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第5話

 最近湊の顔色が悪い。心配で声を掛けても「大丈夫だから」と何も言ってくれない。一緒に行動しようとしても、最近避けられているような気すらする。それでも捕まえて一緒にいるのだが。先輩からも「湊のやつ何かあったのか」と聞かれるので先輩からも距離をおいてるらしい。  所属するゼミの先生の講義で、レポートに必要なアンケートを学生達に配って回答してもらってくる、と出掛けていった湊を大学内にあるコンビニ前の飲食スペースで座って待っている。心理コースはこういうアンケートを取ってそれを元に書くレポートばかりらしい。本や現地調査やネットで調べて書く文学コースとはえらい違いだ。しかも、そのアンケートの枚数もかなりあるので、回答者探しに苦労しているらしい。現在の湊のように先生が担当している講義中に、その講義を受けている学生にアンケートを配って答えてもらったり、講義がなくてくつろいでいる学生に「アンケートに答えてもらっていいですか」と話しかけて答えてもらうことでアンケートを片付けているらしい。大変そうだ。  以上、心理系の講義を一年で必修だったもの以外取ってないので、全部湊からの受け売りである。 「…雪哉。」 「うおおおおびっくりした!!」  ぼうっとしたままコンビニに出入りをする人を見てたので、後ろから声を掛けられただけで必要以上に驚いてしまった。 「お、おかえり。」 「…うん。」  まだ多少バクバクしている心臓を落ち着けながら声を掛ける。顔を見ると、湊の表情は暗い。 「どうした?…何かあったのか?」  横の椅子に座るように促し、下を向いたままの湊にゆっくり声を掛ける。僅かに此方を見てから座った湊は、はああああ、と大きな溜め息をついた。 「……っくそ。」  そのまま肘を机に乗せて両手で顔を覆い隠してしまった。これは確実に何かあったに違いない。何度も、くそっ、くそっと舌打ちしながらうめいている。 「…………さっきさあ。」 「!お、おう。」  声がいつも以上に低い。湊を見つめていたら突然口を開いてきた。 「アンケートを配るからって僕が教室入った瞬間から変な雰囲気になって、とりあえず配ったんだけど返ってきたのは全部真面目に回答なんて書かれてなくてさ、それを先生に言ったらさ、言ったらさ………何て返ってきたと思う?」  手から顔を上げて、此方を見てきた。その目は潤んでいる。 「真面目に回答されてなかったんだろ?それを聞いて了承して学生に注意したんじゃないのか?」  常識的に考えてこうだろう、と答えると、湊の顔がくしゃっと歪み、首をブンブン振った。目尻に涙が滲んでこぼれそうだ。 「あなたが良くないことばかりしてるからですよ。あまり言いたくないけれど火遊びはほどほどにしなさい。」 「………は?」 「…って言われた。」 「いや、それ…つまり…。」 「先生まであんな出鱈目な噂信じてるんですかって怒鳴ってアンケート用紙そのままにしてここまで来ちゃった。」  はああああもう嫌だああああ、と叫んで湊は机に突っ伏した。  つまり、教師はアンケートを真面目に回答しなかった学生達ではなく、湊の方が悪いと断言したという事か。噂は先生達にも広まっているらしい。しかも、よりにもよって湊の所属ゼミの先生が信じてしまっている。信じてしまっているとしても、その対応は如何なものか…。噂は嘘八百であるし、百パーセント真面目に回答しなかった学生達の方が悪い。 「………アンケート回収がてら、先生に事情説明に行くか?」 「あのくそ教師の顔見たくない。」  もごもごこもった声で、拒否を示した。 「………………大学、辞めたいなあ。」  ぼそり、と聞こえた声にぎょっとする。 「あんな状態じゃ僕にまともに単位くれるとは思えないし、辞めるか、一、二年くらい休んでほとぼり冷めてから戻るとか、……どうかなって。」  どう返したらいいのかわからず慌ててしまう。その間にも湊はぽつぽつと語っている。 「なんだか最近周りが変だし、何にも上手くいかないし、どうしたらいいかわかんないんだ。」  