36 / 186

一之瀬守編1-2

 終業後の守は、自身が授業を行う美術室で電気も点けずに一人ぽつんと突っ立っていた。  何者かに兄のことを盾に脅迫され、この時間はここに来るよう指定されている。  兄の失踪事件と共に、過去に彼がしていた教育者にあるまじき不祥事が明るみになり、守の一家は味を占めたマスコミに追い回されるようになった。  自分は何も悪いことをしていないというのに、周りからも白い目で見られるようになった。平穏な生活というものを、一瞬にして失ってしまった。  これではもう就職は駄目かもしれない、将来の夢だって諦めなくてはならなくなるかもしれないと思っていたところに世良に声をかけられ、それからは不器用ながらも、この学園で上手くやれているはずだった。  なのにこんなにも早く兄を知る人物が現れるとは、学園関係者の誰かなのか──そう思っては、落ち着かない様子だ。  目はひっきりなしに泳ぎ、ガタガタと子犬のように震えながら辺りを伺うことしかできない。 「ひっ!」  突然電気が点いて、守は身を固くした。しかし、現れた人物を見て、わずかに緊張の糸が緩む。 「き、霧島先生……ああ……お、驚かせないでください」  守はまさか、目の前にいる霧島想悟こそが脅迫者などとは微塵も想像していない。 「あ、あの、どうしたんですか? オレ、これから用事があって……まだ残っているつもりなので……その……戸締りなら、大丈夫、ですよ……?」  もしもこうしている間に脅迫者が来てしまったらどうしようと、困ったように笑う守。  どこまでも鈍い守に、想悟は今にも怒鳴りつけてやりたい衝動を噛み締めた。息をついてから、淡々と口を開く。 「三年前にここに勤めた後に失踪した体育教師の木村勝って、あんたの実の兄貴なんだよな。しかも生徒いじめの首謀者って……とことんクズ野郎だな」  守の顔色が変わった。 「ま、まさか……あの、手紙って……」 「そう、俺だよ」  守は途端に竦み上がった。身を震わせるだけで動けなくなってしまった守に、想悟はつかつかと歩み寄っていく。  学園関係者の想悟なら、そのくらい調べるのは容易だろう──そう守に思わせることはできたようだ。  改めて立場をわからせてやるように、想悟はわざとドスを利かせて喋り始める。 「あんたみたいな人間を雇ってるなんて、学園の信用問題に関わるじゃないか。俺も先祖に顔向けできない。俺だから黙っててやってるけど、他の先生や生徒にばれたら、どうなると思う? こういう不祥事をネットに流して楽しむような連中もいるし、解雇だけじゃ済まないかもな」 「う、嘘……。この仕事が無くなったら、オレ、絵を描けなくなっちゃいます……! そんなの嫌です……! オレの生き甲斐なんですっ……!」 「そりゃそうだよな」  想悟は馬鹿にするような口調で吐き捨てた。  もし守の素性をばらした上で解雇にでもなれば、そのようにいつマスコミが騒ぎ出すような要素を持った人間など誰も雇いたくない。  絵しか描けない守は、最悪路頭に迷うことになる。どうにか仕事を見つけたとして、それほどまでに愛する絵を描く余裕はなくなり、精神を病むのがオチだろう。 「で、でも、あの、霧島先生なら……あのことをばらすなんて……そ、そんな酷いことは、しませんよね……?」 「はぁ?」  ここに来てもまだ想悟に優しさを求めようとする守に、想悟はカッとなった。  もしかして性善説でも信じているような人間なのだろうか。  わざわざ呼び出して、「このことは誰にも言いませんから、安心してください」と言われるとでも思っていたのだろうか。この状況でどう考えればそのように都合良く解釈できるのかわからない。  思わず漏れた声に乗った気迫に、守の貧弱な肩がビクンッと震える。 「うぅっ……す、すみません……お願いしますから……クビにだけはしないでください……っ。あ、ぁ……そうです、お、お、お金ならっ、少しですが……」 「あんたのはした金なんざいらねぇよ」  弱々しい守の言葉を遮るように言った。おまけに金で解決しようとしているのも気に食わない。 「何なんだ、あんたは? 本当に立場をわかってるのか?」 「ひっ……ご、ごめんなさいっ。そ、それじゃあ……オレ……ど、どうすれば、秘密にしてもらえるんですか……?」 「ふん、そうだな……なら、土下座しろよ」 「え…………」 「土下座だ。床に頭擦り付けて『お願いですから秘密にしてください』とでも言えないのか?」  我ながら滅茶苦茶なことを言っている自覚はある。けれど、それだけ守に平常心を抉られていた。  想悟がわざとらしくため息をついてみせると、交渉決裂と判断されては困ると守は慌てて両膝をついた。 「ま、待ってください、土下座、しますから! あぁっ……お、お願い、ですから……兄のことは、どうか秘密にしてください……ううっ、この通りです……! 何でもしますからぁっ……」  頭を下げる前に想悟を見上げた守は、涙が滲んでいるようにも見えた。  想悟の足元で、守は必死に頭を床に擦り付けた。その身はガクガクと震え、そのまま踏みつけてやりたくなる。  いい大人がみっともなく土下座をしていると考えると、想悟の胸に心地の良い優越感が広がった。 「そう。守先生はそんなクソ兄貴の為なら何でもしてくれるんだ」 「お、オレにできる……範囲なら……ですけど……」  おずおずと顔を上げる守は、既に涙声だ。 「それなら、簡単だ。あんたは今ここで、俺に犯されてくれればいいんだからな」 「え……? なっ、なにを……言ってるんですか……。わ、悪い冗談はよしてください」 「この状況で冗談なんか言う訳がない。俺は本気だ」  そこで、想悟の我慢も限界に達した。平和ボケした守に恐怖を思い知らせてやろうと、襲いかかった。

ともだちにシェアしよう!