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第25話

「泣かないでください、悟さん」 その時の鹿野目の声は静かで深くゆっくりとしていて、ぐちゃぐちゃな気持ちの堂嶋の鼓動の速さの前では、酷く遅く感じた。鹿野目がすっと堂嶋の目の前に膝をついて視線を下げた。それから堂嶋を見上げるようにして、手のひらで堂嶋の頬を擦って涙を拭った。 「ごめんなさい」 「でも本当に、悟さんが俺の傍にいることが、俺にとっては奇跡的で、自分でも時々信じられなくて、だからそれ以上のことは上手く考えることが出来なくて」 「ごめんなさい」 言いながら鹿野目はまた堂嶋の頬を指で拭った。もうそこは濡れてはいなかった。相変わらず優しい指先だった。ひくりと肩が揺れたけれど、もう涙は止まっていた。 「だからまた期待するなって言うのか、自分も期待しないから俺にもするなって」 「・・・さとりさん」 「俺は嫌だよ、鹿野くん。そんなの嫌だ、寂しい」 「・・・―――」 言いながらまた鼻の奥がつんとした。寂しい、口に出して思った。そうか、寂しかったのかと、長くは続かないと言われて、何も話してもらえなくて、きょうだいの間に自分の入る隙間がないように思えて、ずっとそうか、寂しかったのか、それがすとんと胸の内に落ちて、堂嶋はすっと口から息を吸った。すると反動みたいに目からぼろぼろ涙が零れて、それが床を濡らした。鹿野目は黙ってそれを見ていた、もう指で拭ってはくれなかった。堂嶋は左手で頬を拭った、両足で立っていなければいけなかった。誰かの腕など期待してはいけなかった、それが酷く寂しいことでも。やるしかなかった。 「鹿野くんとの関係は確かに成り行きだったし、俺は流されやすくて情に弱いところがあるよ、でも君とのことを決めたのは俺だよ、言ったよねあの時、君のことが好きだって。俺は確かにゲイじゃないからその辺のことはよく分かんないけど君とのことは一応それなりにちゃんと考えてるんだ、なのに当の君がそんなんじゃこんなこと全部無駄だって言われているみたいで虚しいよ。君が一方的に俺のことを好きなんじゃないんだ、もうそうじゃないんだ」 息を吸ったら肺がじくじく痛かった。 「嫌だよ、俺は。こんなに寂しいのに、離れるなんて嫌だよ」 「一緒に居たいよ」 俯いたらまたぼろっと大粒の涙が出てきた。拭おうと思って左手を上げたら、正面から出てきた手にぐいっと引かれて前につんのめって、そのまま鹿野目に抱き締められた。背骨の軋む音が聞こえるほど、きつく抱きしめられて痛いはずだったのになぜか安心していた。そっと鹿野目の肩に顔を寄せると、いつものように香水の匂いと、それから少し遅れてマルボロの匂いがした。 「ごめんなさい、悟さん」 「・・・うん」 「ごめんなさい」 目の奥がじんじんと痛かった。亜子になんて言えばいいのだろうと堂嶋は頭の隅でぼんやり思っていたが、幸せな体の痛みで半分くらいどうでもよかった。どうでもよくなっていた。今は痛いほどくっついていたかった。ひとつになんかなれなくたって、いつまで経っても異物同士でも良かった。良いと思えた。ひとつになったらきっとこんな風にお互いのことを抱き締めたりできなくなる、それはきっと寂しいことだ。すると急に鹿野目の腕が緩んで、ふたりの間に鹿野目が意図して作った隙間ができる。堂嶋はまだ濡れていた頬を、急に泣いていたことが恥ずかしくなって左手でごしごし擦った。 「悟さん、一度俺に何の夢を見ているのか聞いたことがあったでしょう」 「・・・あ・・・うん」 急に鹿野目が真剣な顔をしてそんなことを言い出して、堂嶋はその真摯な視線に少しだけ後ろめたく思った。堂嶋は亜子からその話を聞いてしまっているからだ。このタイミングでそんなことを言い出してくるあたり、多分鹿野目もそれが引っかかっていたのだろうなと思ったが、その話はもう知っているからいいよと言えなくて口ごもる。目を反らすことも出来ない。 「悟さんの夢を見ていたんです」 「・・・え?」 八代の夢を見てるんだわと、確かに亜子はそう言ったはずだった。堂嶋が目を見開いて鹿野目を見ると、鹿野目は少しだけ申し訳なさそうに瞬きをしてすっと視線を反らした。 「おれ、の?」 「はい、悟さんがさよならってこの部屋を出て行く夢を見ていました」 「・・・なに、それ・・・」 「でもそんな話をしたら重くてひくだろうなって思って隠していました、すいません」 言いながら鹿野目が俯いて、堂嶋は足から崩れるかと思った。鹿野目はずっとずっと昔の記憶に未だに縛られていて、それを自分はどうすることも出来ないのだと思った。実際に過去に起こったことに対して、堂嶋は最早どうすることも出来ない。鹿野目の心の傷が勝手に癒えてくれる日のことを待つことしかできないと、ずっとそう思っていた。思っていたけれど、鹿野目は堂嶋や亜子の推測とは全く別のことに悩まされていて、それに苦しめられていた。その正体が自分だというのが、また笑えない話ではあるが。鹿野目が俯いたまま視線を上げようとしないので、堂嶋は仕方なくその場にしゃがんで下から鹿野目のことを覗き込んだ。 「かのくん?」 「・・・すいません」 「謝んなくていいよ、言ってくれたら良かったのに」 「でも・・・」 ふっと視線が横に動いて、迷っているのが分かった。変なところで色々気を回したりするのだなとそれを見ながら、堂嶋は笑ってしまいそうになった。 「俺は出て行ったりしないから、大丈夫」 「・・・はい」 ようやく鹿野目が顔を上げて、堂嶋と目を合わせると、ゆっくり口角を上げた。 「悟さん」 「・・・な、に」 「俺も、一緒に居たい、ずっと」 「う、ん・・・」 堂嶋は何故か耳まで赤くなって上手く返事が出来なくて困って、鹿野目に抱き着いて半分くらい誤魔化した。時々鼻で馬鹿にしたように笑うことはあったけれど、こんな風に穏やかに笑顔になれるのは見たことがなかった。鹿野目の手が背中に回ってぎゅっと抱かれる。もう痛くはなかった。考えなければならい問題は、まだまだ山積みのままだったけれど、何となくそれも何とかなりそうと思えるような不思議な夜だった。

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