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中編

温かく柔らかそうな金色に誘われて、男は躊躇いがちに、指を伸ばした。 少年の髪は、思ったよりも柔らかく、サラサラと指の合間をすり抜ける。 リンデルは、ほんの少しくすぐったそうに目を細めた。 (……もっと、触れたい……) カースは黙ったまま、二度、三度と繰り返し少年の髪を撫でる。 リンデルは大人しく撫でられながら、男の顔を見上げていた。 右眼の森の色は、暗い夜の森から明け方の朝焼けの中へと、色を和らげていた。 左の空色も、今はどこまでも透き通るような色で、思わずうっとりと見惚れてしまう。 ふ。とその目が少年を見た。 目が合って、男が微かに戸惑いを浮かべる。 「お前、俺の目がそんなに珍しいか?」 「えっ、あ。そういうわけじゃなくて、その……」 リンデルが、恥ずかしそうに頬を染めて目を逸らす。 「綺麗だな、って、思って……」 少年の伏せた睫毛が、ふるふると小さく揺れる。 少年に手を掴まれたままだった左手が、キュッと握られた。 少年は照れているようだった。 俺のこの目が綺麗だなんて、そんな事あるわけがない。と男は思う。 気味が悪いとか、そんな言葉しか投げられた事はなかったし、自身もそう思っていた。 生まれた俺を見て、城の占術師は、呪われた子が生まれてしまった事を大いに嘆いたらしい。 父である国王にも、俺の左右で違うこの眼は、呪いの証だと、すぐに殺すべきだと告げられた。 それなのに、両親は俺を殺さなかった。 ……だから、国はあんな事になったんだろう。 こんな命など、躊躇わず潰してくれればよかったのに。 カースの瞳が酷く暗い色に変わったのを見て、リンデルは慌ててその手を引いた。 「!?」 男は不意に手を引かれ、ストンとベッド脇に膝を着いた。 「お前、急に何ーー」 「ご、ごめんなさいっ。綺麗って言われるの、嫌だった?」 見れば、金色の瞳にじわりと涙が滲んでいる。 「カース、大人の男の人だもんね、カッコイイの方が良いよね?」 男は、わたわたと見当違いに慌てる少年を、宥めるように撫でた。 「そんなんじゃねぇよ。いいから、落ち着け。傷に響くぞ」 少年は、やはり痛んだ体により与えられた快感に、声を殺して息を荒げていた。 「っ。ぅ……」 「ほら……急に動くからだ」 快感を堪えるように、体を縮めて耐える少年がやけに小さく見えて、男はすぐ近くに来てしまった少年の頭をそっと抱き寄せた。 「ふ、あ……」 少年が、小さくぷるると震える。 胸元に抱いた少年の頭を、なるべく刺激しないように、ゆっくり優しく撫でていると、ギュッと目を閉じ眉を寄せていた少年が、次第にとろんとした顔に変わってくる。 「もう寝ろ。明日が来てしまうぞ」 カースの優しい声に、少年が「うん……」と答えて間もなく、その呼吸が寝息に変わる。 しかし、寝ついた少年の手は、まだ男の手を握っていた。 (……どうしたもんかな) カースは困ったように、けれど口元をほんの少し綻ばせ、苦笑した。 ---------- 「リンデル? 大丈夫?」 お姉ちゃんの声がして、僕はそちらを見上げた。 心配そうに覗き込む姉の後ろには、見慣れない景色。 ここは……どこだっけ。 ああ、そっか。カースのテントだ。 視界に入る黒髪にそちらを見ると、僕の隣にはカースが寝ていた。 「あれ、なんで……?」 首を傾げる僕に、お姉ちゃんが答えた。 「私は先に寝てしまったけど、その人、リルデルを連れ帰ってから、もの凄く後悔してたみたいだから……。リンデルが起きるまでずっと起きてたんだと思うわ。  リンデル、体は……まだ痛い……?」 「えっと、ううん、痛くないよ」 慌てて首を振ると、姉はほっと息をついた。 「ごめんなさい、リンデル。あなたを辛い目に遭わせてしまって……」 姉の目にじわりと涙が浮かぶ。 「お、お姉ちゃん泣かないで、僕は大丈夫だからっ」 ガバッと体を起こすと、お尻の方から甘い感覚が響いた。 「……っ」 声を上げないように、息を詰めると、姉がハッとして顔色を曇らせる。 「まだ痛いのね……。無理しないで、私のせいで……」 「違うよお姉ちゃんっ、痛いんじゃなくてーーっっ」 ……なんて言えばいいんだろう。 痛いわけじゃないんだけど。 僕は、この感覚をどう言葉にしたらいいのか、まだ知らなかった。 