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第4話「SM」

佐藤義人には、交際している女性がいる。 《明日は空いてる?》 高く、穏やかな声。 想像できるふんわりと巻かれた髪を軽くクルクルと指先に巻きつける癖。彼女は人と話しているとき、電話しているとき、考え事をしているときはそうやって無意識に髪で遊ぶ。 「んー、ごめん。課題で忙しいかな」 ぱっちりした少し垂れた目と、それを飾る長い睫毛。上品に閉じた唇。初めて会ったとき、彼女の事を作り物かと思った事を義人はよく覚えていた。 《そっか。じゃあまた、会えるときにね》 「ごめん」 《平気だよ。ばいばい》 そう言って通話が切れた。 携帯電話を腰高程のリビングテーブルの上に置きながら、棚から取り出した4個で1セットになっているコップに水を注ぐ。ギュッと蛇口を閉めた。 大学が終わって帰宅し、食事や風呂を済ませた後。今は、午前0時を回ったくらいだろう。昼間は暖かいが夜は家の中でも少し涼しいくらいの温度だった。 実家住みの義人には父と母、それから弟と計3人の家族がいる。彼女と電話をする時は、大体家族が寝静まってから。起こしては悪いと想い、誰もいなくなったキッチンやらリビングで通話する事が多かった。2階にある自分の部屋の隣が弟の部屋であり、もともと1つだった部屋に無理やり仕切りを作った為にやたらと壁が薄く、電話などしては寝ている弟を起こしかねないのだ。 キッチンからリビングに移動し、今度は携帯電話をソファに投げる。ボスっと少し重めの音がそこに響いた。 変に冷たい声を聞き終わってからだと、リビングは妙にシンとしているように感じる。 切り際の彼女のあの声は、明らかに不機嫌だった。やるせない気持ちがもやもやと胸の中で大きな煙になっていく。それはなかなかに消えない。課題が忙しいのだから会えないのは理解してほしかったが、義人の恋人はそれが少し気に入らないようでいた。 「何その顔」 「うるせーよ」 そんな夜の翌日。班決めから3日後、朝。いつものように登校途中で会った里香と一緒に正門から学内に入る。 先日の班決めのあの授業の最後で課題が発表された。第一課題は「校内の指定された場所の飾り付け。使う道具、材料は自由だが、場所によっては壁などに傷をつけてほしくない等あるので助手さんによく相談する事。テーマは“美”」。 「あ、わかったー。麻子(まこ)に会えてないんでしょ」 どこか得意げにニヤリとした顔で里香が言う。 おまけにブスッとした義人の頬を彼女の右の人差し指がぐりぐりとえぐる。それを避けるでもなく慣れたように嫌がりながら、義人はズボンのポケットに入れた携帯にちらりと意識を移した。 あれから連絡も何も来ない。一晩明けてもなお、彼女の不機嫌が未だ後を引いていると物語るには十分だった。 「や、それは別に関係ない。単に寝不足。課題の事考えてただけ」 彼女がお怒りのときは、昼頃まで連絡せず、午後になってから「おはよう。何してるの?」と送るのが義人の中の定番だ。 誤魔化しに、ハア、と小さく付くため息。 「へ〜。じゃあ麻子とは会えてるの?」 「会ってない」 「入学してから一度も?」 「うん」 予備校で知り合った早乙女麻子(さおとめまこ)。ふわふわしたセミロングの髪に薄化粧で可愛い女の子。一緒にいて楽、可愛い、嫌いじゃない、と感じた結果、どちらからともなく付き合った相手。同じ美術系の恋人だが、義人や里香とは違い他の大学に通っている。 「かわいそー」 「別にいいだろ」 里香は楽しげに隣を歩く。 予備校で知り合ったメンバーは里香を含めて女子が多い。たまに下手な距離の近さを感じるが、里香との馴れ合いには義人自身が呆れる程、彼女である麻子も慣れてしまっていた。 