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      第9話

 社長室であんなことがあってすぐ後。社長は20時からの会食があるため、葉琉は助手席に乗り、七々扇社長は後部座席で不機嫌になっていた。まさかGlareを拒んだからという事ではないと思うが、大きな商談を部下に任せたら大失敗した時の上司並みに不機嫌になっていた。  20時からの会食は社長だけの出席で、葉琉は料亭へ送り届けてそこで業務終了である。今は抑制剤のお陰で何とかなっているが、帰宅次第連続の服用を禁止されている一番強い抑制剤を飲まなければ。と心にしていた。 「では、行ってらっしゃいませ」  料亭へ到着した社長は、葉琉を何度も見ながら、まるで捨てられた子犬の如く視線を投げかけてくるが一切気にしない。運転手に自宅近くのコンビニまで送ってもらい、歩いて自宅マンションに到着した。 「はぁ…」  紺のネクタイを緩め、目立たない上品なグレーストライプのスーツのジャケットを適当にソファに投げる。寝室に行き、ベッド横にあるサイドテーブルに入っている青い錠剤を取り出す。白い丸い錠剤が常用薬で、軽い欲情や精神が不安定になった時は薄ピンクの錠剤。そしてSub drop(サブドロップ)という精神的に崩壊し、ネガティブ思考が加速し、結果的に死に至る可能性がある状態の一歩手前になったときに飲むのが、この青い錠剤である。  薄ピンクの錠剤でもいいかと一瞬思ったが、強い薬を服用し過ぎた影響で抑制剤が効きにくくなっている事に思い至った葉琉は、青い錠剤を手に取ったのだ。  水も飲まずに錠剤を口にする葉琉。どんどん冷たくなっていっていた身体が、徐々に暖かくなっているのを感じだ。それから少しして。ある程度落ち着いた葉琉は、軽くシャワーだけ浴び、食事もとらずにダルさを催していた身体を休ませたのだった。  それから2日後。定時が過ぎ、今日は社長と藤堂副社長が院瀬見家のパーティに参加する当日。仕事もそこそこに、19時に間に合わせて仕事を終えていた。 「では社長、本日はこれで失礼致します」  NIIG本社のメインエントランスで、迎えの車に乗り込む社長を見送る。さっきのさっきまで“一緒に参加しよう”と葉琉を口説いていた社長。頑なに拒む葉琉に、結局折れたのは社長だった。  都内の某高級住宅地に聳え立つ大きな塀に囲まれた洋館。夫人の誕生パーティには、相変わらず政財界経済界問わず、様々な界隈でトップに立つ者たちが集まっていた。その中でも七々扇の名前は目立つ。院瀬見に並ぶほどの大きな一族であり、また権力者も多数輩出している両家は、かなり親しい間柄だった。なんなら、曾祖母同士がお互いの家に嫁ぐほどには仲が良かった。 「院瀬見夫人、お誕生日おめでとうございます」  七々扇社長と藤堂副社長は、揃って院瀬見当主とその夫人に挨拶をする。笑みを張り付けた営業用ではなく、ちゃんと祝っているのが分かる程。そんな二人に、当主含め夫人とその隣にいた二人の兄妹も笑顔になる。 「七々扇社長、本日はわざわざありがとうございます。ぜひ楽しんでいってくださいね」  笑顔の夫人。当主は、Domに囲まれたこの状況が少し嫌だったのか、笑顔で低頭して愛妻を引き連れて少し離れていった。 「当主は相変わらずですね」  それをみて、いつもの行動と理解している藤堂副社長は苦笑する。が、自分の愛妻が純粋なSub。しかもハイランクであれば致し方ないなとも思っていた。  そこからは色々な人が当主と夫人に挨拶をしていく。七々扇社長と藤堂副社長、姫野女史は院瀬見家の兄妹と話し始めた。 「お久しぶりです、七々扇社長。院瀬見(イセミ)颯士(ソウシ)です。こちらは妹の夏輝(ナツキ)」 「夏輝です」 「七々扇紫桜です。こっちは従兄弟の藤堂麗央」  お互いに改めて自己紹介をする。最後に彼ら兄妹に会ったのは1年半前の院瀬見家の新年会。たった1年半しか経っていないにも関わらず、颯士は男らしく、夏輝は優雅さが際立っていた。 「ああ、そういえば、弟と懇意にしているようで。ありがとうございます」  思い出したかのように言う七々扇社長。彼の歳の離れた弟は颯士と同い年であり、去年の院瀬見家の新年会に参加した弟は颯士とそこから仲良くなった。普段はアメリカの大学に通っている弟。歳の差が15歳も離れていたら、もう弟というより息子に近い。 「いえいえ。こちらこそ、いつも楽しいお話聞かせていただいています」  まだ20歳になったばかりの学生とは思えない言葉遣いに、彼も由緒正しいDom一族の跡取りなんだなと思う。 「そういえば、七々扇社長は日本に帰国されたとか」 「ええ、祖父の容態も落ち着き、現場にも復帰しましたので」 「よろしければなのですが、経営のいろはなどを教えていただけませんか。もちろん、空いている時間で構いません」  その表情は学生のそれではなく、将来を見据えた経営者の瞳だった。  そんな急成長した彼に目を見張りつつ、弟同然の彼の頼みを無碍にはしたくない。七々扇社長はスケジュールを頭の中で確認した。こんなときに葉琉がいたらどれほど簡単にスケジュールを組むことができたかと、片隅で思いながら。  九条女史から秘書の仕事を引き継いでまだ1か月ちょいしか経っていないにも関わらず、葉琉の適応法力は計り知れない。雑務は未だに河本室長に頼んでいるが、それ以外がすでに九条女史のそれを超える勢いで急成長していたのだ。 「今お返事する事ができませんので、また後日でもよろしいですか」 「はい、もちろんです」  直後、母親に呼ばれ、妹と共に去ってしまう次期院瀬見当主。あれは化ける。と内心戦々恐々しながらも、いずれ来るであろう彼の経営進出を楽しみにする七々扇社長だった。

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