「……」 「……」 「リンデル?」 僕が俯いたまま顔を赤らめていると、お姉ちゃんが心配そうに覗き込んだ。 「だっ、大丈夫っ、とにかく大丈夫だからっ、お姉ちゃんは、もう気にしないで!」 強くそう言い放つと、お姉ちゃんはしばらく何か言いたげに僕を見ていたけれど、 「うん……。わかったわ。ありがとう、リンデル」 と感謝の言葉を伝えて、テントの隅へと戻った。 見れば、そのあたりにお姉ちゃんの上着や鞄が並んでいる。 ひとまずの自分スペースと言ったところなんだろうか。 もぞり。と隣で黒髪の男が寝返りを打つ。 「……耳元でギャーギャーうるせぇな……」 ボソボソと呟く文句は、寝起きだからか、いつもより少し掠れた低い声で、僕はなんだかドキッとしてしまう。 「ご、ごめんなさい……」 「俺ぁもう少し寝るからな。起こすなよ」 カースはそう言い残すと、僕に背を向けてしまった。 カースは目を閉じたままだった。 あーあ、あの眼を見られるかと思ったのに、残念だな……。 もう眠くはなかったけど、座っているとお尻のあたりがどんどんおかしくなってくるので、僕も、もう一度横になる。 「……っ、ん……っ」 なるべく声を漏らさないように、ぐっと息を飲み込んで、しばらく耐えていたら、ふわりといい匂いがした。 なんの匂いだろう。 爽やかな草のような、花のような匂い。 カースが僕が起き上がった拍子にめくれてしまったらしい布団を引き上げる。 あ、またいい匂い。 そっか、この匂いはカースから漂ってるんだ。 僕は、背を向けて寝ている男の、自分よりもずっと広い背中にそうっと顔を寄せてみる。 花のような匂いと、カースの匂いが混ざって、なんだかとっても落ち着く匂いがする。 どうにも我慢できなくなって、すりすりとその背に顔を突っ込む。 なんだろう。すごく安心する……。 僕は、しばらくそのままカースの背にくっついていた。 「……リン、デル?」 戸惑うような、低い声。 おもむろに、カースがぐるりと僕の方を向いた。 「お前……何してんだ」 半眼で僕を見る、緑と青の瞳。 「えへへ」 僕はなんだか嬉しくなって、笑ってしまった。 反対に、カースはちょっと引いているけれど……。 「だって、カースいい匂いがして、安心するんだもん」 「何だよそれ……」 疲れたように返事をして、男がまた目を閉じる。 あ。また目閉じちゃった。 ……でもカース、くっついたらダメって言わなかったよね。 嫌だとも言われなかったし……。 ……いいのかな? 僕が、くっついても。 僕はしばらく考えてから、そうっと男の胸元に顔を寄せてみる。 カースはほんの少し目を開けて僕を見ると、また閉じた。 何も言われなかったことにホッとしつつ、その胸にぴたりと寄り添って、僕も目を閉じる。 ---------- 「よぉ、リンデル。生きてっか?」 お頭は、じわりと口端を上げて、僕にそう言った。 僕はいつの間にかまた寝てしまっていたようで、顔を上げた時には、お頭と僕の間にカースが立っていた。 テントに入ってきたばかりなのか、入り口付近に立っているお頭が、僕とお姉ちゃんを眺めてから、カースに視線を戻す。 カースの前までお頭がズカズカと歩いてくると、カースは顔を少しだけ背けた。 「俺の言いたい事が、分かるよな?」 「……はい」 「なんだ、やけに素直に従うじゃないか」 お頭はちょっと驚いたような顔をして、それからククッと喉の奥で笑うと 「お前が俺の言う事何でも聞くってんなら、そっちの二人には手を出さねぇって約束してやるよ」 と、心底楽しそうに、眼を細めて言う。 カースの背中を見ていた僕には、カースがホッと背と肩の力を抜いたのがわかった。 「じゃあな。せいぜいゆっくり休んでろよ、リンデル」 お頭は、僕に目を合わせて、口端だけでニッと笑うとテントを去った。 「……カース、大丈夫?」 僕はなんだか急に不安になって、思わず声をかけてしまう。 「お前が気にする事じゃない」 カースは振り返らずに答えた。 でも……僕達のために……。 僕達のせいで……。 カースが何か、やりたくない事をやらされるのだとしたら、僕は嫌だなと思う。 お昼ご飯の後、お姉ちゃんはカースに連れられてお仕事を覚えに行った。 しばらくすると、カースが一人でテントに戻ってくる。 「あ、おかえりカース。お姉ちゃんは?」 