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第6話

家に帰ると、玄関に見慣れない靴が並んでいた。 居間に行くと、母さんとスーツ姿の細身の男性と太った男性が座っている。「博久、この方たち、お父さんの会社の方よ。あなたもここに座って」 母さんが俺に言う。こんな時間に、何をしに来たんだろう。 「元彰さんの病状ですが、思わしくないようですね」細身の男性が眼鏡を拭きながらそう言った。「現在社内では、次期の会長についての話し合いが行われているんです」太った男性が言う。何だか父さんが早く死ぬのを待っている、と言っているようで気分が悪い。 「誰もがなりたいポストですから、そりゃあ皆さん必死です。ですがね奥様、我々は誰よりも息子さんの博久さんに会長に就任してほしいんですよ。元彰さんの事を慕っておりますし、息子さんが跡を継ぐのが当然ではありませんか」「博久さんは成績も優秀で、お人柄も優れています。上に立つのにふさわしい人間だと思っているんですよ」 細身の男性が煙草に火をつける。父さんを慕っていると言う割には、母さんが喘息もちだという事を知らないんだろうか。 「あの、つまりどういう事でしょうか」母さんが苦しそうに咳ばらいをしながら言う。「すみません、煙草消してくれませんか」俺の言葉を細身の男性は鼻で笑って、煙草を灰皿に押し付けた。 「博久さん、就職活動についてはもうお考えですか?」「はい?」思いもしない言葉に警戒してしまう。 「実はね、我々は博久さんを葛城電機に縁故で入社してほしいんです」「お父様の名前を出せば、御子息の博久さんの事を喜んで迎えてくれるでしょうね。考えてみてください、今決断してしまえば、周りの皆が就職活動で必死になっている中、自分は悠々と生活することが出来るんですよ。こんなにいい話無いと思いませんか」 愕然としてしまった。この人たちは、俺の将来なんてどうでもいいと思っているんだ。 「待ってください、博久の未来を勝手に決めるようなことを言わないでください。この子にはこの子の生きる道があるんです。やりたい仕事だってあるはずです。それを踏みにじるような事、言わないでください」母さんが身を乗り出して、涙声で言った。 「そうは言ってもね奥様、今は大学を卒業しても就職が難しい時代なんですよ。就職活動の仕組みだって我々が若い頃とは何もかも違うわけです。就活サイトを使ってもいざ就職してみたら話が違う、なんてことが当り前にある。新卒で採用されなければ無能だと決めつけられ、負け組扱いされてしまうんですから。 田舎という狭いコミュニティの中じゃ、 その手の話はあっという間に広まりますしね。買い手市場とはいっても、あれは都会の話です。手取りも待遇も何もかも違いすぎるんですよ。 都会で通用することが田舎では通用しないんです。こんな片田舎があんな状況になるまで何年かかるか分かりません。使えるならどんな手でも使わなきゃいけない時代ですよ。一方で縁故で入社してしまえばどうです、あらかじめ立派な土台が用意されているんですよ。自分の子供にみじめな思いしてほしくないでしょう?」 「何も今すぐになんて言いません。まだまだ時間はありますから、考えてみてください」 そう言って二人は帰っていった。体から力が抜けて、立ち上がることが出来ない。隣に座っている母さんは肩を震わせ、泣き出してしまった。 「ごめんね、博久、あなたの人生なのに、こんなのってあんまりだわ…」顔を覆って泣く母さんは今にも消えてしまいそうで怖くなる。 「母さんのせいじゃないよ。父さんのせいでもない。誰のせいでもないから…」 母さんの肩を抱えてそう言ったけど、本当は、全部の責任を誰かに押し付けてしまいたいくらいだった。体に力を入れていないと俺まで泣いてしまいそうだった。 風呂に入って、自分の部屋でぼんやりとしていた。皆して、俺に何を期待しているんだろう。俺に何をどうしろって言うんだろう。俺だって、やりたいことがあるのに、そんなのは関係ないというんだろうか。 飛行機のパイロットになるのが夢だった。 どうせ家族の誰かに言ったところで、相手なんてしてもらえない事は分かっていたから、誰にも言った事が無かった。 でも、薫ちゃんにだけ言った事がある。俺の机の上の飛行機のプラモデルを見て、「かっこいい夢だね」と優しく笑ってくれた。 その日の夜、自分の夢を人に認めて貰えたのが、聞いてくれたのが嬉しかったからなのか、俺はちょっとだけ泣いたのを今でも覚えている。 でも今はただただむなしくて、涙すらこぼれない。机の上の携帯が震えた。相手は加奈だった。受ける気に慣れなくて、ぶるぶると机の上を動く携帯を見ていた。やがて音は止まり、今度はメールが来た。寝る前の挨拶に返事をして、携帯を置こうとした時、ふと思ってしまった。 薫ちゃんの声が聞きたい。 まだ起きているだろうか。恐る恐るアドレス帳の番号を押してみた。 一、二回コールが鳴った後、 「もしもし、博ちゃん?どうしたの?」 という声が聞こえてきた。 