憔悴しきった声で、そう言ってから湊は顔を上げて此方を見た。湊はにこっと微笑む。それに少したじろぐ。 「ねえ雪哉、好きだよ。」 「えっ……い、いつも突然言うよな、脈絡無く。そんなのわかってるよ。」  突然、何なんだ本当に。先程までの話とそれに関係性が見出だせない。  あはは、やっぱり伝わんないか…と言う湊に、罪悪感で何も言えなくなってしまった。黙っている事しか出来ない。下手な事を言うと、湊をいっそう傷つけてしまうんじゃないかと思う。 「…。」  その日はその後も、会話らしい会話をせずに別れた。  湊の風評は悪化していく一方だった。いったいどうしてそこまで悪くなるのかわからない程。友田から聞いた噂では、湊によく似た人物がおじさんとホテルに入ったとかなんとか、直接的な所まで言われ始めてしまっている。 「よく似た、だろ湊じゃない。」  どれもこれも、よく似た人が、そっくりな人が、背格好が似てる人が、遠目で見たとか、断定されてないのに湊だと決めつけられてしまっている。大学なんて人が沢山いるのだから、四年通っても一度も関わらない人や顔も名前も知らない人がいるのは当たり前だと思う。それなのに、湊の事は学生全体、いや先生も含めて大学全体に広がってしまっている。どうすればいいんだ、これは。  大学から離れた、人もあまり来ない小さな公園で俺は湊を呼び出した。公園と言っても遊具は無い。有るのは噴水とベンチ、街頭、自販機くらいだ。…人が来ないのはそこに理由がある気がしないでもない。晴れていて、少し風はあるが上着を着ていればそこまで寒くない。そこのベンチの一つに腰掛けて、見るからに弱っている湊に先程買ったコーヒーを渡す。 「……………。」  湊は無言で受け取った。カシュ、とキャップを開けてこくこくと飲んでくれた。 「……話って、何かな。」  弱々しい笑顔で尋ねてきた。いつも俺の横を雪哉雪哉と騒がしくついてきた姿は見る影もない。それに少しばかり悲しくなる。 「今の現状の事なんだが…休学について、大学の事務に聞いてきた。」 「…休学?」 「前言ってただろ。一、二年程休みたいって。出来るかどうか聞いてきたんだ。」  ああ、あれか、と湊は他人事のように呟いた。此方を見る湊の目が、どこか冷めたように感じるのは気のせいだろうか。 「結論から言うと、出来るかもしれない。何か資格を取得する為、長期インターンに参加する為、海外留学…つまりスキルを身に付けたい、そういう前向きな理由なら許可が出るらしいんだ。」  鞄から、事務からもらってきた休学制度に関する資料を出して湊に差し出す。それを少し眺めた後、手に取った。じ、と見た後ゆっくりペラ、ペラ、とめくっている。 「…わざわざありがとう。資料も…。」  湊は資料を見ながらぽつりとお礼を言った。それに親指を立てて、「いいってことよ。」と返す。 「例えばプログラミングスキルを身に付けたい、じゃあエンジニアの長期インターンに参加しよう、参加したいから休学させてください、とかな。」  何かないか調べておいた中でも、例が多かったエンジニアの長期インターンを話題に出す。これは本当に多かったしオススメされていた。 「まあエンジニアの長期インターンとか、経験者じゃないと基本雇ってくれないし、もう少し現実味のある実務が必要となる資格を取りたいって言えばどうにか、」 「……………………雪哉っ。」  突然名前を呼ばれて、驚いて口を止める。目をぱちぱちしてから 「ど、どうした?何かわかんない事あったか…?」 と恐る恐る聞く。湊は資料を膝の上に持ちながら置き、顔をうつ向かせぷるぷると震えていた。もしかして泣いてるのか?慌てて背中をさする。  良かれと思ってやった事だったが、良くなかったのだろうか。さらに湊を追い詰めてしまったのか、やはり本人の許可無く勝手に調べて持ってきたのはよくなかったか。 「雪哉。」 「はい。」  パッと背中をさすっていた手を離す。その手を自分の方に戻す前に湊の両手で掴まれる。いつの間にか上げていた湊の顔は、眉を下げ、目を細め、何かをこらえるように口をへの字に結んでいた。