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第24話

「お帰りなさい」 その日、帰宅したのが10時を回っていた。扉を開けると出迎えてくれた、鹿野目は少し機嫌が良さそうに見えた。それに曖昧に笑って堂嶋は玄関で靴を脱いだ。寒さは日に日に深まっていって、これ以上ないくらいどこもかしこも冷え切っていたけれど、開けたリビングがオレンジ色の暖かな光に包まれていて、堂嶋はほっとした。ダイニングテーブルの上には鹿野目が作ったらしい鍋が手つかずのまま置いてあった。今まで食べずに待っていたのだろうか、そもそも今日鹿野目が退勤したのは何時頃だっただろう、堂嶋がぼんやり考えている間に、鹿野目がせかせかと動いて鍋の準備をしている。 「悟さん、今日ケーキ買って来たんです」 「え?」 「ご飯終わったら食べましょう」 鹿野目は時々ケーキを買ってくる。堂嶋が甘いものが好きなのを知っているからだ。買ってくると堂嶋が喜ぶのが分かっているから、だから今日はそれが嬉しくて機嫌が良さそうなんだなと堂嶋はぼんやり思った。そんな遠回りして喜んでいる鹿野目がかわいくてどうしようもないと思った。離れなければならないのに、離れる準備をしているのに、そういうことが全部無駄にされたみたいな気がした。 「いらない、ごめん」 「え?」 自分の声は暖かいオレンジ色のダイニングで酷く冷たく聞こえた。鹿野目が振り返って目を丸くしてこちらを見ている。何にも悪くはないのに、鹿野目を傷つけなければ動くことが出来ないことが悲しかった。悲しくて堂嶋は握った両手に力を込めた。そうして足を踏ん張って立っていなければならない、亜子との約束を守らなければならなかった。どうしても。 「疲れたから、俺もう寝るね、ごめん」 「・・・さとりさん」 半身になってバスルームに向かおうとすると、後ろから手を取られてそれだけのことで堂嶋は簡単に動けなくなる。鹿野目の手はいつものように少しだけ冷たかった。それにホッとしている自分もいて、無意味に苛々してしまう。振り返ると鹿野目はそこに立って堂嶋を見下ろしていた。 「なに」 「俺、何かしましたか」 「・・・なんで」 慌てて目を反らした。鹿野目がぐっと堂嶋の手首を握る手に力を込めたのが分かった。痛いくらいだった、涙が出るかと思った。 「何かしたなら言ってください」 「・・・なにも、ないよ、君の心配してるようなことは」 「俺の傍に居たくなくなったんなら、はやく言ってください」 「・・・―――」 後ろから鋭利なナイフで刺されたように痛かった。慌てて堂嶋は反らした目線を鹿野目に戻した。てっきり悲痛な顔をしているのだろうと半ば決めつけていたが、そこで鹿野目は酷い無表情で冷静でいるのだと思った。何で冷静にそんなことが言えるのだろうか、怖いと思って堂嶋は鹿野目から距離を取ろうとしたけれど、掴まれた腕はそのままだった。どうしようもない。 「俺、多分、そういうの気付けないし、多分上手く離れられないと思うから」 「・・・え?」 突然手首から鹿野目の体温が離れて、堂嶋はそれを目で追った。俯く鹿野目の瞳は堂嶋を見ている、真っ直ぐ見ている。いつかこの部屋で同じように見られたことがあった。穴が開いてしまいそうだと思うくらい、真っ直ぐ。堂嶋は唇を割ったが、何を言うつもりだったのか忘れた。微弱に震える指先を、丸め込んでぎゅっと握ってなかったことにすることが精一杯だった。 「俺は良いんです、本当に。悟さんがこんなに近くにいてくれて、名前を呼べば振り返って笑ってくれることとか全部、そういうこと全部、本当に奇跡的なことだと思っているので」 『お兄ちゃんに信仰みたいに深く愛されて嬉しかった?今までにないくらいの優越感だった?自己肯定感だった?』 亜子の声が頭の中でわんわんと響いた。 「俺はいつ終わってもいいと思っているので」 響いた。 「君は馬鹿か!」 気付いたら叫んでいた。自分でも大きな声が出て吃驚するくらいだったが、怒鳴られたもっと吃驚したようで鹿野目は目を見開いて堂嶋のことを見ている。握った手が震えていた。きつく噛んだ奥歯も震えていた。自分一人で考えて苦しかったのが馬鹿みたいで悲しかった。本当は声を上げて子どもみたいに泣いて、助けを求めていたかった。どうすることもできなかった。 「どうせこんなこと長く続かないって思っているんだろう!」 「・・・―――」 鹿野目が離れるつもりでいるのなら、堂嶋はきっとその方が自分にとっては好都合だった。だって堂嶋だって一緒にはいられないと思っていたのだから。けれど何故なのだろう、そこで鹿野目がいつ終わってもいいと言った時、心臓がぎゅっと痛くて痛くて、鹿野目が亜子に向かって長くなんて続かないと言ったのを聞いてしまった時みたいに、痛くて痛くてどうしようもなかった。 「だって、悟さん・・・」 「君はまた、そんなことをひとりで、勝手に!」 「・・・―――」 どうしようもなくて分かった。もうとっくに手遅れなのだと。咲に別れ話をされた時も思ったけれど、もうとっくに手遅れなのだ。堂嶋は離れることが出来ない、帰るとちゃんと温かいオレンジの光がついているこの部屋からも、触ると少しだけ冷たくて握っているとちゃんと温かくなる鹿野目の手からも、眠っている時と髪の毛が濡れている時は幼く見える鹿野目からも、堂嶋が喜ぶと思って遠回りして勝手にひとりで浮かれている鹿野目からも、そして弱気に目を伏せて怯えて何も言わない鹿野目からも、堂嶋はもう離れることなんてできない。自分で分かっていたから、鹿野目が離れる未来を想定していることに傷ついた、堂嶋は文字通りそれに傷ついていた。手遅れなのだと思った。そんなことに傷つくことのできる自分は、もう手遅れなのだと思うしかなかった。亜子の話を聞いてそんな権利が自分にあるのかどうか分からなくなってしまった、余計に。 「君は馬鹿だ、鹿野くん」 「・・・さとりさん」 「馬鹿で酷いやつだ」 「・・・―――」 痛くて涙が出た。

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