昨日の電話の事を思い出して少し複雑な心境になりつつ、それでも初めての課題に真面目に取り組みたいと言う素直な気持ちが消えることはなかった。麻子本人もあちらの大学の課題が始まっているだろう、義人としては忙しいから会えないと言う事を解ってほしくいる。 お互い様だ、と。 逆の立場なら彼女はきっと自分に連絡すら返さない。察しろ、と言う感覚が強い女性だからだ。 今自分はきっと、ものすごく微妙な顔をしているだろう。里香が顔を覗き込んでは、「大丈夫?」と声をかけてくる。 「佐藤くん、おはよ」 「わっ!」 突然耳元で聞こえた声に、ぐんっと振り返る。 少し息のかかった耳からゾクゾクとした感触が伝わって、義人の肩がビクリと跳ねた。 にこりと、嫌味に近い整った笑顔を振りまいてくるのは、苦手な相手、藤崎だった。 「どーも」 へらりと笑った藤崎が、軽く手をあげつつ、里香とは反対の義人の隣に並ぶ。 「あれ?もしかして藤崎くん!?」 「ん?」 少しぽかんとした顔をする藤崎に、目を見開いて嬉々とした対応の里香。 「わああ!かっこいいって噂で、会ってみたかったんだよねー!」 はあ、と義人は肩を落とした。 驚いた心臓がまだ落ち着かずバクバクと煩く動いてはいるが、里香と藤崎に挟まれながら藤崎の話をされている事がどうにも居心地が悪い。 どうせなら、自分を挟まず会話をしてほしいと思うくらいに。 「へえ。俺、かっこいいんだ」 口角が上がるのが視界の端に見える。 「どうせ自覚してんだろ。嫌味ったらしい言い方すんなよ」 5センチだけ高い視線を見上げてやると、藤崎は先程よりもニコリとしてこちらを見下ろす。 浅いミルクティベージュの髪がよく似合う顔だった。 「へえ。佐藤くんも俺のこと、かっこいいって思うんだ」 「は?」 まさかの発言に目を丸くすると、フフ、と藤崎が笑いを漏らす。 嫌味で言ったのだが、一体どういう意味で捉えたのだろうか。麻子とのいざこざ以外に、またもやっとしたものが義人の胸の奥の方で生まれた。 これは義人の癖だが、その感覚を紛らわすかのようにグリグリと胸のあたりに拳を押し付け、何かを拭うように擦り始める。 「義人、それやめなよ。また赤くなるよ」 「え?ああ、」 里香が強めに義人の腕を払う。 藤崎は不思議そうに義人の胸元を眺め、少し首を傾げた。 「ていうかさ!藤崎くんてモデルの足立弥生ちゃんと付き合ってるって本当!?」 「え?」 反応したのは義人で、藤崎の方はどうでも良さそうな薄っぺらい笑みを浮かべて身を乗り出す里香を見つめ返す。どことなく、嫌そうな表情に思えた。 「付き合ってた、だね。こないだ別れた」 「え、そうなの!?」 「んー。何か、ねえ?」 じろり。 その話題はあまりしたくない、と言う視線が義人に絡みついてくる。 「何だよ」 対して義人は迷惑そうな顔で見上げた。 藤崎の目線からだと、義人の胸元が着ているTシャツの襟の隙間から少し覗ける。先程拳で擦っていた部分はやはり少し赤くなっているのが窺える。 「いやぁ〜」 (くせ?痛そう) 気怠げにそう言って、千切るように胸元から視線を剥がし、藤崎はまた里香の方を向いた。 「はあー、モデルなー、すげえなー」 (張り合いたいんでもないけど、でも麻子だって、予備校で1番人気高かったし) 張り合う意味なんてないのに、どうしてだかそう考えると居心地が良くなる。 恋人のレベルなんて考えるだけでも下世話なもので、義人自身こんなことを気にした事はあまりない。ただ隣にいる藤崎に朝から崩されたペースが戻らず、未だにうるさい心臓が気分悪く響いているだけだ。 「えー。何で別れたの?って、聞いたら失礼か」 「いいよ、別に」 ヘラッと気怠げな笑み。 