「調理場に置いてきた。夕飯には食べ物持って帰ってくるだろ」 カースは木箱の蓋を開けて、何やら取り出しながらこちらを見ずに答える。 「そっかー。お仕事してるんだね。僕も早く色々覚えたいなぁ」 「……前向きだな」 「うん! 僕のいいところだって、お父さんが言ってたよ」 「そうか……。良い、親父さんだな」 男は少しだけ動きを止めて、わずかに目を細めて言った。 カースはこんな風に、僕たちのことを時々さらっと褒めてくれる。 それがどうにも、盗賊には不似合いな気がして、僕は思わず疑問を口にする。 「カースは、どうして盗賊になったの?」 カースは取り出したものを麻袋に詰めながら答える。 「お前と同じだよ。……こうするしか、なかったんだ」 「僕は違うよ?」 僕の言葉に、カースが初めてこちらを見た。 「僕は、カースが選ばせてくれたから、自分で選んでここに来たんだよ」 「……そんなの、選択肢じゃねえだろ。生きるか死ぬか聞かれりゃ、誰だって……」 「でも、僕が行くって言わなかったら、お姉ちゃんはきっと死ぬ方を選んでたよ」 カースの森と空色の瞳が揺れる。 「それだけ、カースの用意してくれた選択肢は、素敵だったんだよ」 僕は、わざとカースと同じ、ちょっと難しい単語で答えた。 頭の隅に、昨日のゼフィアの言葉が蘇る。 ……多分、多分だけど、カースは本当は、自分が拾われるときに、そう言ってほしかったんだろうな……。 僕を、驚いたような顔で見つめるカースに、精一杯柔らかく微笑みを向ける。 「……っ」 カースが、僕から思い切り顔を背けた。 「……俺は、帰りが遅くなるから、夕飯食べたら自分たちで寝とけよ」 そう言って、カースは振り返らずにテントを出て行く。 「いってらっしゃい」と僕はその背に声をかけた。 カースの態度は素っ気なかったけど、男の浅黒い頬が少し赤くなっていたのが僕には分かった。 カースの出て行った後に、扉代わりの布がヒラヒラとその余韻を残しているのを、僕はなんとなく嬉しい気持ちで眺めていた。 ---------- 一時的に作られた簡易な盗賊の里の中を、俯いたまま、カースは足早に歩いていた。 彼は動揺していた。 自分にしか分からないと思っていた事を、会って間もないあんな小さな子に、容易く見破られてしまったようで。 誰かに分かってもらおうと思った事すら、未だかつて、一度だって無かったというのに。 あんな、小さな……。 里を抜け、林の中で男は足を止めた。 自身の手を見つめる。 その指には、あの少年のふわふわと柔らかな髪の手触りが、まだ鮮やかに残っていた。 麦穂のような黄金色の髪。 それと同じ色で煌めく瞳。 そのどちらもが、いつでもあたたかく輝いていた。 それらが揺れて微笑むと、男には眩し過ぎて、とても直視できなかった。 胸がグッと押さえられるような苦しさに、男は胸元を掻き毟る。 俺の、こんな、左右で全く違う色の目を、あの少年は綺麗だと言った。 親ですら、大丈夫だとか、怖がらなくていいと言うばかりで、結局俺は城の中ではずっと眼帯をつけていた。 それを……、綺麗だと、言った。 うっとりと見つめて……。あれは、心からの言葉だった。 「どうして……」 思わず漏れた自分の声は、驚くほど細く、頼りなかった。 もう一度自身の手を見る。 限りなく、人生を奪われ続けた男にとって、人に触れられる事は、自身を失う事と同義だった。 人に触れられたいなどと思った事はないし、触れたいと思った事も無かった。 なのに、俺は、あの少年にそれを許した。 あまつさえ、触りたいと……、自ら触れたいと願ってしまった。 男は真っ赤に染まった顔を両手で覆い、その場にしゃがみ込む。 頬が、とかじゃない。顔全体が熱い。 耳までが真っ赤になっているのが自分でも分かった。 こんな顔は、最中のあいつにだって見せたことが無い。 どんなに愛を囁かれても、いまだかつてこんな気持ちになる事は無かった。 自分だってこんな……こんな情けない顔をする自分は知らなかった。 「……なんなんだよ、これは……」 男は、生まれて初めての感情を、まだどうする事も出来ずにいた。 ---------- 夜更けに、男が足を引き摺るようにして自身のテントへ戻った時、少年は男のベッドで眠っていた。 「……なんでだよ。お前の寝床はこっちに用意してるだろ……」 小さく呻きながら見た、姉の横に並べておいた少年のためのベッドは、やはり空いている。 