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おさななじみと小麦色

 カーテンが揺れる。薄いクリーム色。わずかに開いた窓から、校庭で駆け回る青少年たちの声とホイッスルの音が鳴り響く。  卒業式の日には咲き誇って淡い花弁を舞わせるだろう桜の木が、満開寸前だ。  俺は、後ろの席に椅子を向けて座っている。何気ない会話をして、俺が少しからかって、後ろの席のきみはまったく仕方ないな、とでも言いたげに眉を下げて、一言二言、口数少なく答える。  言葉が途切れる──俺は、ふと目を上げた。  視線を感じてまぶたを上げれば、そこには真剣な瞳があった。さっぱりした短めの黒髪。誠実さと無骨さを秘めた顎のライン。そして、何か言おうとしているような、黒い瞳と開きかけの唇。 「辰巳(たつみ)……?」  喉が乾いて、かすれた声が出た。  俺はまっすぐな視線を受けて、少し動揺したかもしれない。 「どうしたの、顔、怖いよ?」  そう言ってからかってみせる。  心臓が、とく、とく、と強く鳴って、痛いくらいだ。  小首を傾げて曖昧な笑みで固まる俺に、ずっと思いを寄せていたおさななじみは、低く一言、たった一言を、告げた。 「ハル。……好きだ」 「──!!」  そこで、目が覚めた。  心臓が痛い。うるさい。はっ、はっ、と息が上がっている。 「ゆ、め……?」  俺は頭を抱えた。なんっ……て夢見てるんだ、は、恥ずかしい……。顔に血の気がのぼるのを感じて、顔を両手で覆った。 「辰巳……ごめん……」  冷静になれば、そりゃあ夢だよな、と納得してしまう。  だって辰巳は、本当に小さな頃、おむつも取れない頃から一緒に育った、兄弟みたいなもので。  おさななじみである彼に恋をしていると気がついてからも、俺は墓場まで持ち帰る恋だと思っていて。それを、あの融通の効かないほどの生真面目な辰巳が、自ら告白してきて……なんて、出来すぎている。  俺は深呼吸して、心臓と上擦る呼吸をなだめた。  両頬を、ぎゅっとつねる。 「……よし!」  布団を抜け出てカレンダーをめくる。  九月一日。今日から俺は、二回目の新生活を始めるのだ。  短大をほどほどの成績で卒業した俺は、しかし進路に迷い続け、フリーターとしてアルバイトを掛け持って生活をやりくりしていた。  けれど身体はへとへと、睡眠時間も削って働く俺に見かねて声をかけてくれたのが、おさななじみの江川辰巳(えがわたつみ)だった。  彼は今、都内のホテル内でフロントに立ち、働いているらしい。裏方の仕事でよければ紹介できる、と言われ頷いたのは純粋な気持ちばかりではなかったことは確かだ。  好きな人の側で、仕事ができる。それは疲れ切って弱っていた俺の判断力をさらに鈍くさせるには充分だった。  幸い、そのホテルは一人暮らしのアパートから遠くない。辰巳もこの辺りに住んでいるのだろうかと思えば、寂しさと怖さを感じた人の気配のない部屋すらも俺の胸を踊らせた。    秋の澄んだ寒い朝、俺はトートバッグを肩にかけ歩いていく。スーツ姿のサラリーマンたちが駅へ向かうのとすれ違いながら、彼らの反対側へ。あまり通ったことのない道に、俺はスマートフォンを開いた。マップを開いて、道順を確認する。 「えっと、コンビニがあそこ……」  恥ずかしいが、俺は地図を読むのが苦手だ。男は地図に強いとかいう伝説は嘘だ。だって俺がいるもの。生ける証拠だ。きょろきょろしていると、背中に衝撃があった。 「っ、」  小さなうめき声がして、聞き覚えのある落下音。がちん、と音がして、俺の足元に黒い背のスマートフォンが落ちてきた。俺のものではない。拾い上げようとすると、それよりやや早く腕が伸びてきた。 「いい。拾う」  俺の一瞬の躊躇いを察したように吐かれた言葉は、ひどく無愛想で、思わずぎくりとしてしまう。 「す、すみません」  咄嗟に謝るけれど、スマートフォンを拾い上げたその人は応じることもない。ただ、今の落下でついたのかもしれない傷に、ちょっとため息をついた。  その顔に、俺は目を丸くした。綺麗な小麦色の肌だ。地の色なのか、パーカーの袖から覗いた手首も腕も小麦色。平均的な身長の俺より少し背が低くて、あどけない瞳が大きい。  アイドルとか、そんな感じの可愛らしい顔立ちの男の子だ。 「……何か?」  俺が見ているのに気がついたのか、彼は視線だけ軽く上げてじとりと俺を見た。 「あ、ご、ごめんなさい。お怪我は……」 「ない」 「スマホは……?」 「別に」  見事な無愛想っぷりだ。俺は苦笑いをこぼして、小さく頭を下げた。 「すみませんでした。じゃあ、俺、失礼しますね」  そして、そそくさと背中を向けて立ち去る。顔は少年みたいに可愛いけれど、結構怖い子だった。人は見かけによらない……。  トートバッグを肩にかけ直し、歩調を緩める。少し気になって、そっと後ろを振り返った──そして、ぎょっとする。  ついてきている。