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      第85話

 ホテルを出てすぐ。葉琉は二人のマンションに一度戻ると、いつもとは全く雰囲気の違う黒のパーカーに着替えて一人でかけた。マンションから少し離れた紫桜にも言っていない契約駐車場に止めてある黒のセダンに乗り込むと、30分程行った周りに何もない海岸につく。海岸沿いのポツンと一つだけある石のベンチには、一人の先客がいた。 「……久しぶり。元気だった?」 「もちろん。こうやって顔を合わせるのも久々だな」    小さく笑う彼女の横に座ると、葉琉は来る途中コンビニで買ったペットボトルの無糖紅茶を彼女に手渡した。 「相変わらず紅茶好きなんだ?」 「本当はアフタヌーンティーに誘いたいけど、また今度」 「その時は葉琉の一番好きなアフタヌーンティーにしてね」  クスクスと笑いながら手渡された紅茶を見つめる彼女。葉琉は彼女の方を見ず、ただ波打つ漆黒の海に視線を向ける。 「そうだ、今度会う時はお菓子焼いてこようかな」 「上手になったんだ?」 「まるで前食べた時はマズかったってニュアンスで言わなくてもいいじゃない」 「不貞腐れてるけど、実際フランスパンみたいなシフォンケーキ作った奴にそんなに期待しないだろ」 「えー、そんなんだっけ?」  首を傾げてうーん。と唸っている彼女だが、前に自信作と言われ初めて食べた彼女のシフォンケーキはなぜかフランスパンのように固く、甘さは皆無でなぜかしょっぱかった。瞳を輝かせているから仕方なく食べたが、そのあと実家のパティシエにお願いして本物のシフォンケーキを作ってもらったことは葉琉の記憶に鮮明に残っていた。  あの時初めてオレが何かを作ってほしいってお願いしたからか、パティシエが感動して泣いてたっけ…。 「今度は何がいい?クッキーは簡単だし、シフォンケーキは前に作ったし…。あ、フルーツタルトとかどう?」 「フルーツタルト苦手じゃなかったっけ?」 「甘いケーキが一番好きだけど、葉琉の食べれる洋菓子ってフルーツタルトくらいでしょ?」  何言ってるの?と小首を傾げて葉琉を見つめる彼女。肩から流れ落ちる綺麗な黒髪に視線がいく。当たり前のように自分の好物を知り、それを作るのが自然だとでもいう様な彼女に、葉琉は懐かしさを感じた。 「せめて純平さんと一緒に作ってくれたら嬉しいんだけど」 「じゃあ葉琉も北海道においでよ。私のお気に入りのログハウスに」 「純平さんと二人暮らしだっけ。かかりつけ医も北海道に変えたらいいのに」  サンダルを脱ぎ、足をプラプラさせながら砂と戯れる彼女。念願の恋人との同棲は早3年になるというのに、まだ甘いラブラブカップルであることを知っている葉琉。たまに電話をする彼女の彼氏・純平が永遠に惚気るのでいつも本を読みながら適当に流すのが日常だった。 「だって安城先生を北海道に呼んじゃったら、葉琉が診察受けられなくなるでしょ?」 「…いや、別にいいけど」 「定期健診受けてないんでしょ?安城先生が嘆いてたよ?」 「……いや、まぁ、うん」  思わず視線を海に逃す葉琉。隣から呆れた視線が刺さる。 「検診くらいちゃんと受けなさいよ。今は私よりも高位のSubでしょ?ストレスのコントロールもそうだけど、抑制剤も量が変わってるだろうから」 「……」  心配してくれる彼女に、葉琉は少し眉尻を下げるだけで何も言わない。そんな彼を見て、彼女は葉琉以上に悲しそうな表情になる。 「…あとどれくらいで終わりそう…?」  沈黙が支配していた二人の空間に彼女のか細い声が大きく聞こえる。特に何も言わない葉琉に彼女は葉琉の右手を弱く握った。 「…くれぐれも危険な真似はしないでね」 「……しないつもりだよ」 「それ、絶対するでしょ」  斜め下から睨むような彼女の視線に葉琉は握られた右手に視線を落とした。静かに怒っている彼女が愛おしく、そしてこの時間が今は自由に訪れない事実を突き付けられる。 「今度北海道に遊びに行くから、その時は純平さんと一緒にお菓子を作ってくれると嬉しいかな」 「任せてよ。絶対美味しいの作るから」  暖かな雰囲気が二人を包む。もう先ほどの鋭く冷たい空気はなかった。 「あ、ねぇねぇ。新しい恋人ができたんだって?」 「…純平さんに聞いた?」  急に知的好奇心に満ちた瞳で葉琉を覗き込む彼女。その迫力に若干押されつつ、彼女の情報源が誰なのかも悟った。  まだ言ってなかったはずなんだけどな…。 「なんで言ってくれないのよ。やっとできた私の大切な葉琉の恋人だよ?!」  右肩を軽く押される。興奮しているのか怒っているのかよくわからない彼女に、葉琉は苦笑するしかない。 「ちゃんと会って言いたかったんだ。だから許して」 「…で、どんな人?」  紅茶を一口飲んで少し落ち着いたのか、しかし瞳に燃える好奇心の熱は増しているように見える彼女が冷静に聞いて来る。 「優しい人かな。男前で紳士的で自分よりオレの事を心配してくれる。けど、必要以上にオレの中に入ってくることはないから不快感は一切ない。…まぁ、素敵な人だよ」  これまでの人生で初めて葉琉の惚気を聞いた彼女は、さっきの好奇心とは比にならないほど瞳を輝かせた。 「本当に素敵な人と出会えたんだね」 「…ほんと、奇跡だよ」  幸せそうに微笑む葉琉。そんな葉琉を見て幸せそうに興奮する彼女。院瀬見本邸内の別邸にいた頃のように二人とも幸せそうだ。 「…じゃあ今度会わせてね。ちゃんと葉琉から紹介してくれないと私拗ねるからね?」 「はは、分かった」  丁度話し終わる頃、彼女の迎えの車が葉琉の車の後ろに着く。最後にギュッと葉琉を抱き締めた彼女は、笑顔で去っていった。 「……今度会う時は紫桜の事紹介するよ、雛」  雛が消えた後を見つめ呟いた葉琉の小さな喜びは、誰に聞かれる事もなく消え去った。 ―――――――――― さて、まさかの雛ちゃん登場  

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