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第12話 Bitter Sweet Samba ②
「今度こちらの担当をさせていただくことになりました松木と申します。よろしくお願いします。」
新調したばかりの名刺入れから、これまた刷り上がったばかりの名刺を取り出し、相手に差し出す。
一瞬指が滑り、自分が珍しく緊張していることに気づく。
何事もなかったかのように、東京から持ってきた菓子折りを笑顔で手渡した。
「ああ、Z製薬の新しい営業さんね。どうも、村山と申します。あれ、東京からいらしたんですか?」
度の強そうな眼鏡の向こうの瞳が、名刺を確認し、顔を上げた。
「そうなんです。以前は東京支店に勤務しておりまして、この4月から。」
「これ東京の有名なお菓子ですよね。」
会話の滑り出しが比較的スムーズに進み、松木は少しホッとする。
大阪は研修や出張で何度も訪れたことはあったが、やはり勝手が違うので様子を見ながら慎重にことを進める必要がある。
東京で数年間かけて構築した取引先との関係も、また一から築き上げなければならない。
「ひょっとして村山教授も東京におられました?言葉が……」
「そうなんですよ、2年前までは東京のQ薬科大に勤めておりまして……あ、Z製薬なら、飯島さんって知ってる?」
「!」
その人ならホクロの位置から性感帯まですべて知っていますよ。
とは、さすがに言えなかった。
まさか新天地での営業初日から、自分の恋人の名前を聞くことになるとは、予想外で動揺する。
「飯島とは親しくさせていただいておりました。近々本人より挨拶もあるかもしれませんが、実はZ製薬は退社して、この春からX社に勤めているんですよ。」
「え、じゃあ大阪にいるの?会いたいなあ。ちょっと連絡取れない?」
「え……」
『なんでお前のためにただ働きしなきゃならないんだよ』
『だって、村山教授が飯島さんと飲みたいってご所望なんですよ!』
呼び出された飯島は不機嫌そうで、不満たらたらなメッセージを寄こしてきたが、約束の5分前には指定の場所に現れた。
松木に冷たい一瞥を寄こしたかと思うと、瞬時に笑顔に早変わりする。
「村山先生、ご無沙汰しております。私みたいな一営業担当を覚えていてくださったなんて光栄です。」
松木は耳を疑った。
飯島と同じ職場に勤務していたころは、そんな丁寧な口を一度たりとも聞いたためしがなかった。
「わあ、飯島さん、懐かしいなあ。昔はよく助けてもらったよね。Z製薬、退社しちゃったんですね。残念、飯島さんに担当してほしかったなあ。」
「いや、松木にはすべて引き継いでおりますのでご安心ください。もちろん至らないところがあれば、何なりとお申し付けください。私の新しい勤務先のX社も今後御贔屓にしていただければ尚ありがたいですが。」
飯島はスマートな仕草で背広の内ポケットから名刺入れを取り出し、笑顔で名刺を差し出す。
営業で凄腕なのは知っていたが、飯島はキャラが激変し、ほとんど二重人格だ。
「こうしてわざわざお声がけいただいて、お食事にお誘いいただけるなんて。」
会社の飲み会には一切参加しない飯島が、営業相手の誘いには笑顔で応じていることに、松木は仕事と頭では理解しながらも、心がすっきりしない。
「松木君、じゃあそろそろ行こうか。」
松木クン?それは僕のことですか?と思わず飯島に聞き返しそうになった。
「はい、でも飯島さん、お店の予約は19時だからちょっと早くないですか?」
「店の近くに、桜のきれいな公園がありますよね、そこでちょっとだけ花見しましょう。コーヒー、淹れてきたんですよ。」
飯島がステンレスボトルをバッグから覗かせる。
アウトドアで飲もうと、コーヒーメーカーと一緒に購入したものだ。
「あ、いいですねえ。飯島さん、わざわざ淹れてきてくれたんですか?」
村山が顔をほころばせる。
いつも横柄な態度で松木に任せるばかりで、自らコーヒーを淹れたことなど一度たりともない飯島が、村山のために準備してきた。
それも、プライベートで買ったばかりのコーヒーメーカーを使い、二人で使うためのボトルに詰めて持ってきたのだ。
丁寧に紙コップまで持参している。
松木は見知らぬ他人になったかのような飯島の行動を、ただ無言で見守るしかなかった。
村山と三人で食事をし、村山をタクシーに乗せた後、二人は飯島の住むマンションへ向かった。
飯島はもの言いたげに自分のほうをちらちらと見やったが、松木は無視した。
ドアを開け部屋に入ったところで、飯島を壁に押し付け無言で唇を奪う。
「ちょ、待てよ、なにがっついて……」
肩に食い込む指の力に、飯島が顔をしかめる。
息を吸い上げ、舌で獰猛に口腔を犯し、首筋に噛みついた。