何かを期待するような、諦めているような、必死な想いが伝わってきて、無意識に後退りしてしまう。  それを逃がすまいとしてか、手を握る力が強くなる。視線をさ迷わせるが、その力に引かれて湊に視線を合わせる。湊の口角が笑みの形になろうと歪んでいくが、笑おうとしてるのか泣こうとしているのか、どちらとも取れる表情になっていくのがよく見えた。 「僕、雪哉の事、本当に好きだよ。その意味、わかってくれる?」  ……いつもの、やり取りだ。今までにだって何回も言われている。 「わか、………。」  いつも通り返そうとするが、喋ろうとすると何かが違う、と違和感によって口が上手く回らなくなる。あ、の形で口が動かなくなった。  俺はいったい何を怖がっているんだ。湊の純粋な好意を伝えられてるんだ、いつも通り受け止めればいい。今までだってそうだったじゃないか。  しかし、なんだこのそれだけはしちゃいけない、という危機感は。早く答えろ、という焦燥感とその危機感で嫌な汗が流れる。一秒一秒が早い、いや遅い?時間の感覚もおかしい、感覚もぐるぐるとまるで目が回っているかのように定まらない。  どうしよう、どうしよう、焦って頭が働かない、早くしなければ、でも本当に良いのか、嫌な予感がする、でもこれ以上待たせてはおかしい。  ぐるぐるとした思考の中、危機感をふりきるように 「わ、か、……って、るよ。」  答えてしまった。ダメだと止めていた俺がいたのに。湊の表情の変化を見逃したくなくて、じっと顔を見る。徐々に目を見開いて、 「わかってないッ!!」 俺の答えを聞いた湊は、それまでの消沈した様子から一変、激昂した。瞬時に悟る、これは選択を間違えたと。さらに手に力が込められ、痛みが生じてきた。 「だって雪哉は僕とずっと一緒にはいてくれないでしょう!?」  手の痛みに耐え、なんとかして湊を落ち着かせようと一所懸命言葉を紡ぐ。 「いる!何かあったら助けになるし、遊びに行ったり飲みに行ったり、よぼよぼのじいさんになってもずっと一緒にいたいと俺は思ってる!」  それを聞いた湊から表情が消えた。 「じゃあ、僕と付き合って結婚してよ。」 「……………………え。」  何にも期待してない、完全に見限った。そんな感情が目から伝わってくる。そんな状態で伝えられた言葉に、絶句した。 「ほらね!全然わかってない!僕が言ってるずっとはそういうことだよ!!」  掴まれていた手を勢いよく離された。それに何の抵抗も出来ない。 「い、いや待ってくれ。それ嘘だったんだろ?先輩を引き離す為の。」  手がヒリヒリする。心臓がバクバクと忙しなく鼓動を打っている。 「全部嘘だなんて、言ってない。その後だって何度も伝えてたよ。」 「そ、れは………そうだが。ふ、普通、思わないだろ、そんな意味だったなんて。」 「普通?………普通普通普通普通普通!!それ僕一番嫌いな言葉だよ!!普通じゃなくて何が悪いの!?」 「おち、落ち着けよ湊…!」  ベンチから湊が立ち上がる。膝に乗っていた資料がバサバサと地面に広がり落ちた。湊が髪を掻きむしり、頭をふり、狂乱する。指の先に血がついているのが見えた。 「じゃあいいよ、雪哉は普通に女の人と結婚しても。でもずっと僕と一緒にいてくれるんでしょう?なら当然、お嫁さんや子供より俺を優先してくれるでしょ?」  ピタッと動きを止め、顔を上げた。ボサボサの髪の間から涙に濡れた目がのぞく。居心地の悪さから、ベンチの背もたれに背中を完全にくっつけ、湊から距離を取ろうとしてしまった。それに湊の目が傷ついたように歪んで、涙が頬を流れていった。 「…………出来ないでしょッ!!」  右手が大きく体の前から横へと振られる。地面に落ちた資料が湊に踏まれてどんどん汚れて歪んでいく。ああ、折角湊の為に持ってきた物だったのに。  目の前の様子のおかしい湊を見て、悲しいと同時に別の感情が芽生えていた。  何がだ?怒りだ。  誰に対しての怒りだ?…湊?  違う。…何が違う。  俺は湊を変えた誰かに対して怒りを覚えているんだ。しかし、 「お前、ちょっと…おかしいぞ。いくらここ最近色々あったとは言え、さっきから脈絡が無かったり突然叫んだり…俺が知らない所で何があったんだよ!」  