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第15話
「うん。俺と藍里のタックルが相当効いたみたい」
(うん、そうだ。そういうことにしておいてくれ)
「それは悪いことしたな。体調が悪いんじゃなければ、これ食べてもらって」
「ありがとう。あと、にいちゃん、これ、お願いできるかな?」
「ああ、ごめんな。取ってやれなくて。こいつがここにいたら、友だちも休まらなかっただろうね」
これ、とは妹のことだった。由那はトイレのなかにもここにもずっとついてきていた。
この部屋に入ったはじめのうちこそ恭介は彼女を邪魔だと思っていたが、奈緒紀にあやされると、彼女は十分もしないうちに寝息を立てはじめたのだ。
「ううん。ゆんちゃんすぐ寝たよ。そのぶん、夜が怖いけどね……」
「まぁな」
兄弟はくすくすと笑いあっていた。恭介は彼らの云っている意味がわからず、蔑 ろにされた気分だ。
「食べたらお友だち、送って行ってあげるから声かけて。それか本人がイヤじゃなければ泊っていってもらってもいいんだけど……」
それは、断固遠慮すると、胸の裡で呟く。
「んー。きっと無理だ」
(おい、こら、云いかた! ここで裏切るなよな)
「そっか」
食事と幼児を交換して育己が出ていくと、奈緒紀が恭介の額のタオルをぺらっと捲った。
「たぬき寝入り」
「ふん」
恭介はそのままタオルを掴むと、掛け布団を剥いで上体を起こした。
床のうえにはトレイに載せられた二人ぶんの夕飯が、おいしそうな湯気を立てている。これをあの中学生が作ったのかと思うと、それには素直に感心できた。
「俺は鳩尾くらって吐いただけだからな。元気なんだよ。だから飯だって普通に食える」
「じゃあさ、先輩。今晩ここに泊まっていく?」
どう? と奈緒紀が小首を傾げてあざとく訊いてくるのに、恭介は「ぐっ」と言葉を詰まらせた。
「……それは、遠慮する」
むすっとして答えた恭介に「うしししっ」と奈緒紀が笑った。
そんなしてやったり顔の奈緒紀の額に、恭介は遠慮なくデコピンをくらわす。
「いってっ!」
奈緒紀に勧められて手にとった茶碗は、盛りたてで熱いくらいだった。
電子レンジの音もなく、できたてあつあつの食事がとれるのはどれくらいぶりだろう。しかもそういうときは決まって、飲食店でのことだった。
いただきますと云って、箸で口に含んだおかずは、店や学食とはまた異なった温かさがあるような気がした。いや、こういう場合は「温かみ」と表現するのだろうか。
育己がわざわざこの部屋に食事を届けてくれたのは、静かな部屋で落着いて食事がとれるようにという配慮からだろう。その思いやりに気づいたとき、恭介はすこし涙が滲みそうになって、咀嚼していたおかずを慌てて飲みこむことで自分を誤魔化した。
しかし嚥下とは別の理由で喉がじりっと痛んだことで、余計に自分の弱さと情けなさを自覚するはめになる。
この日はじめて奈緒紀の家で食べた料理の味は、恭介にとっていつまでも記憶に残る、苦い味の思い出になった。
*
その日の夜。
「あー……、落着く……」
奈緒紀の家から帰った恭介は、ベッドのうえで手足を伸ばしてしみじみと呟いた。
たとえ自分にたいする両親の態度や、聞くに堪えない夫婦ゲンカが自分の神経を逆なでるものであったとしても、恭介がこの家で安らぎを感じられているという事実は確かだったようだ。今日そのことに、恭介ははじめて気づいた。
すげぇ、静かだ。
はぁー、静かだ。
実は今夜は父が帰宅していた。そしていまも階下では恒例の夫婦ゲンカが行われているのだが……。
皮肉なものだ。奈緒紀の家で、チビどもが踊り歌うのを背景に行われていた、良和と舞子のケンカに巻き込まれたあととなれば、床一枚挟んで聞こえてくる両親のケンカの声など、高が知れたものだった。
(これくらいの口論でイライラしていただなんて‥‥…)
自分が神経質すぎたのかもしれないと、思えないこともない。しかもだ。恭介の口が、にまっと緩んだ。
「ばっかじゃねーの」
なんと今夜のケンカは、いつもよりもふたりの声のボリュームが落とされているのだ。どうやら父と母はふたり揃って、恭介に気を使っているらしい。
「だったら、ケンカをするなってぇの」
思い返すと恥ずかしいのだが、今夜両親が恭介にみせている気遣いはすべて奈緒紀の兄、育己のお陰だった。
恭介は奈緒紀の家で夕飯を食べたあと、育己にバイクで自宅まで送り届けてもらったのだ。
恭介の家に着いたとき、このあたりが住宅街であることに気を配ったらしい育己が、わざわざバイクのエンジンを切った。
そのとき、恭介の両親のケンカの声が、自宅のなかから漏れ聞こえてきたのだ。その声はヘルメットをしていても、しっかり内容まで聞き取れるほどだった。
恭介は育己に争う親の声を聞かれてしまって情けなく感じたし、これからこの家に入るのかと思うと無性にやるせなかったのだが――。
ふいにシートから下りた育己がバイクを道路脇に停めて、恭介の目のまえで家のチャイムを鳴らしたのだ。
「育己さん?」
「ん。ちょっとお前ん親と話するわ」
「え?」
彼は恭介の両親を玄関に呼び出すと、喧騒が苦手な自分が兄妹ケンカに巻きこまれて体調を崩し嘔吐 した、と説明した。そして謝罪のために深く頭を下げてくれたのだ。
育己の話に気まずそうに顔を見あわせていた両親は、揃って肩を落としていた。
どうやらふたりはあの瞬間に、なにか省みることがあったようだ。
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