「なんだよ、何機嫌悪くしてるんだよ、お前に呼ばれて付き合ったのに。」
「そう、ですね。そうでした、すみません。俺のために便宜を図ってくれたのに。つまんないことに感情的になって、どうかしてるって自分でも思いますよ。」
自分が理不尽な怒りを飯島にぶつけていることに気づき、松木は我に返る。
「正直、嫉妬しました。俺にはあんな風にマメに気を使ったり、笑顔見せてくれたことないし。」
「はぁ?営業スマイルしてほしいわけ?」
「そんな嫌味な言い方しなくても……」
「俺にどうしてほしかったわけ?お前の営業がうまくいくならって、わざわざ出向いてサポートしたのに。だいたい、取引先と色恋なんてご法度なの、お前だって百も承知だろ。」
「そうですね、飯島さんが仕事に忠実だったことも、解ってます。ほんとにすみません、ちょっと、今日は帰ります。頭冷やします。……うっ?」
踵を返しドアに向かおうとする松木の腹に軽い衝撃が走る。
飯島が泣きそうな顔をして松木の背後からベルトを掴んでいた。
「飯島さん、それ、苦しいっす。」
飯島は、口を開いて何か言いかけては口ごもる。
以前だったら、『好きにしろ、勝手に帰れ』くらい言って喧嘩別れしているところだ。
「飯島さん、苦しいからベルト離して。」
「……帰るなんて言うなよ。」
珍しく素直な言葉を口にする飯島がいじらしく、松木は自分の言動に恥じ入る。
「……うん、すみません。そうだ、コーヒーでも飲みましょう、今淹れますから。」
買ったばかりの機械は使わず、手動のミルで松木は豆を挽き始めた。
ハンドルから伝わる感触や音を愉しみ、挽いた豆の香りを吸い込みながら、ドリッパーに均す。
茶道を嗜んでいた亡き祖母が、『お茶を点てると心が落ち着くんだよ。』と語っていたのを松木は思い出す。
作法はなくとも、本質は似ているのかもしれない、などとぼんやり思いを馳せる。
蒸らした豆に、そっと円を描くように湯を注いでいく。
ちょっとした手間と静かな時間に、松木は心が凪いでいくのを感じた。
「すみません、新しい職場にまだ慣れなくてつい気負っちゃって、焦ってました。その上、飯島さんに頼って甘えながら、飯島さんの営業スキル見せつけられて、おまけにあの先生と親しそうだから嫉妬した。俺って小さい男だな。」
ソファに座る飯島にマグカップの片方を手渡すと、松木は隣に腰を下ろした。
「珍しいな、お前が仕事でそんな弱音。」
「俺、飯島さんが思っているほど大人でも包容力があるわけでもないですよ。」
松木はコーヒーを啜り、ふっとため息を吐いた。
飯島は、ちょっと戸惑ったような顔をして首をかしげる。
「あの先生さ、数年前までお得意さんで、研究室行くといつもコーヒーのいい香りがしててさ、よくごちそうしてもらって。それだけなんだけどな。次に営業行くとき、手土産にいい豆持って行ってやれよ、だからって仕事が取れるとは限らないけどな。」
「別に疑ってるわけじゃ……でも、村山教授ってスマートで知的な感じがして、飯島さんと気が合ってたし、すごく釣り合っていたよね。俺は、飯島さんに釣り合いたくて、肩並べたくて、ずっと必死で背伸びしてきたのに。」
飯島はコーヒーをサイドテーブルに置くと、自分の手を松木の頭に乗せ、くしゃくしゃと髪を優しくかき乱した。
「背伸びなんて必要ない。お前は最初から俺なんか飛び越えてるし。でも、たまには甘えたっていい……と思う。」
思わず飯島に顔を向けると、飯島はきょろきょろと視線を泳がせた。
松木は身体をずらして横に倒れると、飯島の膝に頭を乗せた。
松木の頭を、飯島の手が躊躇いがちに撫でる。
「じゃあ、今夜は泊ってもいい?」
「うん、まあ……ていうか、ここは半分お前の家だって。さっさと越して来いよ。ああ、もう、めんどくさい。」
いつの間にか飯島の顔は真っ赤だ。
「ね、飯島さん、お風呂一緒に入ろう。背中流してあげる。飯島さんも俺のこと洗って。」
「ばか、甘えるな。」
「えー、さっき言ったことと違う。」
「ばか……」
飯島は困ったような笑みを浮かべながら、松木の髪を弄ぶ。
「飯島さん、ベッドに行く?」
「ちょっと待てよ、せっかく淹れてもらったんだから、これ全部飲んでから。もうしばらく膝で寝てろよ。」
甘やかされるとは、なんと気分の良いことか。
松木は何とも言えない幸福感に満たされる。
「飯島さん、知ってる?コーヒーのカフェインって陰茎の動脈を弛緩させて血流をよくするから、ED治療薬と似た効果を期待できるって。飲み終わったらきっとすごいよ。」
「ああ、もう、このばか!お前、ほんとにバカだな!」
額にデコピンを食らわせて天を仰ぐ飯島に、松木は笑いながら手を伸ばした。
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