30 / 30

Sleepless night Ⅱ

「堂嶋さん、そうやってお兄ちゃんに甘えてるのよ」 「・・・甘えてる?悟さんが?」 「そうでしょう、疲れてるわけでも眠たいわけでもないのよ、まぁお兄ちゃん相手ならどっちがどう甘えてるのか甘やかしてるのか分かんないけど」 後半独り言みたいに呟いて、亜子は炭酸のジュースを自分で飲んだ。鹿野目は亜子にそう言われて、まじまじと膝の上で眠る堂嶋のことを見つめた。最近、時々堂嶋は自分を呼びつけて、この体勢になると30分も経たないうちにすやすやと眠ってしまう。きっと疲れているのだろう、眠たいのだろうと思っていた。相変わらず自分は察する能力が足りないと思いながら、鹿野目はゆっくりと堂嶋の癖になりつつある髪の毛を梳いた。そうやって堂嶋が膝を丸めて体を預けて、自分に甘えているのだと思ったら、体の中が急に熱くなったような気がした。体を揺すって今すぐ起こして抱き締めてキスがしたかった、そんなことはできないけれど。 「亜子」 「なに」 「悪いけど、今日、帰ってくれないか」 「露骨に欲情しないでくれる、お兄ちゃん、妹の前よ」 キッチンに立ったままの亜子は溜め息を吐きながら、俯いて堂嶋の横顔を食い入るように見つめる鹿野目の後頭部から目を反らした。すると人の声に反応したのか、堂嶋が鹿野目の膝の上で急に身じろいで、ややあってからふっと目を開けた。 「・・・あれ、俺、寝てた?」 「・・・はい」 返事をするだけの声が掠れた。堂嶋はふっと起き上がると、後頭部をがしがしと乱暴に掻いてふあっとひとつ欠伸をした。鹿野目は急に今まで足の上に乗っていた重みを失って、妙にバランスが崩れるような気がした。それだけ堂嶋の重みを体の中に取り入れて同化してしまっていたのだと思う。堂嶋は緩やかに振り返ると、まだ少し眠たい目をして、鹿野目にふっと笑いかけた。 「鹿野くん、ごめん、重かったでしょ」 「いいえ、悟さんのかわいい寝顔独り占めさせてもらいました」 「・・・また変なこと言ってる」 肩を竦めて堂嶋は笑うと、鹿野目のほうに音もなく近寄ってきて、すっと目を細めた。実に自然な動作だと思った。鹿野目はその堂嶋の肩をゆっくりと掴む。 「お兄ちゃん、水、飲むの」 その時リビングに亜子の不機嫌そうな声が響いて、ぴたりと堂嶋は止まった。そうして声のした方に視線をやると、そこで亜子が手にミネラルウォーターのペットボトルを持った格好で、兄の背中を睨むような目つきで仁王立ちしている。堂嶋は思考が一瞬停止した。堂嶋は一体何故亜子がそこにいるのか分からなかった。だって眠る前には、亜子はそこにはいなかったのだから。止まった堂嶋に続きを促すみたいに、鹿野目は堂嶋の肩を掴んでいた手に力を込める。そこで堂嶋ははっとして、慌てて鹿野目の手を振り払って鹿野目から物理的な距離を取った。掴むものが急になくなった鹿野目の手が、恨めしそうに宙に浮いている。 「あ、こ、ちゃん?」 「・・・こんばんは、堂嶋さん、お邪魔させてもらったわ」 「な、なんで、起こしてくれなかったんだ・・・鹿野くん!」 「悟さん気持ちよさそうに寝ていたので。それより悟さん、続き」 真っ赤になって慌てる堂嶋の手を掴んで、鹿野目は平然とそう言って続きを促す。その後ろには亜子が立っているにも拘らずだ。どうしてそういう選択になるのか、堂嶋には全く分からない。こういう時、鹿野目と全く分かり合えなくて、きっと永遠に分かり合えないのではないかと思って、堂嶋は不安になる。もう一度、堂嶋は自分の意思を亜子相手に強く主張するみたいに鹿野目の手を振り払うと、それを見ながら亜子は大きく溜め息を吐いて、床に持っていたミネラルウォーターのペットボトルをどすんと置いた。 「帰るわね、お兄ちゃん」 「え?帰るの、亜子ちゃん、今来たところでしょ、泊まっていきなよ」 「・・・お兄ちゃんが帰れって言うから、帰るわ」 鞄を拾う亜子は堂嶋の方を見ずにそう素っ気無く答えると、それを肩にかけてそのまま玄関のほうに歩いて行った。堂嶋は慌てて亜子の背中を追いかけた。この部屋の中で鹿野目だけが、展開についていけずに堂嶋を失ってリビングでひとりきりになる。 「亜子ちゃん!」 堂嶋は玄関でヒールの高い靴に足を捻じ込む亜子の背中に、ほとんど縋るみたいにそう声を張り上げていた。亜子がゆっくり振り返る。それはいつもの無表情で、堂嶋は何だかそれを見てほっとしていた。近づく堂嶋の姿を確認すると、亜子はまた俯いてパンプスのかかとに指を突っ込んだ。 