る。俺は、薫ちゃんと過ごした日の事を全て思い出せる。 一緒に食べた学食、寄り道した文具店、ミルクティーの甘い味、指に止まった蝶の羽の色、薫ちゃんが着ていた服、弾けるような笑顔、隙間から見えた肌、電話越しに聞こえてくる優しい声、綺麗だねという言葉。 植物園で話したあの日、俺は、薫ちゃんに綺麗だと言っていた。 花よりも、薫ちゃんのほうが、ずっと綺麗だと思った。 まともな友達なんて一人も出来たことが無い俺の、初めての友達。親友と呼びたいと、心の底から思った。俺が困っている時に、その手を差し伸べてくれた。 俺の事を、受け入れてくれた。 本当の優しさで、俺を包んでくれた。この優しさが無いと生きていけないと思うようになっていた。「ごめん、俺、帰るね、本当、ごめん…」 薫ちゃんはそう言いながら立ち上がろうとする。 「俺と同じなんだね」 薫ちゃんが驚いたような表情で顔を上げた。 「俺も、薫ちゃんの事、好きだよ」「え…」 自分から告白したのは、これが初めてだった。「俺もね、薫ちゃんと別の高校に通うの、凄く辛かった。薫ちゃんと離れるのが嫌で、高校変えようかとまで思った。だから大学で会えた時、凄く嬉しかったんだ。見た目は全然違う人みたいに変わってるのに、優しい心はそのままで、隣にいてくれるだけで安心するんだ」「そ、そんな…」 薫ちゃんは戸惑いながら頭を抱えた。 「その癖も、変わってない。恥ずかしいとき、頭を抱える癖。可愛くて、好きだった」初めて俺の家に来た時も、同じようにしていた。 「加奈といる時よりも、薫ちゃんといる時の方が、ずっと楽しいって思い始めてた。気を遣わなくても、無理に明るくしなくてもいい。他の誰よりも、俺の事を分かってくれる人だと思ってるよ」「う、嘘…」薫ちゃんは凄く動揺していた。 「嘘じゃないよ。夢でもない」触れたいと思っていた肌は、柔らかくて、熱い。溢れる涙を、何度も指で拭う。「ごめん、俺、本当に…」薫ちゃんは切ない表情で涙をこぼす。その様子が、凄く愛おしいと思った。胸が締め付けられる。 薫ちゃんの頬を、桃に触るように両手で優しく包んで、そっと口づけた。 薫ちゃんは大きく目を見開き、顔を真っ赤にしている。「ひ、博ちゃん、何してるの…」今まで見たことのないくらいに困惑しているのが、本当に可愛いと思った。 「だって、好きなんだもん」ほんの少し唇が合わさっただけで、どうしようもないほどに心が満たされる。 「ねぇ、薫ちゃん、俺加奈の事許したわけじゃないんだ」「え…?」 なんだかんだ言って、加奈にされたことは許せない。 だから、俺もしたいようにすることに決めた。 「実はさ、加奈の浮気の事って、色んな人が知ってたみたいなんだよね。証拠も証言もいっぱいあるの。周りの人も呆れるくらいだったみたい。いざとなったら俺たちの方が圧倒的に強いんだ。こんなのうちの人間が知ったら大騒ぎだよ。使えるものは何でも使わなくちゃ」 薫ちゃんはぽかんと口を開けて俺の話を聞いている。 「だから俺たちも繋がっていよう。薫ちゃん、俺の恋人になって」 今まで、欲しいものなど何も手に入らなかった。この世で一番、本当に欲しいものを、俺のものにしたい。今まで我慢してきた我儘を、今ここで存分に使いたい。 「駄目だよ…」「ん?」「お、俺、男だよ。会社を背負って立つ人の恋人が男なんて、それに、俺のせいで、博ちゃんが不倫する事になっちゃうなんて絶対駄目だよ、そんな、」薫ちゃんはそう言いながら、俺から離れようとする。 もうこれ以上、離れたくない、と腕を伸ばした。 「それでも、俺もう、この手を離せない…」 薫ちゃんを抱き寄せて、腕に力を込めた。はっ、と薫ちゃんが息を呑んだのが分かった。体が細かく震えていて、怯えているような感じがする。「薫ちゃんは…?」薫ちゃんの頬を掴んで問いかけた。いつもなら凛々しく上を向いている眉が切なげに寄せられていて、頬が林檎のように真っ赤。涙の膜を張った瞳がゆらゆら揺れて、唇が何か言いたげに薄く開いている。凄く動揺しているのが伝わってくる。可愛い、と思った。そんな薫ちゃんを、心の底から甘やかしたくなった。薫ちゃんはごくり、と息を呑んで 「俺も…俺も、離せない…」 そう言って、俺の手をぎゅっと握り返してくれる。薫ちゃんのこんな表情、俺しか見たことが無いんだろうなと思った。「じゃあ、俺たち両想いだね」と笑うと、薫ちゃんも小さく微笑んだ。「今から結婚式だなんて、信じたくない」「俺も怖い。顔が赤くなるのを抑えられないかもしれない」人として、夫として最低だ。たとえ周りから最低だと後ろ指を指されても、俺はこの手を絶対に離したくない。この世で一番、愛おしい人。薫ちゃんの手を握りながら、そう思った。「信じたくない…」思わず呟くと、薫ちゃんは俺の手を優しく握り返してくれた。 一番奥の席に座る、薫ちゃん。皆が席を立ち、お酒を注いで回る。その時、薫ちゃんと目が合った。頬が、一瞬で赤く染まる。微笑むと、ふい、と顔をそらす。頭を抱え、うつむく仕草。耳まで赤くて、今すぐ抱きしめたいと思った。お酒のせいじゃなく、違うもので赤く染まった肌を、ずっと見ていたいと思った。

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