それを冷静に伝えられる程、今の俺は平静を保ってはいなかった。いったい誰が、誰が、誰が?噂をここまで歪めて湊を苦しめた奴は誰なんだ?  ベンチから立ち上がり、湊の右手を掴む。それに力を込めながら、焦点が合ってない湊の目をじっと睨み付ける。湊の眼球はぐるぐると動き回っており、それが俺を捉えるとまた怒りに染まる。 「おかしいだって!?やっぱりそうなんだ、雪哉は僕をおかしいと思ってたんだ!!ずっと一緒にいるなんて嘘っぱちだッ!」 「嘘じゃない!!」 「僕と一緒になるつもりなんて無いくせに、期待させるような事言うなッ!!」 「俺の話をちゃんと聞いてくれ、何があったんだよ!?」 「うるさいうるさいうるさい!!」  手を振り払われる。また頭を掻きむしる湊にもどかしい気持ちが沸々と沸き上がる。何を言っても言葉の一部しか伝わっていないのか、本当に聞きたい事の答えが返ってこない。湊自身に苛つきなど覚えたくないのに、嫌な感情がじわじわと自分を包んでいくのがわかる。  落ち着け、落ち着けよ俺。ここで湊に対して怒ったって何にも解決しない。それどころか俺達の間に確実に亀裂が入ってしまう。そんなのは嫌だ。  必死に、冷静に努めて必死に湊に訴えかける。 「二人の間に齟齬があったのはわかった、でもいつもならもっと冷静に話し合えただろ?何があったんだよ…!」 「ううう、ううううあああああ!!」  湊の目からボロボロ、ボロボロと涙がどんどん溢れていく。それを見つめながら、ゆっくり、ゆっくり、近づいていく。刺激しないように。 「湊…。」  もう少しで触れあえる距離だ。湊は下を向いて顔を手で覆って泣いている。正面からになってしまうが、背中に手を回してさすって落ち着かせよう。大丈夫だ、まだ間に合う筈だ。湊が落ち着いてくれれば、すぐに元通りになる筈だ。 「俺も悪かったよ、な?ちゃんと二人で話して落としどころを…。」  友人でもこういう時は抱き締めるのもありだろう。一応人がいないか周りを見てから、とキョロキョロと見渡す。誰もいない。肩に湊の顔を押し付けるようにして、背中に手を回す。そのまま、ポンポンと背中を叩きながら落ち着かせようとした。 「……だって、でも、………先輩は違うって、女の人は選ばないって、………ほんとにずっと僕と一緒にいてくれるって。」 「は…?」  手が止まった。今何て言った?少しくぐもっている湊の声を聞こうと耳をすませる。 「やっぱり、やっぱり……。」  ぶつぶつと言っている為聞こえづらいがなんとか聞こえる。 「先輩…?先輩って、新垣先輩か?」 「先輩の言う通りだった、雪哉は僕を選んでなんてくれなかった、もう無理だ…。」 「どういう事だよ、先輩が何言ったんだ?」 「もう疲れた…きっと僕には先輩しか…。」  此方の声が聞こえていないのか無視しているのか、聞いても答えてくれない。 「湊、おいって。」  とん、と胸を押された。全く予想していなかったのでよろけて転びそうになる。なんとかバランスをとって踏ん張る。少し離れてしまった。「湊…?」と恐る恐る湊の方を見る。激昂している様子も、号泣している様子もない。  涙は止まっていないらしく、ずず、と鼻をすすり、目を擦っている。しかし、落ち着いてはいるようだ。…そうだよな? 「……………雪哉、もう一度だけ聞かせて。僕と付き合って結婚してはくれないの?」  顔を伏せている為、湊の表情は見えない。声を掛けられて、考える。ここで嘘をついて、湊を引き留める事は…出来るだろう。だがしかし、それで良いのか。俺が湊に対して本当に抱いている気持ちはなんだ。友情か?恋情か?はたまた別の感情か?  湊と付き合う、結婚する。それが俺に出来るのか?湊と出掛けるのも暮らすのも、出来るだろう。では恋人のように振る舞えるのか? (…………でき、ない。)  俺は湊の恋人になりたい訳じゃない。ずっと一緒にいたいだけだ。これをイコールで考えるのが普通なのだろうが、どうしても自分の中では結び付かない。ここで、その気持ちに嘘をついて湊の望み通りにしても、………それは長続きなんてしないだろう。  湊にしっかり向き合う。