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第12話

「口ゲンカだから決着がつかないんだよ。いっそ殴り合いでもしてケリつけりゃいいのに。んでさっさと離婚してくれ」 「あっ、それは俺も思う。腹立ってむしゃくしゃしてるんならさ、ちょっとくらいは殴らせてあげればいいのにってね」  奈緒紀の特技がへらへらニコニコの笑顔と、調子の良さだけだと油断していた恭介だった。まさか彼があれほど聞き出し上手だったとは……。  だから自宅から彼のマンションまでの移動の間に、恭介は毎日の鬱屈や家族にたいする不満を全部、奈緒紀にしゃべってしまったのだ。  恭介がここまでひとに自分の心情を吐露したのは、はじめてのことだった。  この日、恭介は奈緒紀に話しすぎた。だからそのことを、夜になって羞恥ともに大後悔することになる。                      *  マンションに到着して奈緒紀の家の扉を開けた途端、由那は恭介の胸を蹴りでていった。  その反動で後ろに倒れ、尻をアルコープの硬い床に強かに打ちつけた恭介は、痛みに顔を歪めて盛大に毒づいた。 「いってぇっ。マジかっ、あのクソ幼児っ!」  そんな恭介に苦笑しながら、奈緒紀は手を差しだしてくる。 「先輩、大丈夫?」 「あ、ああ。――っ⁉」  目を白黒しながら奈緒紀の手を取ろうとした恭介は、しかしこんどは彼の背後に迫りくる影に「ひいっ」息を呑んだ。 「奈緒ちゃあぁんっ‼」 「うわぁっ」 「うげっ!」  廊下の向こうから走ってきた、由那よりもすこし大きな子どもが、屈んだ奈緒紀の背中に飛びついたのだ。奈緒紀はそれを支えきれず、ふたりして恭介の腹に倒れてきた。 「ぐっふうぅぅっ」 「いってぇーっ」  鳩尾(みぞおち)に奈緒紀と女の子のふたりぶんの体重を受けとめた恭介は(うめ)いた。あまりもの衝撃に、昼に食べたものを吐きだしそうだ。 「うえっ、げほっ、げほげほっ」 「先輩ダイジョーブ?」  涙目で嘔吐(えず)く恭介に腹のうえに乗ったままの奈緒紀が、「ごめんね」とけろっと謝る。 「げほっ……ふっううっ……」 「んもぅ、藍里ったら元気なんだから。飛びつくときはちゃんと周りを見ないと危ないでしょ。ほら先輩かわいそう、涙浮かべちゃってるよ。ちゃんとごめんねしてね」  奈緒紀は、かわいそうといちどだけ恭介を振り返るも「藍里(あいり)ちゃん、ただいまのちゅーしてぇ」と云って、少女に頬を差しだしていた。 「奈緒ちゃん、おかえりなさいね、ちぅ」 「藍里ちゃんありがとねー」 (なんの茶番だっ!) 「いいから、お前らっ、俺の腹のうえからはやくどけぇ!」 「いやんっ」 「やぁっ」  重さに耐えられず、恭介はいちゃいちゃしている兄妹を、腹のうえから転がり落とした。 「もう。先輩の怒りん坊。……ほら、靴脱いでなかにあがってよ」  奈緒紀が靴をしまうときに、ちらっと見えた下駄箱のなかにあった靴の数は半端なかった。それに家のなかはやけに賑やかだ。  客でもきているのだろうか、恭介は想像したがその理由はすぐに教えられた。 「俺ん家、兄妹(きょうだい)多いんだよね。大家族ってやつ? この子が下から二番目の幼稚園生」  さっきの由那には申し訳ないが、いま奈緒紀に抱っこされている幼児の顔は、やけにかわいい。下手な子役タレントよりも美人で、聡明そうな顔をしていた。 「おにいちゃん、こんにちわぁ。あいりです。五才です。痛くしてごめんなさいね。次は絶対に気をつける」 「あ、ああ。こんにちわ。うわっ」  愛想よく挨拶を終えた藍里は、奈緒紀の腕から下りると、恭介の腹を軽くナデナデしてから、「お客さん来たよー」と廊下の突き当りの部屋へと、さきに走っていった。きっとそこがリビングなんだろう。  奈緒紀は途中、キッチンで足を止めた。彼のすぐ背後にいた恭介にも、キッチンのなかにいる少年の顔が見えた。  キッチン台にはたくさんの食材が準備されていて、なかにいた少年は今からまさに料理をはじめます、といった(てい)だ。 「さとるー。お客さんね。先輩のご飯もよろしくね」 「わかった」  恭介を一瞥した(さとる)は、挨拶もなく手もとの作業に戻る。愛想がない。 「え? 俺、メシはいいよ?」 「まぁまぁ、せっかくだし食べて行って」  「はぁ……。それにしても、この子、お前とそっくりだな」 「うん。智と俺が一番似てるって云われる。こいつがうちの四男ね。俺よりも一個下で、まだ中学生なんだ」  ふたりは白い肌もすこし垂れぎみの目も、背格好もそっくりだった。しかし智のほうは髪が黒く、奈緒紀とは真逆に控えめな印象がある。  奈緒紀が西洋風と云うなら、智は純和風と云った感じだった。 「で、こっちがリビングね。散らかっていると思うから足もと気をつけて」 「うわっ」  説明とともにドアが開くと、耳をつんざくやかましさに、恭介はとっさに両耳を押さえた。そしてあまりものひとの密集度に驚いて、目を大きくする。 「すっげ……」  まずいちばんはじめに目についたのは、部屋のまんなかで激しい罵りあいをしている男女だった。  ふたりは自分と同じくらいの年齢だ。他にも壁際にひとり、机のまえにひとり、恭介と歳の変わらなそうな男がいて、そして部屋のはしっこで、妙なダンスを踊っているのがさっきの由那で……。

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