その声を聞いた途端、こらえきれなくなった涙があふれた。ささくれた心を優しく包む声が、とても心地いい。 低くて、落ち着きのある、穏やかな波のような声。 「あ、いや、何かあった訳じゃないんだけどさ、何か、声が聞きたくなっちゃって」「そうなんだ。…博ちゃん、泣いてるの?」 「え、いや、泣いてないよ」机の上に零れ落ちる涙を必死で拭いた。 「ごめんね、忙しかった?」 「ううん、本読んでた。この前博ちゃんと一緒に本屋さんに行ったときに買ったやつ」 「そうなんだ。面白い?」 「うん。でもね、濡れ場が多い…」 「あっははは、そうなんだ」 「この本の作者の作品ってそういう本が多いって聞いてたけど、まさかここまでとは思わなくってさ。家族の前で読めないな…」 「そっか、それは確かに辛いなぁ」 「そう言えば、さっき姉ちゃんが隣町に新しいケーキ屋さんが出来たってはしゃいでたな」「そうなんだ。じゃあ、一緒に行こうよ」 「え、でも、大宮さんは?」 「いいんだ、薫ちゃんと行きたい」 さっきまでの嫌な出来事が嘘のように、心が滑らかに整っていく。こんな他愛も無いやり取りが、どうしようもないほどに愛おしい。この時間が永遠に続いてほしいと思ってしまうほどだった。 その瞬間、ああ、俺は薫ちゃんの事が好きなんだ、と思った。 心の奥で芽生えた気持ちは、素手で引き抜くことが出来ないくらいに深く根を張り、沢山の葉をつけて茎を太くして、蕾はすべてとっくの昔に満開に咲いてしまっていた。 昨日博ちゃんから電話があった。 何だか泣いているようにも聞こえたけど、博ちゃんは何でもないと言っていた。 何てことない話をしただけだったのに、とても楽しかった。 博ちゃんのお父さんの体の具合は、大丈夫だろうか。 図書室で本を見ながらそんなことを考えていた時、「あれ、加奈、その星のネックレス可愛いじゃん。どうしたの?」「ん?彼氏から貰った」という会話が聞こえてきた。 星のネックレス、加奈という名前から博ちゃんの彼女だということが分かった。 「あんまり好みじゃないんだけどね。博久があんまりにこやかに渡すもんだから言えなかったけど」博久、という名前が出てきて確信した。 人から貰ったものに文句をつけるなんて、人としてどうなんだろうと思ってしまった。博ちゃんが、どれだけ真剣に選んだか教えてあげたくなってしまう。 「あ、でも、亮二がくれたお財布は可愛かったよ」 「は!?なに、あんた、まだ亮二君との関係続いてるの?」 とんでもない言葉が聞こえてきて驚いてしまった。思わず声を上げそうになり、口をおさえた。 「だって博久、なんかつまんないんだもん。亮二の方が面白いし」「え、ちょっと待って、ならなんで博久君と別れないの?博久君から別れ話切り出されたこと何回もあるんでしょ?」「だって、博久の家ってお金持ちじゃん。将来結婚出来たら一生困んないでしょ」 「あんたそれ、本気で言ってるの?人としてどうかしてるって…いつか絶対痛い目見るよ」 そんな会話をしながら、二人は図書室から出ていった。 あまりにも衝撃的で、動くことが出来なかった。どうして、あんなに優しい人の心を、ただでさえ擦り切れそうな心を、平気で踏みにじるような事を言えるんだろう。 怒りのあまり、手のひらに爪が食い込むほどに手を握りしめた俺はこのことを、博ちゃんに伝えるべきなんだろうか。廊下を歩きながら考えていると、突き当りで博ちゃんと会ってしまった。びくり、と体が震えるほどに驚いてしまう。 「あ、薫ちゃん、加奈、プレゼント喜んでた。ありがとう」 そう言って博ちゃんは笑う。違うんだ、それは全部嘘なんだよ。あの人には他にも付き合ってる人がいるんだ。 頭の中では言えるのに、どうしても言葉に出せない。 俺がこの事を言ってしまったら、博ちゃんの心が本当に壊れてしまうんじゃないかと思うと、怖くてたまらなかった。 ふと思った。 そもそも、俺がこの事を伝えたいのはなんでなんだろう。 博ちゃんがかわいそうだから?大宮さんがしていることが許せないから? 俺が黙っていれば博ちゃんは傷つかないのに、何故伝えようとしているんだろう。 どれも何となく違うような気がする。 「薫ちゃんが一緒に選んでくれて良かった」 そう言って笑う博ちゃんの顔を見た時、分かった。 俺は博ちゃんに、大宮さんと別れてほしいんだ。 この笑顔を俺にだけ向けていてほしいから。もっと俺に構ってほしいから。二人が一緒にいるのを見ているだけで、しょうもない嫉妬をしてしまうから。俺の事を、一人にしないでほしいから。 博ちゃんの事が、好きだから。 知らないうちに、心の中にこんな感情が芽生えてしまっていた。こんな俺の勝手な気持ちで、博ちゃんの人生を引っ掻き回すような事は、絶対したくなかった。「そ、そっか…良かった…」上手く笑えていないだろうな、と思いながら博ちゃんにそう言った。 「あ、俺職員室に用があるんだ。じゃ、またあとで」そう言って去っていく博ちゃんの後姿を、見えなくなるまで見ていた。

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