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第1話
何だか少し寒い気がすると思って目を開けると、少しだけ掛布団が捲れ上がっていた。堂嶋は目を擦ってそれに手を伸ばした。そうして気付く。隣のスペースが開いている。これできっと目が覚めたのだろうと半分ベッドに顔を埋めながら考えた。堂嶋は大体どこでも眠れたし、大体いつでも眠たいひとであったが、どうやら鹿野目はそうではないらしいと気付いたのは、一緒に眠るようになってからだった。鹿野目は寝つきが悪くて、大体いつもベッドに入って3時間くらいは目を開けている。そして眠りも浅いようで良く夢を見ており、それが良い夢ならばいいのだが、よくうなされていることもあったのできっと悪い夢を見ることの方が多いのだろうと苦しがる彼の横顔を見ながら、堂嶋は起こしていいものか迷っていた。それでも昼間はしゃんと背筋を伸ばして仕事をしているので、眠たくないのだろうかと、しっかり6時間以上眠っている堂嶋は不思議になったりしていた。そのまま多分堂嶋はすぐに眠ることが出来たけれど、何となく気になって体を起こした。着た覚えのない鹿野目のTシャツを着ている。それに口だけで笑いながらひっそりとベッドを抜け出した。
季節は秋から冬になりつつある。鹿野目との可笑しな同棲生活にも少しは慣れてきた頃だった。もっとも順応性の高い堂嶋は2週間もすればそれが普通になったのだが、鹿野目のほうはそうでもなく、暫く俯いてぶつぶつあらぬことを呟いては青い顔をしていた。目つきが悪くて可愛げはないが、そういう繊細な感覚は持っているのだなと図太い堂嶋は思う。眠れないなんてその典型だ。堂嶋はそんな経験がないからよく分からない。眠れない鹿野目の苦しみは理解できない。寝室を抜け出してリビングに出る。てっきり眠れないから起き出してテレビでも見ているのだろうと思ったが、リビングも暗くて静まり返っており、鹿野目の姿はなかった。堂嶋はぐるりと部屋の中を見渡して、少し考えてからベランダに向かった。ガラスの向こうに思ったように鹿野目の背中があり、そこで煙草を吸っているようだった。声をかけていいのかどうか少し迷って、堂嶋は拳を作ってガラスを軽くこんこんと叩いた。すると鹿野目がふっと物音に気付いたみたいに振り返って、彼の咥えている煙草の煙がすっと動いた。堂嶋はベランダの扉を開けて、外に出た。秋から冬になりつつある外の空気はぴりりと冷たくて、Tシャツ一枚では凍えるようであった。見やると鹿野目はちゃんと暖かそうな上着を着ている。
「いないから吃驚したよ、鹿野くん」
「すいません、起こしましたか」
「うん、君がいないから、寒くて眠れない」
手を伸ばして鹿野目の手を握ると、それがひんやりしていて、どれくらい前から彼がここでぼんやり何にもない東京の空を見ていたのか、想像がつくようだと思った。鹿野目は少し驚いたように、握られた手を見やった。しかしそれを動かすことはせずに、またゆるりと堂嶋を見る。
「すみません、ちゃんと布団、かけたつもりだったんですけど」
「・・・そういう意味じゃないんだけどな」
そう言って堂嶋が苦笑いを浮かべると、鹿野目は頭の上にクエスチョンマークでも浮かべるみたいに、小さく首を傾げた。
「また眠れないの、それとも怖い夢見た?」
「・・・別に、目が覚めただけです」
「そう、ならいいけど。もう戻らない?寒いでしょ、ここ」
「・・・―――」
