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第2話
「それじゃあ、間に合わないんだよ。今から原稿を頂きにいくんだ。お腹がすいたって云っている先生に頼まれたんだよ。手土産にするつもりだったのに……」
「そっか。まぁ数百円で済む問題なら完全放置なんだけどな。仕事でポカすんのはかわいそうか……」
この兄の評価をもうひとつつけくわえるとするなら、それは情に厚いというところだ。
「ボーナスは飛ぶかもしれない……、ぐすっ」
いい歳して床にうなだれて泣く男の姿に、奈緒紀はうえっと一瞬顔を歪めていたが、次第に眉じりをさげだした。智はひそやかに溜息を吐く。
(仕方ないか……)
晩御飯の下準備と宿題と片付けに、時間は一分だって無駄にはしたくなかったのだが――。
智は自分はちょっとマゾなのかもしれないなと思いつつ、この場を治めるための唯一の解決策を口にすることにした。
「おじさん、その先生の部屋はどこ? ――酢豚、俺が作って持って行ってあげる」
*
それから三十分後。智は風呂敷に包んだお重を抱えて、出版社に勤めているというサラリーマン、立花 に教えられた部屋にやってきた。
ピンポーン、ピンポーン。
チャイムを鳴らすと、じきに玄関のドアがあく。
「ああ。待っていたよ、智くん。できたのかい?」
「うん。どうぞ。食べたらお重は部屋のまえに出しておいてください。あとで取りにきます」
「いやいや、よかったらあがっていって」
立花にお重を渡すとすぐに踵を返した智だったが、彼に服を掴まれて引き留められた。立花はさっきは奈緒紀の腕を掴んでいた。どうやら彼のパーソナルスペースは近いようだ。
智はあがっていくって……、なんで? と思いはしたが、どうせなら部屋を見て行くことにしようと素直に彼の言葉に従った。お茶菓子くらいでてくるのかな、とも考える。
「……いいんですか?」
「先生にきみのことを話したら、きみを見てみたいって云ったんだよ。よかったらつきあってくれ」
どうやら立花は智までも手土産のひとつにと考えたようだ。リビングに向かって「先生、はいりますよー。智くんがきましたー」と声をかけた。
家のはとても静かだ。玄関で靴を揃え、廊下を歩いてまっすぐ進む。
智はこのマンションの同じ棟の一階に、子どもばかり七人で住んでいる。その部屋は角にあたる住戸なので、ここよりすこし広いつくりだ。
自分たちの住戸の隣には両親が住んでいるのだが、ざっと見た感じ、ここは親の住戸とまったく同じ三LDKの間取りだった。
リビングには立花に先生と呼ばれている優男が座っていた。自宅だというのにシャツにスラックスを穿いた、きっちりとした恰好をしている。
「やぁ。こんにちわ」
ダイニングテーブルで白紙になにやら書きこんでいた男は、その手を止めると智に顔をむけてやんわりと挨拶してきた。智はそれにちいさく会釈だけを返す。
「先生、今日は本当にすみませんでした。『花梨 』の酢豚はこんどまたお持ちしますので、今日はコレで…‥」
「立花さん、その云いかたは、彼にちょっと失礼では……」
「あっ、ああ、ごめんね、智 くん」
困ったような顔をした先生とやらの目じりに皺がよるのを、なんとなく眺めていた智は確かにいまのセリフは失礼だな、と遅れて気づく。
「あれ? 智くん、このお重二段あるの? わっ。すごい」
「これは、すごいねぇ」
テーブルで風呂敷を広げた立花と先生が、ふたりして目を丸くして驚いた。
一段目には約束していた酢豚を、そして二段目には蒸し鶏のサラダと麻婆豆腐をいれておいた。今晩の上条 家の晩御飯のおかずだ。大量に作るのですこしくらいお裾分けしても家 は困らない。
「これ、智くんがつくったのかい?」
「口にあわないのなら、処分して」
「あ、ちゃんと酢豚にパイナップルはいってる」
「花梨の酢豚はパイナップル入りだから……」
先生にパイナップルのことを指摘されると、智はパイナップルを入れてもよかったのだろうかと、またもや気になった。酢豚にパイナップルをいれるのには、好きなひとと嫌いなひとに別れてしまう。それでお重にいれるときにいちど迷っていたのだ。
「うん。だからぼくは花梨の酢豚が好きなんだ。ありがとうね。ご飯だけ用意してもらっていたんだけど、これだったらちょっと飲みたくなるね。立花さんも一緒にいただこう」
そう云うと先生は席を立ってキッチンへ移動し、冷蔵庫の扉をあけた。
さっきエントランスで立花が「先生を怒らせたら――」と、やたらと嘆いていたので、智はてっきり先生とやらは気難しいひとなのかと思っていたのだが、それがどうだろう。彼は気難しいどころか、とても気さくでやさしそうだ。
(立花が騒ぐからわざわざ作って持ってきたってのに……)
智はすっかり騙された気分だ。
「えっと、名前はさとるくん、でいいのかな? 智くんもどうだい? 食べるならお茶碗にご飯よそうよ?」
「いえ、家で食べるんでお構いなく」
そうは云いつつ、智はここからすこし離れがたい気持ちになっていた。
自分のつくった食事を、家族以外に振舞う機会はめったにない。彼らの口に自分の料理があうのかどうか知りたいと思ったし、なぜだかわからないが、なんとなくこの先生とはもうすこしいっしょに居たい。
「あの、食べ終わるまでここにいていいですか?」
「どうぞ。じゃお茶でもいれようね。それともジュースがいいかな?」
「お茶ください」
「あ、先生、僕がしますよ」
「いいよ。立花さんは座っていて」
すぐにお茶は用意され、いっしょに個包装された洋菓子をいくつか振舞ってくれる。そして彼らはビールで乾杯をすると、智の料理に箸をつけはじめた。
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