かといって、俺があそこに寝るわけにもいかないだろう。 まだ小さいとは言え、レディーの隣は流石にいただけない。 「はぁ……」 男は痛む体を堪えつつ、少年の隣に腰を下ろす。 下腹部へ響いた振動に、苦々しく眉を寄せた。 反射的にさっきまでの情事を思い出しそうになって、かぶりを振る。 こちらが断れないのをいい事に、あいつめ、無茶苦茶しやがって……。 堪えきれなかった悔しさに、ギリっと鳴った奥歯の音。 そう大きい音でもなかったにもかかわらず、少年がふっと目を開いた。 「カース? おかえり……」 その目が開いて初めて、男は、自分が少年の顔をずっと見ていた事に気付いた。 「あ、ああ。ただいま……」 反射的に答えてから、ただいまなどと口にしたのはいつぶりだろうかと思う。 そういえば、この少年は昼頃ここを出る際にも「いってらっしゃい」と口にしていた。 自分のことで精一杯で、それに答えなかった事を、男は今頃になって不甲斐なく思う。 「……俺を、待っていてくれたのか」 思わずこぼれた言葉に、男はハッと自身の口を手で塞ぐ。 が、一度口から出た言葉は、もう戻せなかった。 「い、いや……その……」 「うん、待ってたよ。カースが帰ってくるの」 少年が、ふわりと微笑んだ。 男がその微笑みに魅了されていると、少年は少し恥ずかしそうに目を伏せる。 「でも、途中で寝ちゃった。僕、昼間もいっぱい寝てたから、起きてられると思ったんだけど……」 伏せられてしまった金色が酷く淋しくて、縋るように、カースは指を伸ばした。 するりと目元に触れられて、少年の金の瞳は大きく揺れ、男を見上げた。 「……カース?」 「……」 しばらく無言で見つめ合う。 先に我に返ったのはカースだった。 「あっ、いや、悪い。急にーー」 慌てて引っ込めようとした手を、少年が強く握った。 「いいよ。僕。カースに触られるの、嫌じゃないよ」 「……っ」 言葉とは裏腹に、少年は酷く悲しそうな顔をしていた。 どうしてリンデルがそんな顔をするのか、カースには分からない。 ただその悲しげな瞳を見るのが苦しくて、男は目を逸らした。 ガサガサと音がして、少年がベッドの上に立ち上がったのが分かる。 まだ振り返れずにいる男へ、リンデルが手を伸ばした。 夜風にさらされ冷え切っていた男の頬を、少年の温かい手が優しく撫でる。 誘われたようで、男がぎごちなく振り返ると、少年はもう片方の手を反対の頬に伸ばす。 リンデルは、両手で男の頬を包むと、ふんわりと花のように微笑んだ。 「ど、うして……」 カースの喉から、掠れるような僅かな声が漏れる。 「?」 少年が、キョトンと首を傾げる。 少し見開かれた瞳が丸くて、月のようだと男は思う。 しばらくの沈黙の後、男が続けた。 「どうして、お前は、俺に触れるんだ……」 「えっ、カース、触られるの嫌だった?」 問われて、少年が慌てて両手を離した。 離された頬が、急速に熱を失う様に、息が苦しくなって男は戸惑う。 「……い、嫌じゃ、ない……が」 「が?」 少年が、可愛く小首を傾げた。 「他の奴に触られるのは、ごめんだ」 言ってしまって、男は軽く絶望する。 自分は、こんなに軽々しく心の内を晒すような奴ではなかったはずだ。 それなのに、この少年にだけは、易々と胸の内を見せてしまう。 自覚してしまうと、もう顔が赤くなるのを止められない。 「…………っ!」 男は、勢いよく少年に背を向けた。 ドッと何かが落ちて、ガササと藁の音がする。 男が背を向けた勢いで、長い服の裾に叩かれた少年がベッドに尻餅をついた。 「あっ……んっ……」 傷が傷んだのか、少年が甘く嬌声を漏らした。 男はわずかに肩を揺らす。 その声に、自身が反応してしまった事が、男には信じられなかった。 それと同時に、背後の少年のこんな声を、あの男はどれほど聞いたのだろうかと思う。 こんな……。こんなに、蕩けるような、甘い声を……。 全ては、自分がかけた術のせいだ。 間違いだらけの人生を選んでしまった男は、ここでまた、自身が大きな間違いを犯した事を痛烈に悔やむ。 ギリリと軋んだ男の歯の音に、少年は心が痛んだ。 またこの男は、一人きりで何かに耐えようとしている。 多分、ここに帰るまでも、ずっと我慢していたはずなのに。 少年は気付いていた。 