多分嘘を吐いていると思ったけれど、堂嶋はそれ以上追及しなかった。眠れないことを鹿野目は隠さなかったけれど、悪い夢をよく見ることは余り認めたがらなかった。夜中にうなされている鹿野目を起こして、何の夢を見ていたのと聞いても俯いたまま、覚えていないと唇を震わせるだけで、それ以上は何も言ってくれなかった。鹿野目に何かの信仰みたいに愛されていることは自覚していたが、そういう自分相手にでも言えないことはあるのだなと堂嶋は思って、それ以上深入りするのは止めた。そういう風に愛しているからこそ、言えないこともあるのかもしれない。鹿野目は確かに堂嶋よりは年下であったが、ひとりの物分かりの良い大人であったし、多分隠すにはそれなりに事情があるのだろうと思って、気にならなかったわけではなかったが、余り探ってやるのは良くないかなと、堂嶋なりに気を遣った結果だった。それが良かったのか悪かったのか分からない。そして鹿野目は時々夜中起き出しては、こんな風にぼんやりと朝になるのを待っているみたいだった。
「寒いなら戻ってください、風邪ひきます、そんな恰好じゃ」
「うん、だから一緒に戻ろうよ、鹿野くんも手、冷たいよ」
「・・・俺はもうちょっとここにいます、どうせもう眠れないし」
少しだけ迷った目をして、鹿野目はふと真っ暗な東京の夜に目を戻した。そうやって何もない空を見るのが好きなんだなぁと堂嶋は思ったが、鹿野目は何もすることがないからそこでそんなことをしていたのかもしれない。言い出したら聞かないから、これは自分が折れてもう戻ったほうが良いのだろうかと思ったけれど、手のひらの下の鹿野目の手が随分冷たくなっていて、何となく堂嶋もそれをそのままにしては戻れないような気持ちになっていた。どうしようか考えていると、鹿野目のほうがさっと動いてリビングに続く扉を開けた。
「悟さん、ほら」
「う、うーん」
背中を押されて強引にリビングに戻される。振り返ると、鹿野目は勝手に扉を閉めようとしていた。堂嶋は手を伸ばしてそれを止めてから、外に立っている鹿野目の手を引いた。真白い鹿野目の手は、血が通っていないみたいに冷たかった。
「一緒に戻ってよ、鹿野くん」
「・・・でも」
「君がいないと寒くて眠れないよ」
「・・・―――」
卑怯だと自分でも思ったけれど、鹿野目が言うことを聞かない時は、少しくらいわざとらしく大袈裟にやって見せたほうが良いと思った。同じことをさっきも言ったけれど、今度は鹿野目も意味が分かったらしい。複雑な顔をして困っている。手を引くと鹿野目の体がぐらっと揺れて、そのままリビングに引っ張ると、開けっ放しだった扉を閉めた。勝手に良しと思って堂嶋は振り返って鹿野目を見やった。そこで何かに負けたみたいにやや視線を落として、鹿野目はじっとしている。
「悟さんほんとに」
「だって死体みたいに冷たい手をしてるんだもん、鹿野くん、心配だよ俺は」
「死体みたいって、死体の手を握ったことがあるんですか」
「ないよ、たとえだよたとえ」
ふふふと声を出さずに笑うと、鹿野目は少しだけ困ったような顔をした。鹿野目の無表情にも色々種類があるらしいと気付いたのは、最近のことだった。多分他の人には分からない程度の変化だろうけれど、堂嶋は最近それを見分けることに楽しみすら見出していた。堂嶋はその冷たい手を握ったまま、寝室の方に歩き出した。鹿野目が後ろで溜め息を吐きながら、それでも大した抵抗はせずについてくる。
「眠れないなら何か話をしよう、俺も目が冴えたし付き合うよ」
「どうせ悟さんは横になったらすぐ寝るから」
「ははは、そりゃそうだ」
寝室の扉を開けて振り返ると、鹿野目はもう困った顔はしていなかった。ここまで引っ張って来られて、流石に諦めがついたのだろうか。手を離すと今度はそれが鹿野目の意志を持ってゆらっと動いた。薄暗い寝室の中で、ついっと頬を撫でられる、冷たい手のひらだった。
「冷たいよ、鹿野くん」
目を瞑ったまま笑うと、鹿野目が小さく呟いた。
「我慢してください」
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