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Sleepless night Ⅰ
食器を洗うのはいつの間にか鹿野目の役割になっていた。というか、家事のほとんどを堂嶋はできないばかりか下手くそだったので、消去法で鹿野目がやることが多かった。堂嶋は眉を下げて申し訳なさそうな顔をするのだが、例えば食器を洗ったり洗濯をしたり掃除をしたりすることが、鹿野目はあんまり苦にならなかったので、得意な方がやればいいと思っていて、堂嶋がそんな顔をする意味がいまいち分からなかった。そもそも堂嶋は管理職であったので、平の所員の鹿野目とは抱えている仕事量が違い、大体いつも鹿野目の方が帰ってくるのは早かったから、堂嶋はいつも鹿野目が意図して整えた部屋の中に帰ってくることになった。
「鹿野くん、終わったー?」
最後の一枚を食器洗い乾燥機に入れたところで、テレビの前で寛いでいる堂嶋に呼ばれて、鹿野目は慌てて濡れた手をタオルで拭いた。キッチンから顔を覗かせて堂嶋がいるリビングを見てみると、堂嶋は先程疲れたと言って帰ってきたままの恰好で、鹿野目が先週末にアイロンをかけたぱりっとしたシャツのまま、いつものようにソファーの上に寝転んでいた。
「どうしたんですか、悟さん」
「ん、ちょっと、そこ座って」
鹿野目の声に反応してソファーから体を起こした堂嶋は、毛の長い白いラグが敷いてある床を指さした。鹿野目が言われた通り、ソファーに凭れる格好でそこに座ると、堂嶋はクッションを抱えたまま含み笑いを漏らした。鹿野目はそれを見てこの先の展開が読めたような気がした。
「足伸ばして」
「・・・はい」
鹿野目は堂嶋の指示に素直に従い、座ったまま足だけを伸ばした。クッションを抱えたまま堂嶋はソファーから降りてきて、足を伸ばした鹿野目の膝の上にクッションを乗せた。そしてごろんと横になるとそのクッションの上に頭を乗せる。堂嶋は最近これにはまっている。なんでもテレビを見るのにちょうどいい高さらしいのだが、鹿野目の知る限り、堂嶋がこの体勢になると30分も持たずに眠ってしまう。鹿野目は膝の上で何が可笑しいのか、笑っている堂嶋の耳にかかる柔らかい髪の毛をそっと撫でた。
「手、冷たい、鹿野くん」
「すいません、さっきまで水触ってたので」
「んーん、冷たくて気持ちい、ねそう」
ふふふと堂嶋が笑って、きっと手が冷たくなくても堂嶋は眠るのだろうなと思いながら、鹿野目は黙って堂嶋の髪の毛を梳いた。堂嶋が好きなこの体勢を、鹿野目はきっと堂嶋以上に気に入っている。少しだけ茶色い堂嶋の髪の毛は柔らかくて、少し癖がついている。伸びてくると毛先がくるくると丸まっていて、湿度の高い日は洗面所で嘆いているのを知っている。
「髪、伸びてきましたね、悟さん」
「んー、そうだねぇ、今月美容院行く時間あるかなぁ・・・」
「暫くこのままにしといてください」
「・・・鹿野くん長いのが好き?でもあんまり長いとなぁ」
「俺は何でも好きですけど、長いと悟さんの髪の毛、撫でてると手に絡んできて、気持ちいいので」
「・・・はは」
堂嶋が笑い声を上げて、膝に振動が伝わってきた。テレビは堂嶋が見ているらしいドラマがはじまったが、堂嶋の目は既にとろんとしてきており、きっと30分も持たずに寝てしまうのだろうなと、鹿野目は堂嶋の髪の毛を飽きずに梳きながら思った。鹿野目は昔から寝つきが悪くて、布団に入っても3時間くらいなら起きていることはザラにあったが、堂嶋はきっと忙しさもあるのだろうけれど、どこでも兎に角横になるとすぐに眠ってしまうタイプで、鹿野目はそれが何だか不思議で新鮮だった。
「俺の髪の毛、細くて柔らかいでしょ、だからきっと将来ハゲるって、ずっと言われてて」
「・・・俺は悟さんがハゲても好きですよ」
「嫌だよ、そんなの、俺が」
言いながらまた笑って、堂嶋はすっと目を細めた。いよいよ眠いのだと思って、鹿野目は口を噤んだ。指先で堂嶋の眠気の邪魔をしない程度に髪をゆっくり梳いて、時々頬を撫でた。体温の高い堂嶋は、冷たい指がそこを撫でると、皮膚をぴくりと動かしてそれを敏感に察知する。
「・・・さとりさん?」
堂嶋の返事はない。