カースの匂いが、今朝とは違う事に。 昨日、たっぷり少年に染み込んだゼフイアの少し煙いような毛皮の匂い。 それと同じ匂いが、今のカースからは漂っていた。 「カース、こっちを向いて?」 男は背中にかけられた声に、びくりと肩を揺らす。 それは甘く誘うような、柔らかな囁きだった。 「ね、その綺麗な眼を、見せてほしいんだ……」 懇願するような少年の声に、男の心拍数が上がる。 なぜこうも、俺のほしい言葉ばかりを紡げるのか、その口は。 ドクドクという心臓の音がやたら耳元で聞こえた。 ---------- ゆるやかに、男が振り返る。 俺の顔が赤いのも、もうこの少年にはお見通しなんだろう。 なぜかそんな風に思えて、男は半ばやけくそ気味に少年の金の瞳を見返した。 潤んだ金の瞳が、さも嬉しそうに細められて、男は息が止まりそうになる。 「ああ、やっぱり、カースの眼はとっても綺麗だね。森の色と、空の色だ……」 ゆっくりと、一つ一つ丁寧に、リンデルはそう言った。 男の、長く伸びた前髪に隠れがちな、森の色をした右目。 術を使う空色の左目は、その性質からかすぐ使えるように前髪を上げてあったが、オッドアイを隠す為か、反対の右目にはいつも長い前髪がチラチラと前を覆っていた。 リンデルは、小さな手で男の前髪をすくってみる。 サラサラと流れ落ちる黒髪はとても美しくて、指の合間からこぼれる事すら惜しい。 少年は、髪を優しく撫でながら、男の言葉を思い返す。 カースは、さっき、僕になら触られてもいいと言った。 他の人には触られたくないけれど、僕になら。と。 僕だけが、カースに触ってもいいんだ。 そう思ったら、なんだかとても嬉しくなって、顔が緩んでしまう。 でも、カースはさっきまで、ゼフィアに触られてたんだ……。 嫌だったのに、我慢して。 きっと、僕達のために……。 不意に、金色の瞳が悲しげに伏せられて、男は戸惑う。 満足そうに微笑んでいたその瞳に、なぜ急に悲しみが映ったのか、カースには分からなかった。 「……ごめんね、カース。痛かったよね……」 「っ……お前……っ」 突然の、少年の懺悔に、男は言葉を失った。 男の心を、激しい羞恥心と焦り、戸惑いが覆い尽くす。 渦巻く感情に、男は身動きが取れなくなる。 ……どうして。 どうして分かった? こいつには、俺は何ひとつ言っていないのに。 どうしてこんな、知られたくないことばかり。 どうしてこうも簡単に、気付かれてしまうんだ。 どうして……こいつは、そんなに、俺のことばかり……。 頭に血が上って、クラクラする。 顔も耳も、首まできっと真っ赤だ。 ぐつぐつと煮えたぎりそうな心の、その熱をどこへ向ければ良いのかも分からないまま、男は呆然と立ち竦んでいる。 そんな男の頭を、少年は小さな手でそうっと抱くと、小さな胸へ引き寄せた。 されるがままに頭を抱かれて、男が動揺する。 「ごめんなさい、ありがとう。でも、カースばっかり無理しないで……」 耳元でそっと囁く少年の声が、痛いくらい優しい。 「僕も、お姉ちゃんも、できる事をするから。一人で頑張りすぎないで……」 「……っ」 男は言葉を探したが、ただ喉の奥が詰まっただけだった。 こんな事、今まで言われたことがない。 それどころか、ひとりじゃなかった事なんか、国が焼けてから一度だってない。 じわりと溢れた暖かい何かが、自分の涙だと気付いたのは、リンデルに言われてからだった。 「カース、泣いてるの……?」 「……泣いてなんか……」 男は、少年の小さな胸に顔を埋めたまま、そう答えるのが精一杯だった。 時折、震えるように嗚咽を漏らす男の頭を、少年はいつまでも優しく撫でていた。 ---------- リンデル達が盗賊団と行動を共にするようになって、どれほど経っただろうか。 間に一度、隠れ里は引越しをした。 新しい場所も、結局は前と同じく街道からそう遠くない山の中で、川からほど近い場所だった。 リンデルの姉のエレノーラは、すっかり里にも馴染み、里で三人だけの女性の一人として他の二人とそれなりに楽しそうに過ごしている。 お頭の出した接触禁止令が効いているのか、エレノーラが里の中で危機を感じる事はほぼなかった。 一方でリンデルは、同じように令を出されていたにも関わらず、その明るく可愛がられる性格のせいか、何かのフェロモンでも発しているのか、時折里の内で拐かされる事があった。 