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第4話

 すれ違うと長谷川は声をかけてくれるようになった。僕は土の匂いを静かに胸に吸い込み会釈するだけで精いっぱいだ。となりにいる長谷川の友達が「知り合い?」と不思議そうにする。それに答えず長谷川は僕を見て目を細めて笑う。一秒後にはもう背を向けて友達と他の話をしながらどこかへ行ってしまう。僕の胸の中には土の匂いが残る。  昼休みまでに長谷川に説明する問題をノートにまとめることを始めた。僕といる時間をすこしでも無駄だと感じてほしくなかった。もうなにも見逃したくはなかった。笑っててほしいと思う。どんな些細なことでもかまわないから。今日一日をどうか笑って過ごしてと思う。  昼休みの図書室に長谷川がきた。僕のところにきた。本物だ、と馬鹿なことを思ってしまう。僕の前の席に当然のように座る、そのひとつひとつの仕草が嬉しかった。 「なにそのノート?」  僕の手元におかれたノートを不思議そうに見ている。 「僕もそこまで賢くないから今日やるところをまとめたんだ」  言ってしまったあとで後悔した。そこまで求めていなかったらどうしよう。こういうのは重いのだろうか。気持ち悪いと思われたら。嫌な汗が背骨をなぞるように落ちていった。 「まじで?」  長谷川は丁寧に目を細めていき、嬉しそうに笑った。僕は胸の奥が焦げていくような感覚になるのを感じながら、長谷川を見ていた。 「嬉しい、ありがとう。頑張るよ」  冷房をつけているために閉じ切っているはずの図書室のドアが、突然開く音がして、びくりと肩を揺らし振り向くと、女子生徒が三人立っていた。 「あの、長谷川先輩がここに入ってくるのが見えて」  ショートカットのすこし気の強そうな女の子が一歩前に進みでる。少し後ろで赤く俯いている女の子も、笑いをかみつぶしている女の子も、みんなどこかで見たことがある。 「どうした?」 「長谷川先輩、ちょっとだけ時間もらっていいですか?」 「あの、絵里子が先輩に話したいことがあるみたいで」 「部活中はみんないるし」  彼女たちの視線は僕を通り越して長谷川に集中していた。  長谷川は、僕にちょっとだけ行ってくると小さな声で呟いて彼女たちと図書室を出ていった。出ていく背中を見て、彼女たちが陸上部の部員であることを思い出した。長谷川をここから見下ろしているときに、見ていた顔だった。  ノートの端をいじりながら、そりゃそうだよな、と思う。僕より近くで長谷川の走る姿を見ていて、すきにならないわけがないよな。最後まで後ろで赤く俯いていた子の声はわからなかった。きっと可愛い声をしているのだろう。長谷川よりもずっと小さかった。彼女を見下ろして、長谷川はどんな気持ちなんだろう。かわいいと思うのだろうか。それはきっと僕にいった「かわいい」とは違う角度だろう。こめられる意味もまったく違うだろう。黒く長い髪をすくって、白い頬に手をあてて、顔を近づけて、愛しいと思うことがあるかもしれない。  待っていても長谷川は戻ってこなかった。昼休みが終わるチャイムが鳴って、僕は天井を仰ぐ。  女になりたいわけではないけれど、もし女の身体だったら、長谷川に触れてもらえていたのだろうか。スタートラインくらいには立てていたのだろうか。  自分の身体が嫌いだった。女みたいで父親に求められていたものと違っていたから。だけど、どれだけかわいいと言われても、母親にワンピースが似合うと褒められても、僕の身体は固く骨ばっていて、女みたいなのに、どうあがいたって男であるこの身体を、僕は今日、今までより強い気持ちで呪いたくなった。 放課後は雨だった。天気予報でも伝えられていなかったから、教室ではみんな憂鬱な顔をして、分厚い灰色の雲から雨が落ちてくるのを窓から見上げていた。どうしよっか? もうちょっと待っとこうよ。そうだね。そんな声があちこちから聞こえる。僕は紺色の折り畳み傘がはいっているカバンを肩にかけて教室を出た。 