「ほんと?!あ、一応自己紹介しときますねー。私、義人と同じ予備校だった荒木里香って言います。よろしく!」 「里香ちゃんね。よろしく」 「どもども。で、で。聞いても良い?」 妙に食いつく里香に、藤崎みたいのタイプだったっけ?と義人は小首を傾げる。 いや、多分ミーハーなところがある里香の事だから、興味が湧いて仕方ないだけだろう。 「他に好きな子できただけ」 「藤崎くんに?」 「そう。でもお互いもういいねー、って感じでもあったよ」 気怠げ。朝は苦手なのか、どことなく陽を嫌がっているように見える藤崎と、義人の腕につかまりながら藤崎の顔を見上げる里香。2人の会話を聞きながら、義人は無心で挟まれつつ歩き続ける。 「好きな子って、この大学?」 恋愛の話しになると里香はこうして妙に食いつくキャラでもあった。付き合う前、麻子と義人を一番応援してくれていたのも里香であったし、付き合ったと言う話を周りに広めたのも里香だった。 義人達の足が遅いのか、後ろから来る色んな学科の生徒達にどんどん追い越されて行く。義人は自分達を越して行く人間を眺めつつ、右耳で藤崎の答えを待っていた。 藤崎久遠の好きな人。 クラスの女子達からしてみれば、是非とも会話に混ざりたい話題かもしれない。初めての授業のあの後、藤崎は見事に7人程の女子に連絡先を聞かれ、面倒臭そうに教えていたのを覚えている。 顔がいいだけにも思えるが、プラスしてこの余裕のある対応と一見の物腰の柔らかさがあれば、確かに人気者にもなるのは頷けた。 義人は、藤崎が自分とは違う生き物の様に思えていた。 「、、、うん」 考えるように、少し間の置かれた返事だった。 「わ!じゃあまたすぐ彼女できるね!藤崎くんかっこいいし!」 「あはは、ありがとう。でも多分できないだろうな」 「えー?」 里香の困惑した様な声。その直後に、義人は横から視線を感じた。 「?」 すぐそこにある目を見上げることになった。すぐそこ、5センチ上にある、藤崎の目。何故だか右の手が、一瞬ピリッとびくつく。 「、、、」 「できない、と思う」 藤崎の視線が自分から離れない。 足元の段差に気を取られている里香は、2人の間の空気に気が付かずにいる。居心地の悪さに、義人は喉を締められたような気さえした。 なんて目で人を見るのだろう、と。 「えー。そんなにレベル高い子なの?」 その声に藤崎の視線が義人から滑って隣に合わせられる。バッと、今度は義人が下を向き、足元のタイルのヒビ割れを見つめた。 (何だ、今の) 右手はもう動かない。 代わりに少し手のひらが汗ばんでいる。 「かなり」 「がんばってよー!」 妙に強い視線だった。 睨まれていたわけではなく、覗き込まれていただけなのに義人の身体は強張っている。 「あ!アレあるかもよ、藤崎くん!」 「ん?」 そこでまた、里香の声で前を向いていた視線が横に行く。視界に映る藤崎がまたこちらを見るのではないのかと、義人は緊張したまま誤魔化すように、合わせて里香の方を向き動揺を隠した。 「SM!」 「え?何それ」 アダルトな単語に聞こえた。 義人は拍子抜けしたように聞き返す。 「え?違うよ?いやらしい言葉ではございませーん」 「なんだ、びっくりした。キャラ変わったんかと思った」 「変わってない変わってない。大学デビューとかしてない」 義人の様子などお構いなしに里香はケラケラと笑った。そうやっているとまるで少女で、歳よりもだいぶ若く見える。 「SMって、あれ?この学校の、」 「そうそう」 「は?なに?」 右手側、藤崎は「あー、あれね」と察したように言うが、義人だけは話が分かっていなかった。 そんな義人に、里香が得意げに「ふふん」と漏らす。 