もしかしたら、お頭とカースのお気に入りだという噂のせいもあったのかも知れない。 その日も、仕事から戻ったカースはリンデルが帰っていない事を知って、探していた。 「くそっ。どこだ、リンデル……」 エレノーラの言うには、昼過ぎに里の男達とワイワイ薪割りをしていたところを見たらしいが、それ以降は分からないらしい。 どこかで、辛い目に遭っているのでは……。 そんな思いが胸を掠める度に、それを考えないよう心の奥に押し込める。 掠めるだけでこんなに手足は震え、息も苦しくなるのに、そんな事を意識してしまったら、男は自分が動けるのかどうか分からなかった。 里の中はくまなく探し、林もざっと見てきた。 残るは、この無数のテントのどれかだ。 ひとつずつ尋ねて回るわけにはいかないが、こんな事をしそうな奴の寝ぐらは既に開けてきた。しかしその全てが空だった。 一人も残っていないという事は、全員一緒にいる可能性だってある。 ギリッと歯を鳴らした瞬間、鈴のような音が聞こえた気がした。 足を止め、耳を澄ます。 くぐもった、微かな声が、けれど途切れる事なく続いていた。 振り返る。そこには倉庫代わりに使われている大きめのテントがあった。 ああ、そうだ。昨日橋を立てるのに木材を大量に出した。ここは今空いているはず……。 頭の隅にそんな事を思いながらも、男は駆け寄ると乱暴にその布をめくり上げた。 中からは、男共の騒ぎ声。 やばいだとか見つかったとか、逃げろとかそんな悲鳴のようなものが上がる。 カースは視線だけで室内を探る。最奥で太めの男に組み敷かれている少年を見つけた。 ぞわり、と、全身の毛が逆立つような気がした。 カースが放った殺気に、男達が凍りつく。 待ってくれ、とか、そうじゃないとか叫ぶ男達の声は、カースの耳には届かない。 六、七、八人の男の顔をひとつずつ確認する。 大丈夫だ。こいつらなら、全員殺しても、団の運営に大した影響はない。 重職でない事を確認し、カースは口元を綻ばせると、腰からダガーを抜き放った。 「待って、カース!!」 リンデルの声に、カースは動きを止める。 そのおかげで、最初の一振りを辛うじて避ける事ができた男が、へたりと尻餅をついた。 致命傷こそ免れたが、服は切り裂かれ、その下に赤い筋を残している。 カースは、リンデルの方を振り返ろうとして、途中で目を背ける。 あんな姿をまた目にしてしまったら、この抜身の刃を振るわずにはいられない。 「皆は悪くないの、僕が…………っ」 珍しく言い淀んだ少年に、カースの胸が騒ついた。 カースが立ち竦んでいる間に、逃げ出そうとしている面々に、 「とにかく皆はお家に戻って」 とリンデルが脱出を促がす。 まだ入り口近くに立つカースを可能な限り避けて、部屋を出ようとする男達をギロリと睨み、カースはリンデルに背を向け叫んだ。 「お前ら!!」 その声に反射的に男を見上げた全員が、紫の光に目を奪われる。 気付いた時には、誰もがその術から目を逸らせなくなっていた。 「この事は全て忘れろ」 コクリと頷く者、了解の言葉を告げる者、様々な反応で、全員がカースの言葉に同意したのを見届けて、カースはリンデルの側まで行くと、その背に少年を隠した。 「もう帰れ」 ふっと正気に戻った男達が辺りを見回そうとするのを、カースが一喝する。 「全員! 自分のテントに戻れ!!」 カースの勢いに驚いた男達があわあわと去ってゆく。 遠のく足音が消えてしまうと、辺りは静まり返った。 「どうして……」 ぽつりと、リンデルに背を向けたまま、男が呟いた。 「……どうして、あいつらは『悪くない』んだ?」 カースは振り返ろうとして、しかし振り返りきれず、続ける。 「教えてくれ、リンデル……」 カースの苦悶の表情がちらと見えて、リンデルは自分の浅はかさを思い知った。 さっきのカースは本気だった。 僕が止めなければ、本当に、友達を皆、殺す気だった……。 訳を問われても、ただの親切心だったなんて、そんな事実では、こんなに思い詰めてしまった彼の心は救われないだろう。 どうすれば……。 どうしたらいいんだろう……。 少年もまた、途方に暮れていた。 いつまでも静かなままの空間で、カースが、ようやく覚悟を決めたのか、じわりとリンデルを見る。 カースの視線を感じて、慌てて少年は側に落ちていた服を拾い上げた。 