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第27話

亜子は肩を震わせて小さくしゃくりあげた。それでも周りの喧騒は変わらず、こうして誰にも本当のことを言えず、愛しているから兄にも勿論言えず、彼女はひとりで苦しんでいたのだと堂嶋はひっそりと思った。その絶望は一体どんな思いで、亜子の心を侵食しているのだろう。そこから、一歩も動けないそこから、亜子のことを救ってやりたいなんていうのは、それは余計な御世話だと堂嶋だって分かっていた。それでも堂嶋は少しでも自分の行動に何か裏付けがないと、動いてはいけないような気がして、それが偽善のように亜子の瞳に映っても、本当のことを目の前に晒さなければいけないような気がしていた。本当は心の底でどこかで、亜子もそう望んでいるのではないかと思った。賢い彼女が自分の歯車を止めたいために、あの夜堂嶋に囁いたのではないのだろうか、兄のことを。白い頬を滑る透明の液体を見ながら、堂嶋はひとりで考えていた。 「分かっていたのよ、仕方ないってことは」 「私がいくら思ってもお兄ちゃんが私の事なんて見てくれないって言うことは」 「だって私はお兄ちゃんがゲロ吐いちゃうような女と同じなんだもの」 そう言って亜子ははははと笑い声を上げた。目を真っ赤にして、それでも気丈に振る舞う彼女の中の器用さは一体どんな形をして彼女を助けているのだろう。堂嶋はそれに眉を少しだけ顰めた。亜子は瞬時にそれに気が付いたみたいに、ぱっと顔を無表情に戻した。 「違うよ、亜子ちゃん」 「違わないわ。こんなことなら男に生まれれば良かった、そしたらお兄ちゃんだって私のことを」 「・・・亜子ちゃん」 「愛してくれなくても一度くらいセックスしてくれたかもしれないのに」 ますます堂嶋が眉間に皺を寄せて、亜子は泣いて喚きたい気分になった。まるで子どもの悪戯を咎めるような目で、そんな目で見ないでくれと思ったけれど、亜子はそれを口にも出せなかった。本当は羨ましかったのかもしれない。兄にこの世の神様みたいに深く愛されている堂嶋のことは勿論、会えば簡単に性欲を口から垂れ流す下品な八代のことさえも、亜子は自分が間違ってもそうなれないことを知っていたから、男というだけで兄から好意を向けられる他の全ての男のことも、自分が喉から手が出るほど欲しいものを持て余している彼らのことが、本当は心の底から羨ましかったのかもしれない。女というだけで兄の視界から全く排斥されてしまう他の全ての女の子の範疇から、自分が決して逃れられないことを知っていたから。 「違うよ、亜子ちゃん」 「・・・違わないわ」 「鹿野くんは君がたとえ男でも、きっとそんなことはしないよ」 「どうして、そんなこと分からないわ」 「それは君が家族だからだ。君は鹿野くんの大事な妹なんだよ」 堂嶋は真面目な顔をして、ごく簡単なことを言った。亜子は自分の顔の表面が、ぱりぱりに乾いていくような気配がした。今まで泣いていたのに。 「亜子ちゃんだって本当は、分かっているんだろう、君は賢いから」 「・・・いやだな、本当に・・・本当に嫌い・・・堂嶋さん」 口角を引き上げたまま、亜子はまたひくりと肩を無防備に揺らした。目からぽろりと思い出したように涙が零れて、それが真実なのだと分かるしかなかった。もう理解できないふりをするのは限界だった。兄が男しか恋愛の対象にできないことが分かっていて、それでいて物分かりのいい妹でいるのは辛かった。せめて男に生まれていたら、兄の悲しい半身を埋めることが出来たかもしれないのにと思いながら、亜子は自分の女の体を呪った。亜子が必死で兄を守ろうと、世間の軽々しい悪意から守ろうとしていたみたいに、兄も兄で自分のことを大事にしてくれているのは分かっていた。それは不器用な兄らしく、周りには見えにくい方法だったけれど、亜子はそれが分かっていた。だからそれでいいのだと、兄の一番大切な人になれなくても、兄の唯一無二は自分なのだと亜子は信じていられた。