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第26話

「おとなって、嘘を吐くのね」 そう言って亜子は首を竦めた。堂嶋はそれに何にも言えずに、目の前のコーヒーが湯気を上げるのを見ていた。亜子の大学の近くのカフェは、亜子とよく似た大学生たちが、目の中にきらきら希望を携えて、まるで店内には自分たちしかいないかのような横暴さで、周りの友達と大きな声で喋っては笑っていた。亜子は兄よりもそういう自分を取り巻く環境と上手く付き合ってきたようだったが、こうして実際見比べてみると、彼や彼女たちと亜子の井出達は吃驚するほど馴染まなくて、やはりきょうだいなのだと思った。亜子はここで決して相容れない彼や彼女と日々を過ごしているのかと思うとゾッとした。 「ごめんね、亜子ちゃん」 「その謝罪に一体何の意味があるのかしら」 「・・・まぁ、それはそうなんだけど」 呆れるように真っ黒のストレートを無造作にかき上げて、亜子は半ば馬鹿にしたように堂嶋に言い放ち、堂嶋はそれにただ目を伏せることしかできなかった。鹿野目と別れることなどできないのだと確信したその夜、静かに眠る鹿野目の隣で堂嶋は考えていた。考えていたのは亜子にそれをどう説明したらいいかということ一点だった。本来なら二人の事と完結させても良かったかもしれないけれど、亜子はそれをきっと許さないだろうし、堂嶋もそのままにしておくことは出来ないと思ったから、正直に話した。結局、自分だけがズルをしてしまったみたいで、鹿野目には亜子に聞いたことは話せていないけれど。 「亜子ちゃん、俺はね。俺は確かにゲイじゃないし、鹿野くんが今まで生きてきてしんどかった思いとか、そういうの全部分かるわけじゃないんだけど」 「・・・でしょうね」 「でもこれからは、俺が鹿野くんを守るから。何処までできるか分からないけど」 「守るって何から?何だと思ってるのお兄ちゃんの事」 亜子の目が吊り上ったのを、堂嶋はいやに冷静な心持ちで見ていた。もう目を反らしてはいけないと思ったから。堂嶋はそれを見ながら、ゆっくり息を吐いた。亜子の口調は自棄に早口で、何かを急いているようだった。堂嶋にはそれが何かは分からなかったけれど。 「亜子ちゃん、今まで鹿野くんの味方をしてくれてありがとう。守ってくれてありがとう」 「・・・―――」 「でも大丈夫、これからは俺が守るから」 吊り上った目がゆっくりと丸くなって、亜子は震えた。 「もう悲しい思いはさせないから、大丈夫だよ」 そしてその大きい目の表面が濡れて、ぽろりと涙が零れるまで時間がかからなかった。堂嶋はそれを見ていた。亜子は唇を震わせながら、瞬きもせずじっと耐えていた。亜子が静かにそこで泣いているのを、周りの煩い学生は誰も気付いていなかった。そうしてひっそりと痛みを抱きしめるみたいに、この女の子はひとりで生きてきたのだと思った。時に両親と兄の間で板挟みになり、時にクラスメイトとそれに相容れない自分との間で板挟みになりながら、決して器用ではない手と足を動かして、必死にこの厳しい世間を泳いで、そして息をするみたいに不器用にしか生きられない兄のことを守っていたのだと思った。だからこのふたりのきょうだいはここで全て完結している、そういう風に堂嶋に思わせたのだ。 「お兄ちゃんが言ったの、堂嶋さんがいるから、もう私はいらないって」 ややあって亜子は青く震える唇で言った。 「ううん、鹿野くんは何も言ってない」 「・・・勝手にそんな、こと、決めないでよ。あなたが」 「そうだね、でも、亜子ちゃん君は、俺と同じ、なんだろう?」 その時堂嶋が少し視線を落として呟くように言った時、亜子は自分が椅子から立ち上がってしまうのではないかと思った。感情が激しく揺れ動くことが、自分は少し他の人たち、おそらくは近くのクラスメイト何かと比べて、凄く少ないのだと亜子は中学生くらいの時から気が付いていた。それが、兄が絡むとどうしても自分の感情をコントロールできなくて苦しかった。目の前では何か吹っ切れたように涼しい顔をしている堂嶋のことが不意に憎く思えて、亜子は周りのものを手当たり次第に投げてやりたかった。そうやって何か行動に起こさないと、何かとんでもないことを口走ってしまいそうで怖かったからだ。 「おんなじ・・・なんかじゃない・・・」 「・・・うん」 「わたし・・・わたしが・・・どんなに・・・―――」 「うん」 「どんなに・・・お兄ちゃんを好きか・・・あなたには分からないわ・・・―――」 またうんと堂嶋は頷いて、全てを知っているみたいな顔をして、亜子はそれにまた悔しくて涙が出てきた。兄のことが好きだった、不器用にしか生きられない兄のことが好きだった。上手くいかないことがあると背中を丸める兄を後ろから見ながら、この世界で兄の味方をしてあげられるのは、兄のことを一番に理解しているのは、自分だと自分だけだと自負していた。きっとこの先もずっと。兄は性懲りもなく誰かに恋をして、そしてまた予定調和的にひとりになるのだ、決まっていた。自分が自分だけが、どんなになっても兄の傍を離れないし、味方でいるのは明白だった。きっと堂嶋に会うまでは。 「おんなじなんかじゃないのよ、馬鹿にしないでよ、わたしが・・・」 「うん」 「私がどんな思いでお兄ちゃんを見ていたかなんて、堂嶋さんには分かりっこない・・・」 「うん、そうだね」 けれどそう言って頷く堂嶋には、何故か全部分かられているみたいで苦しかった。悔しかった。亜子は俯いてぼろぼろ頬を滑る涙を乱暴に手の甲で擦って消した。自分の感情がこんな風に簡単に揺さぶられるなんて思ってみてもいなかった。やはり自分は兄とは違うのだと思った。兄は多分誰かの前で涙を流して同情を請ったりできない、そんな簡単なことすら出来ない。悲しい時に悲しいと言うのも、苦しい時に苦しいと言うのも、そんな簡単で単純なことさえも兄は満足には出来ない。その湾曲した背中を撫でて、何度もひとりになる兄の傍に居ながら、もう誰かに愛されることなんて望まなければいいのにと亜子はずっと思っていた。恋するたびにどうせひとりになるくせに、そう思いながら決して兄にはそれを伝えずに、亜子はただ黙っていた。堂嶋に会うまでは、放って置いても兄は勝手に自爆をするから、手を回す必要など亜子にはなかった。ただ見守っていれば良かった。そしてひとりになった時、その背中を撫でてやれば良かった。堂嶋に会うまでは。 「おかしいでしょう、堂嶋さん、笑ってもいいのよ」 「・・・笑うって何を?」 「私のこと、笑ってもいいのよ」 亜子はそう言って唇の端を器用に持ち上げた。それで自嘲しているつもりなのだ、目にはまだ涙が溜まっているというのに。 「可笑しいのは男の人しか愛せないお兄ちゃんじゃないわ」 「お父さんにもお母さんにも、本当は、罵倒されなきゃいけないのは」 「お兄ちゃんが、血の繋がった実兄を」 「愛しているわたしなのよ」 掠れる声で亜子は言って、そう言って笑った。実に不器用な笑顔で。

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