悩みのない歩調で、さくさくとついてきている。  な、なんで? 俺、恨まれてる……?  動揺をなんとか飲み込んで歩くペースを上げた。足音は後ろからついてくる。怖い。カツアゲとかされるんだろうか。それとも、何かもっと怖いことが……。  心臓がばくばくと鳴っているのは、早歩きのせいだけじゃない。俺はスマートフォンを祈るように握り締めた。いざとなったら、どうすればいい? 辰巳に連絡……、思ってから、首を振る。辰巳だって、出勤途中に急に「知らない人に追いかけられています! 助けてください!」なんて、しかもいい年した大人のおさななじみに言われたら困るだろう。ため息をつくのが見えた気がする。  じゃあ、どうすればいいんだろうか。いや、そもそも、ただ道が一緒なだけの可能性だってある。ただ歩いているだけで騒がれたら、今度は後ろの彼が困るだろう。  おちつけ、俺。  俺は深呼吸し、歩調をそっと緩め直す。追い越してくれないかと期待したのだ。足音がみるみる近づいてくる。スマートフォンを握り締め、トートバッグを体に引き寄せ、俺は息を潜めた。  一歩、ニ歩と近づく足音が、俺の横に立つ。そして、何事もなかったかのように、追い越していく。 「……っ」  良かった、何もなかった……。俺は不必要に詰めていた息を吐き出した。胸を撫で下ろす。すれ違いざま、ちらりとこちらを見ていたのは気のせいだと思いたい。  わざとゆっくりと歩いた俺は、早めにアパートを出たにも関わらずなかなかぎりぎりの時間に職場であるホテルにたどり着いた。途中、単純な道で迷いかけたことは忘れよう。  バックヤードから、フロントへ繋がる扉をそっとノックする。出勤した後、フロントへ声をかけるようにと言われている。ややあってから、扉が開いた。 「おはようござい……あ、辰巳」 「おはよう。……江川さん、だろ」 「あ、そうだね。江川さん」  俺はここでは彼のおさななじみではない。担当違えど、上司と部下だ。姿勢を正した俺に、辰巳は困った弟を見るみたいに眉を下げて笑った。スーツだ。上背も肩幅もある彼に、シンプルなスーツは恐ろしく似合っていた。  ぼんやりしていると、辰巳はふと俺の頭上あたりに目を留め、眉をひそめる。真顔で見つめられ、今朝の夢が蘇った。どきり、として思わず目を伏せてしまう。 「寝坊でもしたのか?」 「……え?」  辰巳は後ろ手に扉を閉め、手を上げた。俺の頭に手を伸ばす。  心臓が、止まった。  そんな気がする。 「な、何、何……?」  思わず身をひく。辰巳は手をおろした。代わりに自分の頭のてっぺんをとんとんと指先で叩いて、言う。 「髪。乱れてる」 「えっ」  道中、遅刻するかと思って慌てていたせいかもしれない。示された辺りを手櫛で整えると、辰巳は頷いた。大丈夫らしい。  と、背後で足音がした。邪魔になりそうだと気がついて端の方へ避ける。 「江川。609の客がアイロン? 借りたいって言ってる」 「アイロン?」 「確か、アイロンって言ってた……あ」  隣に立ったのは、先程道でぶつかってしまった青年だった。向こうも気がついたようで、小さく声を上げたあと黙って俺を見上げている。 「……おはようございます。今日からこちらで働かせていただく、水野千春です」  俺はおずおずとはにかんで頭を下げる。顔を上げると、小麦色の彼は浅く首だけで一礼した。 「……文月小麦」  わかりやすい名前だ。俺が少し目を丸くしていると、辰巳は小麦くんへ話しかける。 「確かにアイロンって言ってたんだな?」 「うん」 「でもうち、今アイロンの貸し出ししてないんだがな……故障で」  俺はついていけない話題に口を閉ざし、フロントの裏側ってこんな感じなんだ、と辺りを見回した。  あちこちに連絡の張り紙や標語、お客さんにも配られていそうなチラシなんかも貼ってある。 「あ」  ふと目に止まったものに声を上げると、二人は会話をやめた。 「どうした?」 「あ、いや……」  俺はそろりと壁の一角を示した。 「ヘアアイロンはあるんだな、と思って」  貸し出しアメニティの一覧。アイロンの写真の上には、「貸し出し中止しております」とシールが貼られている。その一覧の上の方には、ヘアアイロンの写真が載っていた。 「って言っても、アイロンの代わりにはならないかな……」  なんてはぐらかすように俺が笑ったとき、小麦くんはぽんと手を打った。 「思い出した。ヘアアイロンだ」 「違いすぎるだろう……」  辰巳は深いため息。 「二文字多いだけだろ」 「用途が違う。……わかった、持って行く。文月は戻ってていいぞ」 「わかった」  小麦くんは頷いて、きびすを返して廊下に消えていく。部屋の隅に置かれた箱を探っていた辰巳は、こちらを振り返った。手には黒のヘアアイロンがある。 「水野。行くぞ」 「ふふ、はい!」  先輩と後輩ごっこみたいでくすぐったいけれど、案外悪くない。

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