深呼吸して、自分の抱いている気持ちを全て言葉にする覚悟をきめた。 「俺はお前とは付き合えない。」  湊が息を呑んだのがわかった。 「お前の事は大事だけどそれは友達として、いや親友としてだ。これからもずっと仲良くしていたい。俺にとってお前はもう人生の一部なんだ。これからも一緒に遊んで、バカやって、助け合っていきたい。それじゃ、ダメなのか?」  湊が、顔を上げる。寂しそうな笑顔を浮かべていた。 「…そっか。ごめんね、それじゃダメなんだ。きっとここで妥協して、また友達として仲良くする事になったら、いずれ必ず俺が…壊れちゃうよ。」  俺と同じ結論に至ったんだとわかった。これは、どちらかがどちらかに合わせても必ず瓦解してしまう。俺が湊に合わせたら俺が、湊が俺に合わせたら湊が、苦しくなって離れてしまうのだろう。 「今だって、雪哉の事が好きなのに、憎くて憎くて仕方がなくなってきちゃったんだ。」 「湊…。」 「決めたよ、僕。暫く、大学も休んで……雪哉とも会わない。」 「!」  湊がベンチの側に放り投げてあった荷物を拾う。俺は動けなかった。湊の動作を見てる事しか出来なかった。 「じゃあね。………またいつか、色々整理がついたら、会いたいな。」  公園から去っていく。その背中を見ている。  追いかけて止めようとは思えなかった。俺も湊もお互いの本音をぶつけて、それで相容れないとわかったんだ。ここで止めても、結局は平行線だ。ただ時間だけが過ぎる、結論は変わらない。  湊の背中が見えなくなったのを確認してから、ベンチにどさ、と座った。背凭れに完全にもたれかかり、空を見る。雲が殆どない。今夜は星や月が綺麗に見えそうだ。一人で酒でも飲んで夜の街を空を見ながら歩きたいな。  暗くなるまで、ずっとなにをするでもなく、じっと座っていた。  次の日から、湊は大学に来なくなった。  湊がいなくなってから、噂は一時期また盛り上がりを見せたが、渦中の本人がいないからか徐々に沈静化しているように思う。元から減ってはいたが、俺を見ながらひそひそこそこそとしている人達も見かけなくなった。  大学ではずっと湊と行動を共にしていたので、今は一人だ。たまに友田と食事や世間話をするくらいで、あまり人と関わっていなかった。…新垣先輩とも。学内でばったり会うまで。 「先輩。」 「雪哉か。なんだか久しぶりだな。」  そういえばいつぶりだろうか。なんだかここのところずっとぼうっとしていた気がして、今日が何日、何曜日かもずっと確認していない。レポートは無かっただろうか、何かしら忘れていそうだなと思うが危機感も焦燥感も無い。…疲れているんだろうか。 (ああそうだ、先輩に聞きたかった事があったんだ。)  まだ少しぼうっとする頭で思い出す。 「あの、先輩。湊の、事なんですが。」  先輩の表情は読めない。  湊との最後の会話で、先輩に何か言われたような事を言っていた。会うつもりはなかったが、どうしても気になって、何日前かわからないが、湊のマンションに訪れた。その時部屋は既に空き部屋になっていた。もう湊はあそこにいない。あの状態の湊が頼るとしたら、先輩しかいない。 「湊は今先輩の所にいるんですよね。」  先輩は僅かに目を見開いた後、ふ、とわらった。 「誤魔化そうかと思ったが、その必要は無さそうだな。」  当たっていたらしい。 「湊の様子はどうですか。」  最後に会った時の何もかも諦めて疲れて、僅かに絶望した表情が頭から離れなかった。俺が傍にいないんだ、まだ暗いままかもしれない。湊の意思も尊重したいし、あそこまで話し合って今のかたちになったんだ、慰めに会いたいと思っても実行しようとは思わない。ただ、様子が知りたい。それだけだった。 「まあ以前のような快活さは見られないが、徐々に元気になってるぞ。」 「…………元気に?」  元気になっている。…元気になっている?  がつん、と頭を殴られたような衝撃があった。想定外、想定外だ。驚きで、何も考えられなくなった。表情筋も固くなって、顔も手も何もかもうまく動かせない。なんとか動く唇をわなわなとさせて、目の焦点が合わずキョロキョロと眼球を動かす。 「ああ。何か伝言があれば伝えるが。」 