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第2話

 雪はかわいいね。  幼い頃、僕の頬を撫でて母はよく嬉しそうに言っていた。最初は単純に母親が笑っていることが嬉しかった。母親が買ってきたワンピースを着て、くるりと回転してみせると拍手をしてくれた。僕には得意なことがなかったから、喜んでくれるならとすすんでスカートも履いた。けれども父親は眉をひそめて見ていた。父からはサッカーボールや野球のグローブや柔道着なんかを与えられたけれど、なにひとつ馴染まなかった。小学校の高学年になると僕より背の高い女子が何人もいる教室に居心地の悪さを感じるようになった。中学にあがり、いつまでも袖の長い学ランを着ている僕の成長を父親はじれったそうに見ていた。父が僕をあきらめるのを待ちながら、僕は父の願う僕になれないまま高校三年生になった。スカートもワンピースもさすがにもう着られるサイズはなくなった。だけど、かわりに拍手してもらえるようなものは見つけられなかった。  長谷川を目で追うようになったのは、こんな人間だったら父は嬉しかっただろうなと思ったからだ。できるだけ顔が見えないように前髪を伸ばした僕とは違い、すっきりと整えられた茶色い髪と、健康的に焼けた肌、食堂のおばちゃんたちにも陽気に声をかけるくらいの人懐こい性格。僕だって、ほしかった。妬みを含んだ羨望は、やがて欲望にかわり、いつのまにか長谷川の性質ではなく彼自身を求めるようになった。  おなじクラスになったことはない。だけど教室にいると、廊下からはいつも彼の名前を呼ぶ声がきこえてくる。学食にいく誘いや、練習メニューの相談、放課後のカラオケの誘い。彼もまたたくさんの人の名前を呼ぶ。シュン、アキラ、ケイスケ、ユウジ、トモヤ、マイちゃん、ユリコちゃん、ミキちゃん。そのほかたくさんの名前を呼んでいるのを聞いたことがある。よく通る芯のある声だ。僕は神経を集中させて雑音から彼の声だけを探り当てる。  長谷川凉。彼らしい名前だと思う。走ったときに吹く風が感じることができる気がするからだ。僕は声にだすことなく、だけどこの先ずっと忘れられもしないだろうその名前を、撫でつけるように反芻する。  図書室はすきだ。誰もいないわりに、冷房がきいていて、なんの視線も気にせず、なんの音も意識せず、過ごすことができるからだ。それに放課後になればこっそりグラウンドを見下ろせる。昼休みはいつも図書室で過ごす。大半は寝て過ごしている。食べ終えた菓子パンの袋を折りたたみ、今日も長机に突っ伏してゆっくりと意識を手放していく。効き過ぎているくらいの冷房で冷えた身体を、カーテンから漏れる陽ざしが暖めてくれて心地いい。 誰かが椅子をひいて、前の席に座った気配がした。顔をあげると、長谷川が教科書とノートを広げていた。目の奥がちかちかと光る。喉が縮こまってうまく息ができない。どうして。なんで。頭の中に疑問が散らばって収拾がつかなくなる。 「ごめん。起こした?」 「あ、いや。べつに」  長谷川が僕を見ている。髪色とおなじように少し黄みがかった茶色い瞳だ。 「俺ね、陸上部なんだ。今まで部活ばっかやってたから、受験勉強なんもしてねーの。そろそろやばいなと思って。ね、きみ勉強できるひと?」 「あ、いや、べつに、あ、えっと、真ん中くらい」 「真ん中? ああ、学年順位のこと? 俺のまわりバカばっかりだからさ教えてよ」  僕の膝は震えていた。どうして目の前に長谷川がいるのか。なぜ自分と喋っているのか。視線の行き場がわからずに、ただ彼の浮き出た喉ぼとけを見ていた。 「教えられるほど頭よくないよ」 「でも図書室にいるくらいなんだから俺よりは絶対いいって。大丈夫。顔も賢そうだし」  そんな無茶なと思った。でも断ったら、きっと一生話す機会なんてないだろう。