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第28話
あれから、鹿野目はぴたりと夜中にうなされることはなくなった。後になって堂嶋は、亜子ではなく鹿野目の言っていたことが本当の事だったのだと悟ることになる。堂嶋はというと、夜中にふと目覚めるのが癖ついてしまい、なんとなくそれからだらだらと起きてしまうことが月に何度かあった。その日、何だか寒いと思って鹿野目が目を開けると、隣に眠っていたはずの堂嶋の姿がなくなっていた。鹿野目は眠たい目を二三度瞬かせた後、ゆっくりとベッドから起き上がった。夜中に起きてしまう堂嶋は、別段その後眠れないわけではないのに、わざと横にならなかったり、何か飲んでいたりして眠らないでいる時間をひとりで楽しんでいるみたいだった。鹿野目はそっとベッドから降りて、リビングに出てみた。案の定キッチンの電気がついていたが、堂嶋の姿はなかった。テレビの前のガラスのテーブルの上に、コップが置かれているということは、多分さっきまでここにいたのだろう。鹿野目はそれをそっと持ち上げて、またそっと同じ場所に戻した。
(どこ行ったんだろう、悟さん)
どこにも行かないからと言って抱きしめてくれた堂嶋の背中を、鹿野目はそれでも時々目線で追いかけて不安になることがある。自分でもいい加減にしたいと思っている、いつまでもそんなことをしていたら堂嶋のことを信じていないみたいで嫌だった。堂嶋に信じていないと思われるのはもっと嫌だった。けれどそういう性分なので仕方がない。考えながら鹿野目は足音をできるだけ立てないようにそっとリビングを横切って、ベランダの扉に手をかけた。外はきんと空気が冷えていて、鹿野目の無防備な肌を簡単に刺激する。リビングから覗くと、堂嶋はそこにいて何をするわけでもなくぼんやりと東京の夜を見ていた。
「さとりさん」
その横顔に小さく呼びかけると、今気付いたみたいに堂嶋はぱっとこちらを向く。視線が絡んで、そんなことだけでほっとした。堂嶋が確かにそこにいることを見つけるたびに、鹿野目はいつもほっとしているような気がする。堂嶋はそこで悪戯が見つかった子どもみたいな、バツの悪い顔を一瞬して、そしてそれを隠すみたいに、にこっと笑った。ふっと白い息が漏れる。
「鹿野くん、ごめん、起こしちゃった?」
「・・・別に構わないんですけど、中入ったらどうですか、寒くないですか」
「そうしようかな、ちょっと寒い」
返事を半分くらい聞き流しながら、鹿野目は堂嶋の腕を引いて、リビングに入れると扉を閉めた。堂嶋がやっと自分の所有に戻って来たみたいでほっとした。鹿野目が鉄仮面の下でそんなことを考えていることを、多分堂嶋は知らないでいる。手を引いても部屋に閉じ込めても、簡単に他人を所有することなんてできないことぐらい鹿野目にも分かっていた。振り向くと堂嶋がにやにやしているのと目が合う。すこしだけ鹿野目はどきっとした。堂嶋がそれを知っているような気がしたから。
「・・・なんですか」
「んーん、別に」
「別にって」
「君が随分安心した顔をしたから、だからなんだかおもしろくて」
肩を竦めるようにして、堂嶋はひっそりと笑った。鹿野目は自分の顔にぺたりと触れて、そんな顔をしていたかなと思ったけれど、堂嶋がそう言うならその通りなのだろう。堂嶋の言う事はいつも正しい、ような気がする。自分にとっては特に。その堂嶋が目の届かないところにいないと、いつかふらりとどこかに行ってしまうのではないかと思っていて不安だなんて、そんなこと堂嶋相手には言えやしないけれど、この分では半分以上堂嶋はそのことを知っているのかもしれない。
「戻ってください、悟さん、風邪ひきます」
「うん、そうする」
俯いて堂嶋は、笑いを噛み殺すようにそう言った。俯いた時の後頭部の丸い形が好きだった。奥歯を噛むと不自然に浮かぶ口角の皺も好きだった。好きなところは上げてもきりがなかった。鹿野目は時々それを唐突に思い出すことがあった。
「なんかあったね、前もこういうこと」
「ありましたっけ?」
「うん、その時は立場が逆だったけど」
そう言いながら堂嶋が笑うのを、鹿野目は寝室の扉を開けながら背中で聞いていた。ほとんど意識は寝室の奥へ注がれていて、半分くらいまた堂嶋の話は聞き流していた。堂嶋は寝室に入ると防寒のため着ていた分厚いパーカーを脱いで、毛布を持ち上げ、そのままするりとベッドに入り込んだ。何かの動物みたいに自棄に無駄のない仕草だと思った。鹿野目は一応堂嶋の言っているその時のことを思い出そうとしながら、反対側からベッドに入った。あまり上手く思い出すことが出来ない。
「鹿野くん最近、夜起きなくなったね」
「・・・はい」
枕に頬を押し当てるようにしてふふふと堂嶋は笑った。鹿野目はぼんやりしながらそれに答えて、そっと手を伸ばして堂嶋の白い頬に触れた。じわっと冷たくて、それが先程まで堂嶋が外に出ていた証拠だった。するりと指先で撫でると、堂嶋は少し眠たい目をして体を捩った。
「よかった、安心だよ、俺は」
「・・・はい、すいません」
「はは、なんで君が謝るんだよ」
最近夢を見なくなった。目を開けていて、堂嶋がどこかに行ってしまうのではないかと不安になることはあるけれど、目を閉じてまでその不安と幻想に追いかけられることはなくなった。これは進歩なのだろうか、本当に少しずつしか前に進めていないけれど。いつかそんなことなんて馬鹿なことだと分かるようになって、目に見なくても不安でなくなって、そんな日が自分にも訪れるだろうか。眠れない夜を幾つ越えたら、そんなことを信じられるようになるのだろう。本当は堂嶋の言うことは全て頷きたいし、信頼していたいし、疑いたくないし、信じられていないこと知られるのは怖いけれど、それでも鹿野目の臆病な部分は、時々鹿野目に現実とそれによく似た幻想を突き付けて、それでも未来を信じられるのかと迫るのだ。
(悟さんは知らない、こんなに傍に悟さんがいることが、俺にとってどんなに奇跡的なことなのか)
(悟さんは知らないから)
鹿野目が目を細めると、堂嶋は唇を歪めたまま鹿野目の手を取ってその手のひらに唇を寄せた。ちゅっと音がして離れる。薄暗がりに輪郭さえ溶けてしまいそうな真夜中、そこからじわっと熱が広がって、先程まで夜風に当たっていたのが信じられないくらい熱かった。
「おやすみ、鹿野くん」
「・・・おやすみなさい」
目を閉じる堂嶋の満足そうな顔を見ながら、鹿野目は眠気が回帰してきた頭で考えながらぼんやりとそう呟いた。手を伸ばせばすぐ近くにある人の体温を、うすぼんやりと感じながら、鹿野目もやがて目を閉じる。眠らない夜を幾つ越えても重ねても、結局何にも辿り着けないことは知っていた。何処にも行きつけないことは分かっていた。これがいつか壊れる幸せであってもいいのだ、壊れないように祈ればいいのだ。怖くなったら堂嶋の手を握れば、きっとまた魔法の言葉をかけてくれる。
だから隣にいる君にも分かるように、簡単で単純な言葉で言うのだ。
(おやすみなさい、良い夢を)
fin.
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