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第1話
泥と熱
すれ違うと、長谷川からはいつも土の匂いがする。僕は静かに息を飲む。肩がぶつかって、悪りぃと声をかけられただけで、喉が焼けつくように熱くなって声は引っ込んだまま出てこなかった。
「感じわる」
長谷川の隣にいるやつが僕を睨んだ。長谷川は一瞬だけ僕を見た。そして気にしないと言うようにヘラヘラと笑って、話の続きを再開させていた。
長谷川が僕を見た。その事実だけで、僕は逃げ出したかった。視界になんて入らなくていい。存在なんてずっと知られたくない。やっと吐き出せた息は燃えているように熱かった。
スタートの笛が鳴って走りだす瞬間を、二階の図書室から見送れるのもあと僅かだ。九月になれば長谷川は陸上部を引退する。きっと後輩や同級生からたくさんの花を貰って、たくさん惜しまれながら、あっさり走るのを辞めるのだろう。僕は長谷川が走るのを見るのがすきだった。空気を二つに裂いていくように真っ直ぐ迷いなく突き進む姿が美しいと思った。しなやかな腕のふりも、力強く地面を踏みしめる足も、なだらかに盛り上がった筋肉も、僕の身体のどこにもないものを、誇示せず当たり前のように持っている長谷川のことを美しいと思った。同時に泥のように滑った自分自身を恥ずかしく思う。
グラウンドから歓声があがる。見おろすと、長谷川が部活仲間たちに囲まれて笑っていた。「やったな」「おめでとー」そんな弾んだ声の中心に長谷川はいた。自己ベストがでたらしい。喉の奥が見えそうなほど恥ずかしげもなく口を開けて笑っている。しらない誰かが長谷川の肩を抱く。また次の誰かが彼の茶色い髪をくしゃくしゃと撫でつける。
もし僕がもっと明るく笑えていたら、上擦らずに声を出せていたら、あんな風に簡単に長谷川に触ることが許されたのだろうか。長谷川の髪は細く柔らかそうだ。腕は筋肉で硬いだろう。そしてきっと腹は冷たいから、僕は彼に触れる自分の掌の熱さが恥ずかしくなるはずだ。行き場のない熱が下半身に集中する。誰もいない図書室は自分の焦った呼吸音がいやになるほど聞こえてきた。震える手を下着の中に入れる。長谷川から香る土の匂いを思いだす。僕の名前を呼ぶ声を想像する。長谷川の手が僕自身の熱を吸い取るかのように掌をはわせて上下にしごく。骨ばった指の感触はおなじ男なのに、僕よりもずっと大きかった。額の汗が頰にゆっくり流れた。僕は思い切り息を吸い込み、土の匂いを全身に感じる。僕は身をよじるけれど、長谷川は笑ったまま離さない。手の動きが次第に早くなり同時に息があがる。すきだよ、目の前の唇がたしかにそう動いたとき、僕の掌は白濁に染まっていた。
僕の内側から溢れ出した、どろどろの誰にも見せられないそれは、僕のすべてだった。長谷川をすきだという、僕そのものだった。
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