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第86話
懇談会から紫桜が戻ってくると、葉琉はいつも通りお気に入りのソファに寝転がり小説を読んでいた。照明はソファ横のフロアライトだけが灯され、他は静寂の闇と化している。
「……」
よほど面白いのか、葉琉は紫桜が返ってきたことに気づいていない。
「…そんなに面白いのか?」
「うわッ、…なんで普通に帰ってきてくれないんですかね」
「普通に帰ってきたさ。葉琉が気づかなかっただけだろう?」
葉琉の少し間抜けな顔を見れて少し満足したのか、クスッと笑い恋人の頬に軽くキスを落とす。葉琉は特に抵抗することなく受け入れ、呆れたように溜息を吐いた。
「…おかえりなさい。副会長の件、どうでした」
どうやらまだ秘書としての感覚が残っているらしい葉琉は紫桜に対し敬語が抜けない。最近はプライベートではため口で対等に話してくれていた恋人の生真面目さを、紫桜は苦笑しながらもそれが私の恋人だ。と可愛く思っていた。
「とりあえずは先走らないように。とだけ。…こちらとしても表立って後ろ盾にはなれないからな」
「…相手は西園寺ですからね」
簡潔に結論を話すと葉琉はそうだろうな。と言いたげな、しかしその瞳には憎悪が見え隠れしていた。
「…葉琉、西園寺の次男と何か因縁でもあるのか」
「……突然何を言い出すんですか」
恋人の突然の質問に葉琉は思わず目を見開く。
まぁ特に隠していたわけではないので、サイドテーブルに置いてあったアイスティーを一口流し込み口を開いた。
「…院瀬見には高位のSubがいる事は知ってますよね」
「院瀬見家の姫だろう」
「はい。従兄妹なんですけど、彼女を西園寺の次男が誘拐しようとしたんです。だからオレがそれを止めた。…対外的には西園寺の次男が従兄妹を結婚相手として欲したってことになってると思いますけど」
西園寺の次男が院瀬見の姫に求婚し断られたのは結構有名な話だ。しかしそれが実は誘拐未遂事件だったと知る者はごく一部である。それは紫桜も例外に漏れず真相を聞き驚いている様子だった。
「その時偶々従兄妹の主治医になったのが藤崎先生なんです。だから知ってたんだと」
そういうとまた小説に視線を戻す葉琉。無表情の彼から感情を読み取ることはできない。紫桜はそんな恋人をソファ越しに後ろから抱き締めた。
「…俺は葉琉を愛しているよ」
「……どうしたの、本当」
いつもとは少し違い、なぜか慰めるような上司兼恋人に葉琉は苦笑しながらその頭を撫でた。
「そうだ葉琉、婚姻契約しないか」
いきなりの爆弾発言。葉琉は思いっきり振り返り紫桜を見た。
「まだこの国では男同士の結婚はできない。だからこその婚姻契約だ。別に俺には弟もいるし従兄弟も大勢いる。七々扇家の当主ではあるが、必ずしも俺の直系がいなければならない訳でもない」
そう捲し立てるように言葉を繋ぐ紫桜。葉琉の驚き方から断られるのではと思っているらしい。それを裏付けるようにいつもは読みにくい表情が死ぬほど分かりやすい。
「いや、なんでそんな急に」
別に葉琉自身、いずれは婚姻契約するだろうなと漠然とだが思っていた。そしてその事実に対し特に抵抗などなく、むしろ自分でいいのか。と若干の自己嫌悪に陥っている節さえあった。
そんなところに急に紫桜からの提案である。本人に自覚があるか分からないが、自分の恋人は案外ロマンチストだと知っている葉琉としてはこんな雰囲気もへったくれもない現状にどうしたんだ。と思うのは当然だった。
「さっきの件を聞いて思ったんだが、婚姻関係の相手、もしくは婚姻契約の相手が不測の事態に陥った時、婚約者では他人扱いの為決定権は愚か、何かあった時に会わせてももらえないんだ。過去に西園寺の次男と事を構えている自分の恋人に何かあってもこのままでは俺は葉琉に対して何もできない。それでは不安しかないんだよ」
眉尻を下げ悲しそうに、寂しそうに葉琉を抱き締める腕に力を入れる紫桜。
今の法律では例え婚約者でも当人とは赤の他人と見られ当人が不測の事態、意識不明時や緊急手術時などの対応は一切委ねてもらえない。”家族”として認められている婚姻関係であったり婚姻契約関係でなければ当人の現状さえ教えてもらえないのだ。
それを知識として知ってはいたが、実際副会長の息子は婚約関係であった為に意識不明になっている最愛の婚約者の現状も彼女の家族から教えてもらえない限り何も情報がないと打ちひしがれていたという。
「…オレに何かあると?」
心配であるとひしひしと伝わる葉琉は諭すように優しく声を掛けた。
「……ない事を願っている。むしろ危険から遠ざけたいので俺に囲われて欲しいが、それは嫌だろう?」
「束縛する人は嫌いだね」
「いうと思ったよ…。だから特に束縛はしないつもりだ。今まで通り葉琉は自由でいい」
自由でいいと言いつつ、婚姻契約がしたい。と若干葉琉からすると矛盾している気もしない。それに葉琉としては全て事が片付くまで紫桜とは婚約関係でいたかった。何かあっても自分の現状を恋人にだけは知られたくなかったから。
「…まだ早い気もするけど」
「……本当に、俺の恋人はどこかへ消えてしまいそうで怖いな」
やんわりと断られた事を察した紫桜は泣きそうな表情をしながらも、何よりも優先し大切にしたい恋人の頬を撫でながら消えないように願った。
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