「雪ッ」  傘を広げようとしていると声をかけられた。長谷川がいた。歯を見せて笑って、目をゆっくりと細めた。 「帰るの?」 「そうだよ」  僕は長谷川を見ていられなかった。閉じたままになっている紺色の傘に視線をやった。 「入れてよ」 「え?」  長谷川の指は僕の傘を指していた。 「傘持ってきてないんだよ」  あの子と帰らないのだろうか。長谷川のことをどこかで待っているんじゃないだろうか。 「部活は?」 「グラウンド使えないし休みになった。だめ?」  小首をかしげる長谷川はずるい。いや、なにもずるくないかもしれない。僕が勝手に翻弄されているだけで。僕は傘をひろげて、一歩進み長谷川の方を見た。 「やった」  大型犬が嬉しそうにしっぽを振るみたいに、すぐにとなりにきた。男二人が並んではいる折りたたみ傘は予想以上にせまく、長谷川の身体がたまに僕にぶつかるたびに、その重みと熱に苦しくなった。雨の日でも長谷川からは土の匂いがする。洗い流されるわけではないのだと思った。図書室でひとりこの身体と匂いをいつも想像していた。窓の上からいつも見下ろしていた。遠かった。遠かったからこそ、あんなことができていたのかもしれない。今は近くて、ただ、苦しい。  一緒に歩いていると長谷川がよく声をかけられるのを実感する。男女問わず僕が知らないたくさんの人が彼の名前を呼んで手を振ったり、ちょっかいをかけたりしては、長谷川はいちいち丁寧に答えていた。 「今日の昼休みごめんな、戻るつもりだったんだけど」  つもりだったんだけど、何なんだろう。あの子と一緒にいたんじゃないか。言えばいいのに。どうして、そこでとめるんだ。 「気にしなくていいよ」 「うん、ありがとな」  傘を打つ雨の鈍い音が長谷川の耳にも届いているだろう。この雨はどんどん僕の心に浸みていく。痛い。 「告白されたんだろ?」  こんなこと本当に聞きたいのか分からない。動き始めた舌が安心を求めてとまらない。その先に安心なんてないのは分かっているのに。 「昼休みに戻ってこなかったから、うまくいったんだと思って」  よかったな、と続けようとしたけれど、それはどうしても言えなかった。 「断った」 「え?」  ほっとした。すぐに、顔を赤くして俯いていた女の子の存在が浮かんだ。泣いているだろうと思った。胸の奥をぎゅうっとつねられている感覚になる。だけど望みなんて大層なものはないけれど、これでまだ長谷川の隣に特別な誰かがいる光景を見なくてもいいのだと思った。 「もったいない」  安心を悟られたくなくて口にした言葉に長谷川は笑った。 「なー可愛かったんだけどなあ」  長谷川の横顔は鼻筋が通っていて、密集した睫毛が目を伏せるとかげを作り、薄い唇がほんのすこし上を向いていて、美しかった。 「でも俺はなんか無理な気がする」  骨ばったてのひらが脇腹を押さえた。制服を脱げば、紫色の痣がある場所だった。目を伏せる横顔も綺麗だけど、すこしでもいいから笑っていてくれと強く思った。 「長谷川は走るのすき?」 「すきだよ。なにも考えなくてすむから」 「僕は長谷川が走っているのすごく格好いいと思うよ。ほかの人とは全然違うんだ。力強いのに、軽やかで。すごいことだよ。だから、なにも無理なことなんてないんだよ」  長谷川が僕を見た。すこし驚いた顔をしている。ひとりで熱くなりすぎただろうか。耳が赤くなっていくのを感じた。気まずくなって唇を結んだ。 「ありがとう」  目を細めて笑ってくれた。低く優しい声だった。  長谷川が誰かの手を取ったら苦しくなるくせに僕はそんなことを思っていた。 僕は覚悟をしなければいけない。長谷川の隣に特別な誰かができること。手を繋いで歩くふたりの後ろ姿を見ることを。それはとてもいいことなんだ、きっと。無理な気がする、と零した今日のことをいつか笑ってくれたら、それは最高じゃないか。でも僕はそのときほんとうに笑える?

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