携帯電話が鳴っている。鹿野目は手を伸ばしてそれを掴んだ。鹿野目の携帯電話は登録している人数も少なかったせいもあるのだろうが、普段余り鳴らなかった。ディスプレイを見ると着信は亜子からとなっている。見ているうちにもう一度鳴りはじめて、しつこいなと思ったけれど、邪険にすると後で怒られるので、面倒だと思ったけれど鹿野目は応答のボタンを押した。耳に当てるのと同じくらいのスピードで、電話の向こうから亜子のいつもより低い声が聞こえてくる。
『お兄ちゃん、何やってるの』
「何って、家にいるけど」
『何で電話出ないの?』
「出ただろ、お前こそなんだ、何か用事か」
『今日お兄ちゃん家行って良い?っていうか、そこまで来てるんだけど』
「あー・・・」
亜子は何だかよく分からないが、随分と機嫌が悪かった。何か嫌なことでもあったのだろうかと、鹿野目は鹿野目なりに妹に気を回したりする。左手で膝の上で丸くなって眠る堂嶋の髪の毛を懲りずに梳いていた手を止めて、鹿野目は一応思案した。こんな時間に眠った堂嶋は、きっと今夜は余り眠れないに違いなかった。だったら少し、少しくらい何かさせてくれるかもしれない。妹の声を聞きながら、鹿野目が考えていたのはそんなことだったが、機嫌の悪い亜子は、悠長に鹿野目の答えは待っていない。
『っていうか着いたわ、開けて、お兄ちゃん』
「・・・お前、もう少し前もって連絡・・・」
『したわ、出なかったのそっちでしょう』
「分かったよ、開いてるから勝手に入ってこい」
『何それ、不用心ね。出迎えてもくれないの』
「今手が離せないんだ」
言いながら、鹿野目は堂嶋の髪を左手でまた掬った。亜子は泊まらせずに帰せばいいと思ったけれど、それを自分が上手く運べないのは何となく分かっていた。そして堂嶋は優しいから、特に亜子には何故か酷く優しかったから、泊まっていきなよと簡単に言うだろうと思っていたし、結局半分以上今夜のことは諦めていた。口惜しいが、諦めることしか鹿野目には出来そうもなかった。がちりと遠くで扉が開く音がして、本当に亜子はすぐ傍にいたらしい、ややあってぱたぱたと軽い足音が聞こえてくる。
「お兄ちゃん、何やってるの」
「・・・何って」
リビングに足を踏み入れた亜子は、いつものようにスカートを履いていて、真っ白の素足を外気に晒している。我が妹ながら、何て寒そうな格好なのだろうと鹿野目は思った。表情はそんなに暗くなくて、多分吃驚したせいで不機嫌どころではないのかもしれないが、それでも鹿野目は少しだけほっとした。なんだかんだ言いつつ、やはり妹のことは可愛かった。
「悪いんだけど、お前、ちょっと水かなんか持ってきてくれ」
「・・・お兄ちゃん、聞きたくないんだけど」
「なに?」
亜子は溜め息を吐くみたいに大きな息を吐いて、肩にかかっていた黒の鞄を床に下ろして、先程まで鹿野目がいたキッチンの方にふらふらと入って行った。冷蔵庫を開けて、常備してあるミネラルウォーターを取出し、コップに注いでいるのが見える。亜子はそれを持ったまま、リビングの鹿野目のところまでやって来て、無言でそれを差し出した。鹿野目はそれを受け取って、ほとんど一気に飲み干した。カラカラだった喉に清涼な水が潤いをもたらしてくれて、鹿野目はほっとした。
「悪い、ありがとう」
「・・・どれくらいそうしてるの」
「さぁ、1時間くらい?」
「・・・喉も渇くはずだわ、蹴って起こせばいいのに」
また溜め息を吐くように息を吐いた亜子は、鹿野目が空にしたコップを持ってキッチンに戻ると、またミネラルウォーターをそれに注いで戻ってきた。今度は鹿野目に渡さず、ガラスのテーブルの上に置く。亜子は不機嫌に戻ってしまっている。いつもより若干低い声を聞きながら、鹿野目は思ったが、思っただけで何とも自分では仕様がないとも思っていた。
「亜子、悟さんはいつも激務で大変なんだ、平の俺とは全然仕事量が違うんだよ、管理職だから」
「あのね、お兄ちゃん、疲れて眠たいならソファーでもベッドでも眠るところは沢山あるわ」
「・・・悟さんがこれがいいって、この高さがテレビを見るのに丁度いいから」
「見てないじゃないの、寝てるじゃないの。お兄ちゃん馬鹿ね、相変わらず」
無表情で亜子はそう言って、すっと立ち上がった。そしてまたスカートのすそを翻して、キッチンに向かう。そこでいつもそこでそうしているみたいな自然さで、食器棚からカップを取り出すと、鹿野目が好きで飲んでいる炭酸のジュースを注いだ。
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