「……。」  先輩が何か言っている。…伝言?湊に伝えたい事があるかって事か?  ごくん、と唾を飲み込んで 「い、え…大丈夫、です。」 なんとか言葉を絞り出す。そうしなければ喋れなかった。 「そうか。何かあったらいつでも言いに来い。友人二人が仲違いしたままなのは悲しいからな。また三人で仲良くしたいものだ。」  その言葉に、何故か、怒りが沸いてきた。  何かがおかしい。そもそも、俺達がここまで仲違いしたのは何故なんだ。あそこまで湊の精神状態が限界で無ければ、もっと時間があれば。それ以前にあの噂が蔓延しなければ、こんなに早くお互いの気持ちに限界が来て離れる事も無かった筈だ。きっかけはなんだ。  どこかで何かが働きをかけて、こうなるように、誘導させられた…?  ただの推測だ。確信は無い。全てが全て証拠もないふわふわとした推測にすぎない。  しかし、あの湊の様子、以前聞いた話とどうしても結びつけて考えてしまう。先輩が告白を撤回する時に話した本音。あれが本当に実行されたのだとしたら、きっかけ、いや働きかけた何かは先輩なのでは、と考えてしまった。…しかし、そこまで考えてこんなに時間もかかる大掛かりな事、するか?確かに言ってはいた。しかし、どう頑張っても運任せな所や、その人の動き次第な所もある。普通に考えればあり得ない。 「どうした?」 「…………いえ、何も。」  怒りはある。しかし、この場で先輩に詰め寄って真実を確かめても、結果は何も変わらない。早まっただけなんだ、結局は。いずれ、お互いの気持ちの差異で限界が来てたんだ。そうなんだ。…そうなんだ。 「俺は次に講義があるのでそろそろ失礼しますね。」 「ん?ああ。またな。今度飲みにでも行こう。」 「あはは、良いですね。また連絡してください。」  気持ちがごちゃごちゃになって爆発しそうなのをなんとか取り繕って先輩と別れた。  自分が怒っているのか、悲しんでいるのか、諦めているのか、わからない。なんだか頭がすっきりしない。……なんだろう。 「仁田、お前大丈夫か?」  大学でほぼ一人で過ごすようになったある日の昼食中、いつかと同じように友田が声を掛けて前に座ってきた。 「……大丈夫って、何が?」 「顔色も悪いし、ずっと表情が暗い。」  そうだろうか。ここ最近、というか先輩と話してから頭の中がぐるぐると乱雑に入り混じった感じが強くて、それを整理しようとずっと何かを考えていた。何をしていても。そういえば、声を出した事自体久しぶりだ。 「なあ友田、ちょっと聞いてくれないか。俺ずっと誰とも会話らしい会話してなくてさ、話がしたいんだよ。」 「良いけど…?」  怪訝な顔をしたが了承してくれた友田にありがとうと伝える。さてどこから話そうか。湊の事からかな。 「ちょっと前にさ、湊と仲違いしたんだ。湊がああ言うならしょうがないか……って俺なりに納得してさ、すごい嫌だったけど、あの日は引き止めなかったんだよ。」 「え、うん!?」 「でもさ、先輩から湊の様子を聞かされてさ、その後くらいからかな、なんかずっと、おかしいんだよ。」  そうだ、一番引っ掛かったのはそこなんだ。 「湊が俺がいないのに幸せそう?俺がいないのに?何で?」 「………えっと、仁田…?」 「ん?」  友田からストップがかかった。少し気分が高まってきていた為、出鼻を挫かれたが、久々に話せる事が嬉しくて、特に気分も悪くならなかった。 「あの日とかちょっと、わかんないからさ、その、もうちょっと詳しく色々教えてくれないか…?」  なるほど。確かにいきなり過ぎたか。時計を見ると時間は十二時半、三限があるならぼちぼち片付けて向かわなければならない。 「いいよ。友田、三限は取ってるか?」 「取ってないぞ。」 「じゃあじっくり話せるな。」  ではあと二時間くらいは時間がある。食堂は二時まで開いているし充分だろう。俺はここ最近の出来事をかいつまんで友田に語った。 「つまり…先輩は井ノ上が好きで、でも井ノ上が好きなのは仁田だったって事か。」 「ああそうだよ、湊は俺が好きだって言ってたんだ。それはもう決まりきった事で当たり前の事で、未来永劫変わらない筈だったんだ!