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第3話

 次の日は図書室にいけなかった。僕はきっと長谷川を待ってしまう。あからさまに待っていた顔をしてしまう。こなかったら、こなかったで、勝手にひどく落ち込んでしまう。それも怖かった。  昼休みの騒がしい教室にいるのも慣れなくて、校舎内をさまよった果てに、誰もいない屋上にたどりついた。重いドアを開けると、一番高いところから射す夏の日差しが眩しかった。日陰になっているところを見つけて仰向けに寝そべった。空が高い。長谷川はどうしているだろう。僕のことを怒っているかもしれない。さみしいけれど、それで構わない。あの一瞬だけでも話せてよかったのだ。長くはいられない。僕は僕のことを隠し通せる自信がない。 「なんで逃げるんだよ、雪」  長谷川が汗で濡れた髪をかきあげて僕を見下ろしている。 「どうして?」 「どうしてって、昨日の放課後も無視するし、俺なんかしたかなって。やっぱ図書室で居座ったのまずかったかなって」 「ごめん、違うんだ。長谷川はなにも悪くないよ。ごめん。その、なんていうか、人と話すのに慣れてなくて」  長谷川は大きく息をついた。 「俺なんか傷つけること言ったかもって昨日から超心配した。今日だって図書室にも教室にもいねーし、めっちゃ探したわー」 「ごめん」 「いや、いいよ。でもなんも言わないで避けるのはもうやめてくれよ。心配するし、俺も結構傷つくしさ」  傷つけてしまったのか。驚いた。傷つくのか。僕を探して走ったの? 「ごめん、もうしない」 「うん」  長谷川は笑った。僕のとなりに寝そべってノートと教科書を広げる。  今もノートをめくる長谷川の指に、濡れた髪に、焼けた首筋に、触れたいと思ってしまう。なにも知らずに分からないところを訊いてくる声が愛おしい。でも僕は少しでも長くいられるように、そんな気持ちを全部飲み込んで、なんでもないようにふるまうと決めた。長谷川を傷つけたくなかった。僕のほんとうの気持ちを知ると、今以上に長谷川は傷つくだろう。そんなのはもう嫌だった。 「とりあえず、この公式は絶対に覚えてて。これさえ覚えとけば、あとは当てはめるだけでなんとかなると思う」 「そっかー、なるほどなー」  教科書を見る僕の顔に視線を感じて顔を上げると、長谷川がじっと見ていた。 「なに?」 「雪って母親似?」 「なんで?」 「どことなく、可愛い顔してるから」  心臓がびくりと大きく跳ねた。肌が熱くなる。 「うるさいな」  長谷川に見られないように赤い顔を隠すように顔をそむけた。長谷川のからかうような笑い声が耳のすぐ近くで響く。長谷川は仰向けになって身をよじり笑っている。 「しつこいなあ!」  上体を起こして、いつまでも笑い転げている長谷川を見下ろすと、めくれたシャツから腹の下に拳ほどの大きさの紫色の痣があるのが見えた。舌が乾いていく。なにか言葉をだそうと思ったのに、感情と声がもつれあって、うまくいかない。 「えっち」  痣を見ていた僕に気付いて、長谷川はシャツの裾を引き下げた。 「母親が男の趣味悪いんだよなあ」  背を向けて身体を丸める彼がどんな顔をしているのか分からなかった。丸くなる背中を撫でようとした手を理性でとめた。長谷川が持っているもの、それをどんな風にして手にしてきて、どんな想いで毎日を過ごしているか、想像もせずに軽率に羨ましがっていた僕に今の彼の背中を撫でる資格はない。 「誰にも言わないから」  細く震える声は頼りなくて、やるせなかった。 「ありがとう」  長谷川の声はもっと小さかった。僕を見て弱々しく笑う。今までもこんな顔をしていたことがあったのだろうか。それを僕はずっと見逃し続けていたのだろうか。ずっと見ていたと思っていた。

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