一緒にいられる口実を長谷川のほうから持ち掛けてきてくれるなんて思ってもみなかった。引き受けてしまうと、この先ずっと死ぬまでこれ以上のいいことは自分の人生におこらないだろう。だけどそれで構わないと思った。長谷川のいない人生のなかで起こるいいことより、この先なにもいいことがなくても構わないから、今この一瞬のわずかな時間を長谷川といたかった。僕は、ちいさく頷く。 「やった! 決まりな!」  四列もある長机から、わざわざ自分の正面に座った理由なんて、きっと図書室にいる真面目そうな人間を捕まえたかっただけで、自分自身が選択されたわけじゃないことなんて明らかだ。だけど人懐こい笑顔を間近で見ると、勝手に耳の裏がじりじりと焼けていくようだった。長谷川は鼻歌を歌いながら教科書のページをめくる。手の甲に浮き出た血管に目を奪われる。自分は夢の中でこの手に触れられていたのだ。だけど、夢の中よりも、ずっと大きく骨ばっている気がする。 「ここなんだけどさ」  声をかけられて、あわてて僕は教科書に視線をうつした。今は余計なことをできるだけ考えないでおこう。長谷川にはなにも気付かれたくない。僕は姿勢をただして、長谷川の指さす問題文を読んでいく。  自分は人に教えられるほどの人間じゃないと思っていたけれど、長谷川はほんとうに何も分からないから基礎から教えてくれとせがむので、自分でも教えてやることができた。方程式を説明しながら解くだけで、大袈裟なほど関心した。 「あーなるほどな。俺も習ってるはずなのに全然記憶にねーわ」 「ひとつひとつ、ゆっくり覚えていけば大丈夫だよ」  長谷川が上目で僕を見る。 「おまえ優しいな。ていうか教えてもらってるのにおまえとか言っちゃ悪いな。名前なに?」 「ふ、藤原雪」 「ゆき?」 「うん」 「ゆきって、空から降る?」 「そうだよ」 「そっか。肌白いもんな、俺なんて日焼けすごいからさー」  長谷川は自分の腕を見て言う。母親はべつに僕が色白になることを予想していたわけではないし、僕も名前のとおりの身体でいようとしたことは当たり前だけど一度もない。なのに、そんなことを真剣に呟く長谷川がなんだかおかしかった。 「俺は長谷川。でもリョウでいいよ。涼しいって書くんだ」  知ってるよ、そんなこと。ずっと、呼んでたんだ。きみに知られないように。声にならない声で、ずっと。 「ここは静かだし冷房ついてて最高だな。部活もそろそろ引退だし、俺も真面目に勉強しないと。夏の大会終わったら、本格的に受験だもんなあ。教室はやっぱりみんなと話しちゃうからさ」 「周りに人が集まってくるのはいいことだよ」 「雪はずっとここにいたの?」  長谷川が下敷きで首元をあおぐ。前髪が浮いてすっきりとした眉が見えた。額が見えるとすこし幼く見える。 「そうだよ」 「うるさいの嫌い?」 「苦手かな」 「俺、明日もここに来たいんだけど、来ていい?」 「うん」  やった、と笑った顔が可愛かった。  放課後、いつも通り図書室からグラウンドを見下ろして長谷川を見つけた。笛の音と同時に走り出す。眉根を寄せて歯を食いしばり、前へ進む。綺麗なフォームを保ったまま走り抜けていく。ほんとうに、あの長谷川と話したのだろうか。ほんとうに、一緒にいたのだろうか。長谷川を目で追い過ぎて、白日夢を見ていたのかもしれない。そんなことを考えていると、ゴール地点で膝に手をつき肩で息をしている長谷川と目が合う。眉根の力がほどかれた気の抜けた笑顔で手をふられる。全身が熱くなった。遠くからでも赤くなったのがバレるかもしれない。僕は咄嗟にしゃがみこんだ。 こんなの無理だ。いつか気付かれてしまう。ずっと見てた。焦がれていた。あの腕に勝手に抱かれたりした。なのに急に現実になって、どうしたらいいのかわからない。

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