堂嶋に出会うまでは無邪気に信じられていたのだ。 「お兄ちゃんの事・・・傷つけないであげて」 「うん、努力するよ」 亜子に言えたのはそれが精一杯で、堂嶋がそれに柔らかく笑って頷いて、亜子は本当にこれで終わりで良かったのか分からなかったけれど、肩に乗っていた重いものがなくなったような気がした。兄に縛られて生きてきた自分の人生は、これで一旦終わりなのだと痛感した。自分だけの人生のことを考えなければならない、滲む視界で亜子は考えた。兄のいない自分の人生のことを考えなければならない、悲しいけれど悔しいけれど。いつかこんな日が来ることを亜子は知っていたような気がした。本当は知りたくなかったけれど。亜子はひとつ息を吐いて、立ち上がった。堂嶋の茶色い目がふっと追いかけてくる。 「さよなら、堂嶋さん」 「亜子ちゃん、そんな悲しいこと言わないでくれよ」 「悲しい?何が」 「・・・あのマンション、ふたりで住むつもりで借りているんだろ?鹿野くんから聞いたよ」 ひとりで住むには広すぎるマンション、親には内緒で大学に合格したら兄と一緒に住むつもりだった。兄は少し困ったようにはしたものの、結局亜子の粘り勝ちで、鹿野目は今のマンションを契約した。結局、親にばれて、それは叶わないことになってしまったのだが、兄はいつでも来て良いからと言って、そのマンションを解約しなかった。その時の喜びを堂嶋にはきっと理解できないだろうと亜子は静かに思った。文字通り、足の先から跳ねるような気分で扉を開けた時、迎えてくれたのが兄ではなくて堂嶋で、亜子は全てを理解して絶望の底に叩きつけられた。この場所はもう自分と兄の場所ではないのだということを理解した。理解せずにはいられなかったからだ。それでも取り繕うことだけ上手くなって、兄の前ですら貼り付けの笑顔で笑って、そんなことを自分に強いた堂嶋のことが、憎らしくて悔しくて、亜子は暗闇に向かって嘘を吐いた。 「亜子ちゃん、君は鹿野くんの妹だ。それは変わらないよ、これからもずっと」 「・・・何を言っているの、堂嶋さん」 「これからも鹿野くんの味方をしてくれるんだろう?」 「・・・―――」 「あそこは君の帰るところでもあるんだよ、亜子ちゃん。いつでもおいで、待ってるから」 鞄を持ったまま立ち尽くした亜子の奇妙な姿を、周りで騒ぐ学生は誰も気に留めようとしない。堂嶋はカフェのソファーに座ったまま亜子を見上げるようにしてそう言った。さよならと言ってスカートを翻して、そして亜子はそこからいなくなるつもりだった。最も、兄の前ではいついなくなっても良いように、準備しているつもりだった。自分は兄と一緒には生きていくことが出来ないし、兄の一番大切な人に、その現実を見せられていつかはこんな日が来ることが分かっていたのだから。 「・・・堂嶋さん」 「なに」 「・・・ごめんなさい・・・ありがとう」 「うん・・・―――」 堂嶋は小さく呟いて、そして口元だけで笑った。亜子は鞄を握りしめて、そして堂嶋の傍を小走りに抜けてカフェを出た。他に言うことが見つからなかった。他に言うことは沢山あったかもしれないけれど。亜子はカフェを出た後、俯いたまま歩きながら涙を乱暴にまた拭った。酷い顔になっているに違いない。家に帰って顔を洗ってお風呂に入って、今日はもう早く眠ってしまおう。こんなぐちゃぐちゃな気持ちと頭で夜を過ごしていたくなかった。朝起きたら兄に電話をして謝るのだ、本当は一番嫌われたくないけれど、一番嫌われたくないから、本当のことを言っておきたい。嘘を吐いたままにしておきたくはない。亜子はよしと小さく呟いて、空を見上げた。いつの間にか外は日が落ちて真っ暗になっていた。 (お兄ちゃんわたし、お兄ちゃんのことが好きだったよ) (せかいでいちばん、すきだったよ)

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