テント越しの月の光に照らされて、少年の白い肌が、まだほんのりと桃色に色付いているのが分かった。 どうして……と、また男は痛烈に思う。 少年にかけた術はもうとっくに解いてある。 それなのに……それなのに、どうして。 あんなやつらに、犯されて、お前は感じてたってのか……? ぐらりと音を立て、男の理性が揺らぐ。 それに引きずられるように、男はその場に膝を付いた。 床には数え切れないほどの液体が撒き散らされている。 むせ返るその臭いに、男は目眩を覚える。 一体何度犯られたというのか、あれだけの人数、まさか……全員を相手にしたのだろうか。 視線を上げると、少年が慌てて服を着ようとしている。 その小さな手を掴むと、男は無言で歩き出す。 「え、ちょ、カース!? 僕まだ服……」 ひとまず服を拾い集めたリンデルに、カースは自身の上着を羽織らせるとテントを出た。 リンデルは、そのまま川岸まで引き摺られるように連れて来られ、そこで上着を引っ剥がされる。 男は膝下までのズボンをさらにまくり上げると、リンデルを連れて川に入った。 あの日と同じだ……とリンデルは思ったが、あの頃よりも、川の水はもっと冷たくなっていた。 カースは黙ったまま、リンデルを向き合うように抱えると、その指を後ろへと伸ばす。 少年がびくりと体を強張らせた。 「力、脱いとけよ」 言われて、少年が少しだけほっとする。 男の声は低く冷たい響きだったが、それでも、ずっと黙ったままだった男が話しかけてくれた事が嬉しい。 「うん……」 リンデルの甘えるような声に、カースは喉の奥が焼けるように感じた。 そんな甘い声を、あいつらに聞かせてたのか……? 今なら、喉が裂けるまで、大声で叫びを上げられそうだ。 それほどに、男は先程の状況が許せなかったし、まだ今だって、あいつらを全員切り刻みたい衝動は消えない。 ギリっと歯を鳴らしながらも、男が指を少年の入り口に這わせると、そこはぷっくりと腫れ上がっていた。 こんなに、なるまで、……っどうして……。 指は、抵抗なく中へと滑り込む。もう一本も難なく入った。 少年は時折ぴくりと肩を震わせるだけで、黙ったまま男に身を任せている。 ゆっくり丁寧に、男は少年の中へと注がれたものを外へ掻き出してゆく。 男が激しい怒りを堪えているのは、少年にもよくわかっていた。 だからもっと、自分は乱暴にされるものと思っていたし、その覚悟もしていた。 なのに、男はそれでも少年に優しかった。 リンデルの瞳から、涙が次々に溢れ出て、水面に幾重にも小さな輪を作る。 「ごめ……っ、ごめん、なさい……っ」 声を震わせて嗚咽を上げる少年の頭を、男はもう片方の腕で抱いた。 「僕……カースを、あんな、に……嫌な気持ちに……させ……っ!」 グイと指を奥に押し込まれ、少年が息をのんだ。 「……痛かったか?」 男の声は、まだ冷たい。 「……え、と……」 「あいつらに犯られて、痛かったか?」 「ぅ……。うん……」 リンデルが、しょんぼりと頷く。 「痛かったのに、ただ我慢してたのか?」 「……うん……」 カースが、動きを止めていた指をまたゆるゆると動かし始める。 慰めるように頭を抱いていた腕は腰に回され、ぐいと上へ持ち上げられる。 「奥まで入れるぞ」 男の声から、ほんの少し刺々しさが薄れている。 それを少年が嬉しく思った途端、お腹の奥まで刺さるような刺激に、声を上げた。 「ぅ、あっ」 水面と水平になる程持ち上げられた少年の腰。その向こうで、男の指が根元まで自身の中へと入っているのが、少年の目にも見えた。 ぞくりと、熱いのか冷たいのか分からないようなものが少年の背筋を這う。 「あ……僕の、中に、カースの指が、全部入ってる……」 上擦ったような声で、少年が思わずこぼした呟きに、今度は男の方がびくりと反応する。 「お前……俺の事誘ってんのか?」 「さそ、う……?」 潤んだままの金の瞳が、男の空色の瞳を見上げて尋ねた。 拍子に零れた涙の粒が少年の頬を静かに伝う。 それが酷く許せなくて、男はその涙を吸った。 そして、男はリンデルが泣くところを見たのは、これが初めてだったと気付いた。 ゼフィアに弄ばれて、涙の跡だらけになった顔を洗ってやった事はあったが、泣いているところを見た事なんてなかった。 自分はこの少年の胸で大泣きした事があったにもかかわらず。