「亜子ちゃん、ほんとに帰るの」 「いいの、本当に今日はちょっと顔を見に来ただけだから」 「・・・わかった、じゃあ駅まで送るよ」 振り返ると堂嶋は眉尻を下げた情けない顔をして亜子を見ていた。 外は寒かった。亜子は見たことがある白いコートを着ていて、グレーのマフラーをきっちり首に巻いていた。家を飛び出すように出てきた堂嶋は、コートを羽織っただけの恰好で、流石に寒いと思いながら、その両手をポケットに突っこんでいる。鹿野目のマンションから駅は目と鼻の先であったが、外は暗いし寒いし、亜子をそのまま帰すわけにはいかずに、多分肝心の兄貴はリビングで何が起こったのかまだ分からずぽかんとしているのだろうと思ったけれど、堂嶋は亜子を追いかけることしかできなかった。鹿野目の隣にいることに、堂嶋はすっかり慣れてしまって、はじめは弱気なことばかり呟いていた鹿野目も、最近では夜眠れるようになったみたいに、目を伏せることは少なくなった。けれどこの妹にとってみれば、まだ自分は違和感の範疇なのだろうと堂嶋はひとりで思って、また目を細める。亜子が鹿野目を家族の親愛ではなくて、恋愛の対象として好きでいたということを、堂嶋は何故だか分かるような気がしたし、だからこそ彼女の全てを邪険には扱えないで困っている。 「堂嶋さん」 「え、あ、・・・なに?」 今まで黙っていた亜子が急に口を割って、堂嶋は体をびくっとさせながら、平常心を取り繕ってそう返事をした。少し前を歩く亜子が急に振り返って、芯の通った黒髪がさっと堂嶋の目の前で形を変える。鹿野目が母親似と称した彼女の顔は、いつみても静謐に整っている、だから温度がなくて少し悲しい。髪の毛と目の色が真っ黒な分、肌の白さが際立って、本当に人形みたいな美しさと冷たさが同居している。 「お兄ちゃんといつもああいうことをしているの」 「・・・ああいうことって」 言いながら俯く。彼女は言葉を選んだりオブラードに包んだりしないから、直接的で堂嶋は見ていられないとそれに刺されるたびに思う。普通の形とは少し違うものの、一応恋人同士なのだから、ああいうこと、彼女の目にそれがどういうこととして映ったのか分からなかったが、があっても別に責められる理由なんてないと思いながら、堂嶋はそれに逃げ道を探している。 「・・・あんな顔のお兄ちゃんはじめてみた」 「あんな顔って、どんな・・・」 「やっぱり堂嶋さんは特別なんだわ」 そうして呟く彼女の顔に、少しだけまだ切なさが残っている。堂嶋はそれを見つけて黙ってしまった。一体彼女に何と声をかけたらいいのか分からなかった。もう目の前は駅である。堂嶋がふっと止まると、亜子もくるりと堂嶋に向き直って、足を止めた。 「送ってくれてありがとう、堂嶋さん」 「・・・うん、気を付けて帰りなよ」 「分かってるわ。邪魔してごめんなさい」 「・・・懲りずにまたおいで」 へらりと堂嶋が笑って手を振ったが、亜子はじっと堂嶋の顔を見てそこを動こうとしなかった。亜子の何か確かめるような視線に、堂嶋は笑った顔を困った顔にして、振っていた手を所在なさげに動かした。 「・・・どうしたの、亜子ちゃん」 「ううん、流石にお兄ちゃんかわいそうだったから、堂嶋さん、帰ったらちゃんとキスしてあげて」 「・・・―――」 「それじゃ、さよなら」 そう言い放つと亜子は短いスカートを翻して、改札の向こうに消えて行った。堂嶋は冷たい手で頬を覆ってみた。じわりと熱くなっていて、何だかなと思う。はぁと意識的に溜め息を吐くと、くるりと駅に背を向けて、堂嶋はゆっくりマンションへの道を歩き出した。すると出先に慌てて突っ込んだ携帯電話がポケットの中で震えて、それを取り出すと、案の定鹿野目だった。あと2,3分でマンションには着くけれど、と思いながら応答のボタンを押して、堂嶋はそっと冷えた耳にそれを押し当てた。 「はい」 『悟さん、亜子は帰りましたか』 「あー、うん。駅までだけど送っといたよ」 『そうですか、よかった、早く帰って来てください』 「・・・よかったって、君はほんとに・・・」 相変わらず正直過ぎる鹿野目に、堂嶋は溜め息を吐くしかない。電波の向こうで多分、鹿野目は何にも分かっていないに決まっていた。 『早く帰って来て、キスしてください』 「・・・君はもう少し亜子ちゃんに感謝すべきだな」 『え?』 「ううん、今から帰るよ」 『待ってます』 鹿野目の低温が耳の奥に響いて心地が良かった。通話の切れた携帯電話を握って、堂嶋はふっと夜空を仰いだ。曇っていて星も月も見えない、東京の空は自棄に狭く見えた。 fin.

ともだちにシェアしよう!