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序章1-1

「……おい霧島、聞いているのか?」  目の前のプリントを持った男に怪訝な声で言われ、霧島想悟(きりしまそうご)ははたと我に返った。  今朝は確か、朝礼の後に教頭から今週末のPTA役員会の説明を聞いていた気がするが、どうにもその内容は記憶から抜け落ちている。途中から耳に入らなくなってしまっていたらしい。  周りを見渡せば、これから授業の準備をする教員達も何事かと不思議そうにこちらを見ていた。 「あっ……。ええと、何の話をしていたんでしたっけ」  この明皇学園高等科で三十八歳にして教頭を務めるエリート、新堂直正(しんどうなおまさ)は、一瞬面食らったような顔をし、深々とため息を吐いた。 「だから──。ふぅ……まあいい、お前がそんな風にうわの空でいるだなんて、珍しいことがあったものだ。いったいどうしたというんだ? 疲れでも溜まっているのか?」 「いえ……あぁ、いや……そんなところです」 「……本当に疲れていそうだから今回は私も目を瞑るが、教師とは想像以上に体力と気力を使う仕事だぞ? くれぐれも体調管理は怠らないように。ひとまず役員会については、そのプリントをよく見ておいてくれ」 「……はい。すみません、新堂先生」  ぺこりと頭を下げる想悟に、新堂は腑に落ちない顔でデスクを離れていく。  想悟は一つ息をついて、自身もプリントや出席簿を持って、ホームルームへ向かうことにした。  気掛かりなことがあるとはいえ、朝っぱらから仕事も手に付かないようでは、社会人失格である。  せっかくこの四月から母校で教鞭を振るうという夢が実現したにも関わらず、こんな調子では先が思いやられてしまう。  忙しない職員室を出て、受け持つクラスへの廊下を歩きながら、想悟は自身がこんなにも気を病む原因となった出来事を思い出していた。  冬の寒さもだんだんと和らいでいき、桜が開花し始めた三月下旬。  大学を卒業後、四月からの新生活に胸を躍らせていたはずの想悟は、都内でも有数の先進医療を誇る大病院の廊下を歩いていた。  ぱっちりとした二重まぶたに、きりりとした眉が凛々しさを醸し出す。艶のある黒髪を若者らしく遊ばせ、クールな中にも親しみのある風貌。  その整った顔立ちとすらりとした長身は、一見するとモデルと見間違えそうなスタイルだ。  それだけでも人の気を引くものだが、せっかちな歩幅に隠し切れぬ焦燥が滲んでいた。  ────実父が病に倒れた。  それを聞いた途端、想悟はいてもたっても居られなくなって家を飛び出した。  愛すべき家族の身に不幸があったと聞いただけでもショッキングであるのに、父は想悟にとってたった一人の家族と呼べる人間である。  そして、その父が財閥の流れを汲む大企業、霧島グループの名誉会長を務める霧島蔵之助(くらのすけ)という事実も大変に重要であった。  彼がここに入院していることが外部に漏れれば世間を騒がせることになりかねないため、現状トップシークレットのままでいる。  幸い一命は取り留めたものの、その後の精密検査で末期の癌であることが判明した。  健康には気を遣っていたはずであったが、きっと彼のことだから、周囲に心配を掛けてはいけないと、弱い部分を見せないようにしていたのだ。  それを聞いた想悟は、何故もっと早くに気付いてやれなかったのかと悔いた。  数回目の見舞いである今日も、想悟は父がいつどうなってしまうか、不安を隠せなかった。 「父さん!」  ガラリと個室のドアを開くと、白いベッドの上には、すっかり痩せ細った老人──想悟の父、蔵之助がいた。  よろよろと鈍い動きでこちらを見、訪問者が息子だと気付くと、どこか安心したように笑う。 「こら、想悟。ここをどこだと思っているんだ」  そう叱責する彼の表情は、激動の時代を生き抜いた威厳を滲ませながらも、ごく一部の人間にしか見せない好々爺だった。

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