「義人知らないの?4月マジックだよ、4月マジック」 「4月マジック?」 聞き慣れない言葉に、怪訝に眉を挟めた。 そんな義人を見て、里香が目を丸くして驚いている。 「あ、ガチで知らないのね。いや、私も最近先輩に聞いたんだけど。4月マジックって言うのは、慣れない環境下で1年生同士が関わる事で、コロッと恋に落ちちゃうって話し。4月過ぎてドドッとカップルが増えるから、4月マジック」 「あー、なるほどね。くだらな」 「リア充はいいねー、そう言う事言えて」 トン、と軽く肩を殴られる。 「痛いです」 殴られた部分を摩りながら、呆れた視線を里香に向ける。里香は十分可愛くてモテると想うのだが、どうしてだか自分の恋愛に対して極端に興味が無い。付き合うとか、付き合わないとか、他人の事だと盛り上がるくせに。 「佐藤くんて、彼女いるの?」 隣からそう声が降ってきて、途端にまた、心臓が大きく波打った。 「いる」 見上げながらちょっと強めに言ってやれば、まだ気怠げな視線が見返してくる。 何となく、義人は藤崎のこの目が苦手だと想った。しかし先程の、ジッと見つめてくるあの感じよりかはマシだった。 「どのくらい付き合ってんの?」 「え、、5ヶ月、とか」 「へえ」 興味があるのかないのか、テキトーに答えているように聞こえた。それでも目は。何故か目には、読めない感情があった。義人はまたそれが何となく嫌になって、絡んでいた視線を切り落として前を向く。落ち着かない、というか。何だか肌がざわつくような感覚がした。 「義人の彼女はめっちゃ美人だよー!予備校で1番人気だったもん!」 里香が隣で麻子の自慢をしてくれる。 童貞だの背が低いだの散々言われた義人は、彼女と別れた藤崎に少しでかい顔をして、調子に乗って笑って見せた。 「ほー、すごいね。佐藤くんかっこいいもんな」 思っているのかいないのか、そんな気の抜けた様な声。 「まあな」 もうそろそろ、里香といつも別れる場所に着く。 その後は、藤崎と2人で教室まで行くのか、と義人は何を喋ればいいのか良く分からなくなっていて、加えて、できることならあまり藤崎の目を見て会話をしたくなかった。 「あるといいなあ、4月マジック」 隣はそんな事も考えていないだろう。 中身のない様に思えた声にそちらを見上げると、藤崎は少し目を細めて遠くを見ている。 「、、、あるんじゃない?お前、無駄にイケメンだし」 自然と口から零れた台詞。 本当は自分の顔がいいことくらい自覚しているだろうに、何でそんなに自信がなさそうに言うのだろうか。そんなに付き合うとかそういうのが、難しい相手なのだろうか。 「じゃあここで〜!藤崎くんまたねー!」 いつもの場所まで来ると里香はさっさと離れて行った。残された義人と藤崎は、並んでそのまま9号館の教室へ向かう。 「、、なあ」 先ほどよりも少し低くなったような声だった。見たくないと思いつつも、話かけられるとそちらを軽く見上げてしまう。 藤崎の目の色は、前から想っていたが何だか日本人離れしていて、、。 素直に言うなら、凄く綺麗な色だった。顔の整い方も考えると、もしかしたら生粋の日本人ではないのかもしれない。 「ん、、なに?」 「さっきのマジで言ってくれてる?」 「え?どれ?」 どこか強い視線。ああ、まただ。さっきと同じ、読めない感情が濃い茶色の瞳にゆらゆらと写っている。 「さっきの、俺のこと」 その目には、もう気怠げな影はなくなっている。 「マジ、だけど。普通にかっこよくね?お前」 「、、へえ。ありがとう」 「っ、なんだよ!」 ニヤッと笑った藤崎が、なんとなくむかついた。

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