だ。 こいつはいつだって、なんでもないという風に、前向きに笑っていた。 俺の前では、いつも笑顔だった。 なのにどうして……。 「どうして、他の奴の前でばかり、泣くんだ……」 今夜の少年の頬には、やはり、無数に涙の跡が残っていた。 「カース……」 リンデルの宥めるような声に、男はハッとなって作業に戻る。 リンデルは時折小さく声を上げ、耐えているように見えた。 「これでいい」 男は、そう呟くと少年を腕から下ろし、顔も髪も全て洗って、川から上げた。 されるがままに大人しくしていた少年を、男は自分の上着で拭き上げる。 川岸の草の上にあぐらをかいた男の膝の上に、リンデルはちょこんと座っていた。 「僕、一人で拭けるよ……」 と恥ずかしそうにするリンデルに、男は 「怪我がないか、確認してんだよ」 と答えた。 少年の胸や腹には、あの時のような暴行痕は見当たらない。 月の光に良く照らしながら、じっとリンデルの肌を眺めるカースの視線に、少年はどうしようもなくなる。 「あ、あんまりそんな……見られたら……恥ずかしい、よ……」 そんな馬鹿な。と男は思う。 あんな風に、何人もの男達に見られて、犯されて、それが平気で、なんで俺に見られるのは恥ずかしいって言うんだ。 しかし、視線を上げてみれば、確かに少年は頬を染めていて、男と目が合うと、恥ずかしそうにその目を伏せた。 「どう、して……」 男から、何度も何度も胸中で繰り返された疑問の言葉が漏れる。 カースの声は、震えていた。 「あいつらは良くて、俺はダメなのか……?」 「ち、違うよっ! そういう事じゃなくて、カースだから、恥ずかしいの!!」 男の瞳が絶望を映しているのに気付いて、リンデルが焦りを浮かべる。 「だからっっそうじゃなくてっ! カースは僕の、特別なの!!」 伝わって、どうか。この人を悲しませる気なんて、僕にはカケラも無いって事。 森の色と空の色がまだ濁っていて、彼の困惑を伝えている。 「んーっっ! つまり、僕はカースの事が大好きなんだよ!!」 「……え……?」 「大好きで大好きで、とっても大好きだから、そんなに見られたら、恥ずかしいの!」 「……っ」 男の顔が、月明かりでも分かるほどに、真っ赤に染まった。 湯気が出てきそうなほどの赤面っぷりに、少年は思わず微笑む。 良かった。伝わった。 僕の気持ち………………僕の、気持ち……ーーっ!? 遅れて、少年も赤くなる。 こんなはずじゃなかった。こんなつもりもなかった。 この男にどうしようもなく惹かれていたのは確かだけど、それを男に押し付けようなんて、まったく思っていなかったのに。 姉や両親を想うような、そんな『好き』ではない事は、もう少年にはわかっていた。 けれど、男にとって、僕はどうだろう。 まだ今なら「お姉ちゃんと同じように」と言ってしまえば、無かったことにならないだろうか。 少年がぐるぐると考えている間に、男の腕が少年をそっと抱き締めた。 耳元に男の息がかかって、少年は息を詰める。 「なあ、嫌だったら言ってくれよ」 「んっ……、うん……」 耳元で男に優しく囁かれて、リンデルは思わず声を漏らした。 「キスしていいか」 「い、いいよ……」と答えた少年が、もじもじと恥ずかしそうに補足する。 「でも、僕初めてだから、どうしたらいいか分かんない……」 言われて、ひょいと男が少年を胸から離した。 森の色も、空の色も、驚いたように丸くなってリンデルを見ている。 「した事ないのか……?」 「え、えっと、お口とお口のチューは、した事ない……」 少年は恥ずかしそうに俯いてから、パッと顔を上げると、口を尖らせて言った。 「だって、それって、好きな人とするものでしょっ!?」 丸くしていた目を細めて、ふふっと、カースが笑った。 「ふふ、ふふふっ、ははははははっ」 「……カースが声を上げて笑うのって、はじめて見たかも……」 「はははっ。そりゃそうだろ。俺だって久々に聞いたよ」 「なんでいつもは笑わないの?」 「世の中が面白くねぇからな」 まだ笑顔を残したまま、カースがさらりと答える。 「だが、お前は最高だよ。リンデル」 「……っっ」 初めて見るカースの煌めくような笑顔に、リンデルはまた赤面した。

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