それを、それが、先輩のせいで…!!」  話しているうちに、ここ最近のストレスもあってここにはいない先輩への怒りもあってどんどん気持ちがエスカレートしていった。 「お、落ち着けよ。」 「湊が俺以外を好きになるなんて、あり得ないと思ってたのに!!」  言いながらずっと考えていた、自分の本当の気持ちが吐き出されていくのがわかった。わかっていても止められない事も。 「つまり仁田も井ノ上の事好きだったのか?」 「いや、俺は湊の事はそうは見れなかったけど、湊には俺しか見ていて欲しくなかったんだよ。ずっと一人で、ずっと俺しか見ていない、そんな湊を一生支えて、一生お互いバカやって、それで最期を迎えたかったんだよ!!最高の友人として!!」  机をダンッと叩く。 「…………え、ええ………。ごめん、ちょっと待って。」 「湊には恋なんて必要ない、不純物はいらない、湊は一人で完成している芸術品だったんだ…俺だけが変化を与えられる、芸術品だったんだ…。」  止まらない止まらない。どんどん溢れてくる。 「先輩が湊の事好きになったって事も、本当は嫌だったんだ。そうか、ずっともやもやしたりイライラしてたのは嫌だったからなんだ…。」 「ほんと待ってくれ、お前そんな奴だったか…?申し訳ないんだけどさっきから言ってる事がよく理解出来なくて。」  俺の勢いと言葉の内容に引いている反応が返ってきているのはわかっているが、止まらなかった。言いながら、ああそうかそうだったのかと冷静な自分が納得していく。 「ああ、畜生、畜生、こんな、こんな事、自覚したくなかった、普通の人間で普通の感性を持って普通に生きていたかったのに……。」  そうだ、ずっと俺は普通なんだと思ってた。特に突出した所も欠落している所もない、平々凡々な人間なんだと思っていた。これの何処が平凡だ。我ながら笑える。  気づくと、昼休みが終わったのもあって周りに人はほとんどいなくなっていた。かなり大声で色々とぶちまけてしまったけど、大丈夫だろうか。……今更か。 「お前そんなクソデカ感情隠してたんだな………しかもこうなるまで自覚してなかったのか。」  今振り返ってみれば自分で自分の言動に違和感を覚える所もあるだろうが、気づいていなかったのは間違いない。素直に頷く。 「そんなおっもい感情なのに恋情が一切混じってないなんて、仁田も大概歪んでるよ。三人仲良く全員揃って、俺から見たら狂人だ。」 「………やっぱり俺おかしいか?」 「うん。普通親友だとしてもそこまではいかないと思う。少なくとも俺はそうはならない。」  友田は真顔で言った。ここまで聞いて逃げないだけ友田は良い奴なんだろう。  お茶を一口飲んでから、友田は「んー…。」と軽くうなった。俺も喋りすぎて喉が痛い気がする。飲んでおこう。 「……先輩の家にいるならさ、頼んで会いに行ったりしたらどうだ?SNSとかは?」  湯呑みを置いて、わざとらしく肩をすくめる。 「そりゃ会いたいよ。一番の親友なんだから。因みにSNSはアカウント消されてたよ。」  あの公園での出来事の後、湊とのトークを振り返ろうとSNSを開いたら、トーク履歴は残っていたがアカウントはUNKNOWNになっていた。連絡は全てそのSNSで行っていた為、それが無いと何も出来ない。携帯の電話番号も実は知らない。聞いておけばよかったと後悔しても遅い。いや、知っていたとしてもSNSのアカウントと同じように消されているか変更されてしまっていたかもしれない。 「でもさ、言いたい事はあの時伝えて、それでダメだったんだ。今会いに行っても何も変わらないさ。ああ、何で俺は湊の事を恋情混じりで見れないんだろう。」  見れたなら、もっと話は簡単だった。 「見れたなら湊の気持ちがちゃんと理解出来た筈なのに。」  机に肘をついて片手で目元を覆う。  恋愛感情がわからない…訳では無いと思うのだが。好きな人は出来た事ある。しかし、湊に向けるより大きな感情は無かったかもしれない。…自分の中で恋情より友情の方が重要視されているのか?  湊が俺に向けていた恋情と同質量の恋情を、抱いた事はない。友情なら同質量かそれ以上の自信があるのだが。 「なあ、本当に恋情は無いのか?」  思考していると友田が聞いてきた。恋情か。 「恋情って、キスしたいとか、抱きたいとかそういう気持ちがあるんだろう?……湊とそれをしたいとは俺は思えなかったんだ。湊が他の誰かと恋仲になるのはとても嫌だけど、自分が湊と恋仲になるのは……何か違った。ただ、ずっと俺だけの湊でいて欲しかったんだ。」  本当にただそれだけだ。 「もっと俗的な言い方をするなら、湊に欲情した事はない…かな。」 「お、おう、そうか。」  友田が少し顔を赤くした。欲情という言葉に照れたらしい。それをニヤニヤと見つめていると、友田はわざとらしく咳をした。 「なんというか、酷く純粋な友情って時には歪んで見えるんだなって、思ったよ。」  友田をからかっていると、すとん、と自分の中に落ちる言葉が返ってきた。酷く純粋な友情か…。 「これって三角関係とは、言えないよなあ。」  そうだな、と冷静な自分が頷いた。 「蛇足なんだが。ここまで話を聞いてさ、ここ最近の俺達の噂関連からの出来事、……先輩の仕業だと思うか?」 「うーん、そうだな……噂の発生とその悪化の原因が二つとも先輩の行動だって考えると怪しいとは思うし、なにより本人から事前にカミングアウトがあったんだろ?充分あり得ると思うけど…。」 「けど?」 「そんなうまくいくかわかんない大掛かりな事、普通するか?」 「やっぱりそう思うよなあ。」  それをするから狂人なのかもしれないが。 「………ふう、ありがとう。話聞いてもらったら久しぶりになんだかすっきりしたよ。」 「お、おう。俺はなんだかお腹いっぱいになったよ…。」  人に話した事で、ずっと頭の中でぐるぐる回っていた思考がまとまって、自分の気持ちも自覚出来た。んーっと背伸びをする。 「先輩が何かしてたなら凄く怒りが沸くし、今すぐにでも殴りに行きたいけど…結局は早まっただけなんだよ。俺か湊の気持ちがどちらかと同じになら無い限り、終わりは今と同じなんだ。」  自分のお盆の上に、友田のお盆と食器も乗せて持って立ち上がる。え、と驚いた友田が立ち上がろうとするがそれを制して片付けに行った。立ち上がって周りを見てみると俺達以外にはテレビの近くに数人いるかぐらいしか人がいなかった。  お盆を置いて席に戻る。時間的にそろそろ移動しないと食堂が閉まってしまう。 「今は気持ちの整理と大学生活に尽力するよ。未来で会えた時にもっと普通の気持ちで湊と友人としていられるように。」  閉まっちゃうから行こうか、と声を掛けて友田と一緒に立って出口まで歩く。色々と巻き込んでしまって、誰も知らない俺の内面まで見せてしまった。恐らくもう誰にも話さないだろう。湊以上に想いを抱ける相手も現れないだろう。 「俺も今回の件は無関係って訳じゃないし、今みたいに話聞くとかなら出来るから、また爆発しそうになったら言えよ。」  思わず立ち止まった。少し先に進んだ友田が俺がついてこない事に気づいたのか止まって振り返る。 「あ、あれ、見捨てないでくれるのか。嫌われるかなと思ってた。」  あれだけの気持ちをぶちまけたのだ。関わるのは止した方がいい、と距離を置かれるかもしれないと不安はあった。  平気そうにあっけらかんと言ったつもりだが、表情が取り繕えない。正直大事な友人を一人失ったばかりだったのでもし友田にまで嫌われたら本格的に立ち直れなくなる所だった、その不安を見抜かれたのか、と動揺してしまう。 「正直結構ドン引きしたけど友達やめるつもりはねーよ。安心しろ。」  ……本当に良い奴である。なんでもないようにそう言ってくれる事がどれだけ有り難いことか。 「湊が戻ってきたら俺にも知らせろよ。」 「勿論。」  また二人で歩きだして次の講義に向かう。歩きながら、湊と再会するとしたら、湊の気持ちが俺と同じになった時なんだろうな、とぼんやり思った。 「とりあえず今度会った時とかにでも先輩の事は殴ろうかと思う。事前カミングアウトの時抑えろって言っただろうがって。」 「傷害事件になるわ…。」

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